早起きは
いつもより少しだけ人通りの少ない地下通路を、最寄り駅に向かって歩く。普段なら改札口に近づくほどに、人々がごった返して、やや歩調を落とすことになるのだけれど、今朝はその限りではなかった。
一時間ほど、いつもより早い時間の通勤路。デパートの制服を着た女性が、入り口のシャッターを上げていたり、カフェの店員がショーウィンドウにケーキを並べていたり、年配のおばちゃんが、床を清掃していたりして、静かとは言えないけれど、にぎやかとも言えない通勤路。
流れていく平和な景色を眺めながら、僕は、先日井川さんから言われた言葉を思い出していた。彼は、男性社員のバレンタイン返礼企画に参加しないどころか、その起案自体を妨げようとする。
「そんなこと言われてもなぁ」
「何か酷いことでも言われましたか」
誰に向けたわけでもない呟きに返事が返って、僕はゆっくりと首を回した。
「おはようございます、秋葉さん」
視線を向けた先で、百井がにこ、と口角を上げていた。少しだけ踵の高い靴で、とことこと控えめな足音を立てている。ようやく意識が状況に追いついた僕は、少しだけ歩みを緩めることになった。
「おはよう。少し、驚いた」
「あはは、ごめんなさい。後ろ姿が見えたもので。初めは普通に声をかけたんですが気付いてもらえなくて」
「ちょっと、ぼうっとしてたから」
会社にいて、思考に夢中で周りのことに気付かなかったという経験を、僕はしたことがない。通勤中はまだスイッチが入り切っていないのだ、という自分の新たな一面を知った気分だった。
「もぅ。朝からそんなで、大丈夫なんですか?」
「いや、まぁ。会社につけば自然と大丈夫になるみたいだ」
「無理にスイッチでも入れるんですか?」
ぽちっと、と口で言いながら、彼女は人差し指を空中で跳ねさせた。
「いや、自然にだから。無理にってわけじゃない」
何故か、言い訳じみた言葉を僕は並べる。
「でもまた、疲れた顔してます」
そう言われると、僕は黙るしかなかった。今まで二回も彼女にはそれを言い当てられてしまっている。
「仕方のない人ですねぇ……」
彼女が呟いて、会話が止まった。僕は何か声をかけた方がいいのかと不安になる。
例えば。今日の立場が逆だったらどうだろう。百井が僕の何メートルか先を歩いていたとして、僕がその後ろ姿に気付いたとする。歩くスピードが違うのだから、あと二分もすれば僕が彼女に追いつきそうな状況だ。
たぶん僕はわざと歩みを緩めて、ともすれば、途中に都合よく入り口を構えているコンビニに入店して。きっと、自分から声をかけたりはしない。
誰かがまず歩み寄ってくれなければ、僕は自分から誰にも近づけない。誰かが始めに頼ってくれたとしても、僕はその誰かに安心して頼ることができない。
「いつもこんなに早いんですか?」
僕が再び自らの思考の海につかりそうになったとき、結局百井が口をひらいた。
「いや、今日はたまたま。いつもより一時間くらい早い」
「なるほどー。今日は特別な業務でもあるんですか?」
「いや、今日というか、最近残業が多いことにちょっと釘をさされて」
こてんと、百井が首を傾げる。確かに残業を減らすなら定刻より遅く出社すべきだ。それで僕は補足する。
「業務の絶対量は変えられないから、朝タイムカードを押す前に少し……。夜より朝の方が人も少なくて見咎められる可能性も低いから」
「そういうの、良くないと思いますよぉ」
僕の働き方が気に入らない様子なのは明らかだったが、百井はあくまでおどけた調子で言った。踏み込んで何か言うほどでもないと、思ったのだろう。
「そういう百井も、ずいぶん定刻より早い。忙しいんじゃないのか?」
「わ、私ですか? 私はその……、あ、そう。今日はちょっと早く目が覚めたので、外でモーニングでも食べていこうかなぁ、と」
「へぇ」
僕は、自分でも素っ気ないと思える態度で相槌を打った。平日の朝に店でゆっくり食事をしようなどと、僕は今まで思い至ったことがない。
「やっぱり、ホットサンドがいいかなぁ」
また数十メートル、互いに無言で歩いた後に彼女が独り言のように零した。歩きながらやや視線を上向かせて、左手の人差し指を細いおとがいにあてがっている。
ちょうど、ベーコンとレタスのはみ出たホットサンドが、通りかかったショーウィンドウの中段に並べられていた。
くい、と推進力に逆らう小さな抵抗を左腕に感じて、僕は歩みを止める。気が付くと百井は僕の隣から、少しだけ後ろで立ち止まっていた。
「秋葉さんも付き合ってくださいよ」
「え?」
言葉の意味を一度で捕らえかねて僕は聞き返す。
「付き合ってくださいよ、私のホットサンド」
「いや、今日は早めに仕事始めるって、さっき」
「別に、特別な業務があるわけじゃないんですよね?」
「進捗が、どちらかというと、芳しくなくて」
「頑張るのは、明日からでいいじゃないですか。かわいい後輩の頼み事の方が大事だと思いません?」
にこ、と百井が口角を上げている。そこまで言われてしまうと。
「頼みを聞くほど、深い関係ではなかったと思うけどなぁ」
「だからこそですよ。親睦を深めましょう?」
「まぁ、いいんだけど」
あくまで不承不承といった具合に、僕は頷いた。僕はこんなにも、揺蕩いやすい人間だっただろうか。
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