二月の苦労人
出世頭
超高解像多光子顕微鏡と、病理切片の高速スライドスキャナ、コンセプトは違えど、これらの機器は、一般人から見れば超高価な顕微鏡というカテゴリに属しているという共通点がある。二台と周辺機器諸々を合わせた総額は一億円を下らない。
研究所13階の微細環境イメージングルーム、通称MI室で、出社直後に僕は見知った顔に出くわした。
「おう、早いな。調子はどうだ? 見えてるか?」
まるで今日の天気を訪ねるような口調で、彼はいつも実験の調子を聞いてくる。
「正直さっぱりだ。次が駄目なら抗体は全滅。固定方法から検討し直しかもしれない」
溜息とともに答えた。
「そりゃ大仕事だなぁ。今はアメックスか?」
おどけた調子で両手を広げる目の前の青年は、よく日に焼けた浅黒い肌と、短く切りそろえられた短髪が印象的な同期入社の研究員だ。垣内という。
「ああ。正直あまり時間をかけたくないところなんだけど」
「まあ、仕方ないさ。試すっても、固定法なんて数が知れてる」
彼は研究所に二つだけ存在する、超初期段階の研究開発を進める部門、生体情報部の経皮吸収グループに所属している。同じく超初期段階の研究開発を行う化合物開発部の基礎探索部に所属する僕と比較的仕事内容は近い。
「次で見えることを祈るよ」
近いとはいえ、二、三状況を説明しただけで、本当に天気の話をするように会話がつながることからも、彼の知識の深さが伺える。その上彼は、僕とは違って、縦横問わず人とのつながりをつくるのが非常に上手いから、同世代では出世レースの筆頭だ。
「まあ、頑張れよ」
とはいえ彼にも、そういった人物なりの悩みはあるようだから、妬ましいという感情は一切持ち合わせていない。本当に。強いて言うなら、若いうちから給料が上がるのはほんの少し妬ましい、かもしれない。
「ところで、垣内は、総務の百井って新人知ってるか?」
垣内が多光子顕微鏡のPCを起動させたところで僕は話題を変えた。化合物開発部と生体情報部は若手社員の数が少なく、同期に関して言うのであれば、彼以外には誰もいないため、自然と雑談なども多く交わす仲である。
「総務ぅ? 俺らとは普段全く関わりがないな。多分知らない……あ」
一旦PCにパスワードを打ち込んでから垣内が顔を上げた。
「そういや、去年の夏ごろから話題になってる新人がそんな名前だったような。身長低めの女性だろ? 愛想のよさそうな」
「あぁ、多分それだな」
百井の顔を思い出しながら答える。正直先日の出来事はあまり鮮明に思い出せなくて、というより意識的に思い出さないようにしていて、想像の中の彼女の顔には少しもやがかかり始めていた。
「そいつがどうかしたのか? お前が自分に関係ない他人に興味を持つなんて珍しい」
「いや、もしかするとプロジェクトで少し仕事をするかもしれなくて。どんな雰囲気なのかと」
興味を持つなんて珍しい、という垣内の発言は綺麗に無視して、僕は適当に言葉を繕った。
「ふぅん……」
一瞬怪訝な顔を見せた垣内だったが、手元を動かしながら話を続けた。
「確か、当時聞いた話だとめちゃくちゃかわいいって、後輩が興奮気味に言ってたなぁ。それだけだとあんまり珍しくもないけど、新人にしては気が利いて、人当りがいいもんだから、一時期、総務に持ち込まれる案件が増えたって。ああ、そうだ総務の窓口役が天使みたいな女性になったって、噂だったかなぁ、最初は」
僕が陰で一部の人間にメイドと呼ばれていたことといい、噂はどこにでも立つものだと僕は苦笑する。
「なに笑ってんだ」
「いや、確かに以前までの総務の窓口は愛想がなかったな、と」
「はっはは、やめとけよ。聞かれると碌なことないぞ。それにお前に愛想がないと言われる方もたまったもんじゃない」
「僕はいつも愛想がいいだろ」
「愛想がよけりゃもっと同期に親しくしてるやつが多くてもいいと思うんだがなぁ。お前の場合、せいぜい三、四人か?」
「ほっとけ」
人間関係の輪は無暗に広げないのが僕の信条だ。
「あっはは。そういうところが愛想がないって言うんだよ」
これ以上応酬を続けてもおそらく僕に勝ち目はない。僕が口を噤むと、互いに暇ではないことを思い出して、それぞれの業務に集中するのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます