マグカップと疲労

 僕は普段あまり使用しない十一階を見回して、少し大きめのデスクに6脚並んだ椅子のうちの一つで、百井が社用のPCに向かっているのを見つけた。


 十一階に実験施設は無い。完全にデスクワークのためのスペースとなっていて、良く分からない趣向をこらした席がいくつも並んでいる。個人用のボックス席、十人が周囲を囲むことのできる円卓、立ったまま作業を行うカウンターなど。それらの配置は無秩序で、見方によってはごちゃごちゃとした印象をうける。


 設計者によると、こういった既存の概念に縛られないワークスペースは、創造を主眼に置く研究員たちが新たなアイディアを生み出す一助となるらしい。きっと、僕にもいい影響を与えてくれているはずだ、多分。強いて言うなら。


 僕のグレーのマグカップは百井の隣の席に置かれていた。少し迷ってから、僕は彼女の正面の席に腰を下ろし、そのカップを引き寄せた。


「あ、来ましたね」

 PCから百井が視線を上げる。


「そりゃ、カップを持ってかれたからな」

 PCとデータが閲覧できないのではとても仕事にならないため、わざわざ僕は一旦、十三階へそれらを取りにいく羽目になった。


「チョコレートありますけど、どうです?」


「いや、いい。それより、何か僕に用があって下に呼んだのか? それとも話し相手でも欲しかった?」

 キーボードに視線を落としながら問う。口に出してから、しまったと思った。言葉に少し刺々しさが出ている。最近仕事をため込んでいることも手伝って、夜の時間を邪魔される形となったこの状況に、無意識のうちにやや不満を抱いていたようだ。


 慌てて言葉を繕おうとして、視線を上げると、じっと、こちらを見つめている百井と目が合ってしまった。慌てて視線をディスプレイに戻す。しばしの沈黙。


「どうした。じっとこっちを見て」

 あまりに百井が視線を外さないものだから。それに、視線を外さないだけでなく、何も言わないものだから。耐えられなくなって、僕は質問を変えた。


「あ、すみません。秋葉さん、全然私の目を見てくれないなぁ、と思いまして」


「いや、そんなことは……」

 今度は慌てて視線を上げて、はっとする。


 彼女の指摘どおり、どうやら僕は今までまともに彼女の顔をみていなかったらしい。パントリーの折から意識はしていたが、彼女の顔の造型は想像以上に人目を引きそうだ。デスクワーク用の明るい照明の下で見ると、急にそんなことを意識させられた。


 きれいなアーモンド形の、子猫のように大きな瞳は、自分のことを何でも見透かされてしまいそうで、落ち着かない。ずっと見ていたいのに、そわそわと落ち着かない。


「夜目、遠目、笠の内って、あれは嘘だな……」

 胸中でむくむく広がる矛盾した2つの感情を彼女に悟られないように、わざと文化人じみた言葉をこぼしてみる。百井は上手く聞き取れなかったようで、こてりと首を傾げていた。その仕草がまた、ひどく男受けしそうだな、と先ほどより強く思う。


 思考の客観性が強くなってきたことで、自分が落ち着きを取り戻し始めたことを意識する。僕がそれきり黙っている様子を見て、百井は続けた。


「秋葉さんって、なんか聞いてた感じと違いますね」


「え? 聞いてた感じ?」


「はい。聞いてた感じ」


「僕のことを知ってたのか?」


「実は同期、というか、一、二年目の若手の中で秋葉さんってちょっと噂になってるんですよね」


「ほんとに?」


「ほんとです」


「……悪い予感しかしないけど。それはいったいどういう?」

 口に出しながら、背中をひやりと冷たい汗が伝うのを感じた。こういう噂というものは八割方がネガティブだ。知らないふりをしておくのが、会社内でストレスなく過ごすための一つの術だと、理解はしていた。


「メイドさんみたいな、先輩がいると」


「はぁ?」

 しかし、その方向性は余りに予想外で、僕には意味が分からなかった。理解できない様子の僕を見て、百井が続ける。


「基本的に、無表情で、何を考えてるか分からないけど、困っていると助けてくれるし、頼めば何でも手伝ってくれる。正直、結構な厄介ごとを起こしてしまっても、特に怒る様子もない。表情が見えないところはちょっと不気味だけど、何でもない顔でいろんなトラブルをいつの間にか解決している。とにかく、この人は使用人なのかなって勘違いするくらい無条件で色々助けてくれるって」


「はぁ……。それでなんでメイドに? 男なら使用人でも執事じゃないのか?」

 大きく溜息を一つつく。舐められているのだろうかと考えようとして辞めた。確か僕は面倒くさがりで、本質的には仕事を増やしたいとは全く思っていないのだけれど、上司に頼まれて、何かと厄介ごとの事後処理を任せられることも多い。


 それが後輩にそんな風に見られていたとは。


「それは、苗字のせいだと思います。私たちくらいの世代って秋葉原と言えば、メイドさん文化って印象が強くて。あ、言っておきますが私が言い出したわけじゃありませんからね」

 先程から彼女は指先が冷えるのか、淹れたばかりのコーヒーを両手でつつみこむようにしながら話を進めている。


「あたりまえだ……。そうか、それでさっき、メイド先輩って」


「き、聞いてたんですか」

 はっと百井が息を飲む。少し申し訳なさそうな表情だった。


「聞いてたよ」


「すみません……」

 しゅんとうなだれる。何もそこまですることはないだろう。その様子が少しおかしくて、僕は少しだけ表情を緩めてしまう。


「いや、いいよ。別に悪口ってわけでもなさそうだ。でも、なんかダサいから、もう呼ばないでくれると助かる」


「本人と知り合ってなおは、呼びませんよぉ」


「なら良し」

 二人して、少しだけ笑って、ようやく会話が途切れた。勤務時間を過ぎているとは言え、残業申請を行う時間中に雑談に興じるのは気が弾ける。マウスパットに触れて、スクリーンセーバーを切り替えると、開いたままの数字とエクセル表。三行だけ進んだVBスクリプトが目に入った。


 やはり、こんなことをしている場合ではない。ふっと、小さな溜息が漏れた。


 かたかたと、二人がキーボードを打つ音が、すっかり人の少なくなった夜のオフィスに響いている。


 しかしどうやら、彼女はやはり会話が得意な人種のようで、無言の時間は5分と続かなかった。


「やっぱり、秋葉さん、聞いてたのとすいぶん違います」

 ぽつりと彼女が呟く。視線はディスプレイに、両手はキーボードに添えたままだったから、注意するようなことではない。


「どんな風に? とても、ご奉仕精神にあふれているようには思えないとか?」

 僕も彼女に倣って、手を動かしたまま言葉を返す。すぐに少しだけ後悔した。今の僕の仕事が単純作業ならまだしも、今回のデータ整理は思考実験に近い。彼女の作業効率は落ちずとも、僕の仕事は確実に遅れる。一瞬だけ何もない中空を仰いだ。気付かれない程度の溜息がまた漏れる。


「そういうところですよ」


「え?」


 しかし、苦笑しながら継がれた百井の言葉は予想外で、僕は思わず作業の手を止める。いつの間にか百井はディスプレイから視線を外していた。


「頼み事をしやすいっていうのは、なんとなく納得かもしれません。でも、なんといいますか、何考えてるのか分かりにくいというのはちょっと……」


 彼女が言葉を探しているようだったので、僕は無言で続きを促した。百井は、うぅぅんと、何度か小さくうなってから、やがて口を開く。


「確かに秋葉さんは、表情は読みづらいですが、何考えてるのかは、なんとなく、分かりやすい気がします」

 その言葉に僕はしばらくの間あっけにとられた。僕のことを分かりやすいと表現した相手が初めてだったためだ。こう言ってしまうと少々変だが、内心が分かりにくいことが僕のアイデンティティであり欠点だと自覚していた節さえある。


「……そうか? 僕は自分でも、いろんなことが態度には出にくい方だと思うけど。なんでそんな風に思った?」

 たっぷりと10秒程、無言を貫いてから、間の抜けた声が僕の口から漏れた。あまりにも僕が黙っていたものだから、言った百井はなんとなくそわそわしていた。


「いや、なんでと言われましても。なんとなく、でしょうか」

 初めて僕のことを分かりやすいと評した人物が、その結論に至った思考回路だけは是非引き出しておきたい。


「じゃあ、例えば、今僕が何を考えてるか分かるか?」

 自分らしくはないとは思いながらも僕は質問を重ねる。


「ええぇぇ……いきなり言われても……。あ、そうだ」

 ぽん、と彼女が掌を打つ。再びマグカップで指先を温めながら、彼女は続けた。


「何を考えている、というよりは、今はとにかく疲れているように見えます」


「いや、そんなことは」

 咄嗟に否定しかけた僕を制して、彼女は続ける。


「いいえ。自覚はないにしても、疲れているのは何となく分かります。私、こういうのはあんまり外さないという自負があります」


「そ、そうか……」

 彼女の自信の源はさておき、勢いに少し気圧された形となる。と、同時に僕は酷く動揺していた。


 確かに、僕はここ数日、本来自分のものではない仕事をいくつか任されてうんざりしていたし、そのせいで少し残業が嵩んで疲労も溜まっていたかもしれない。だから、彼女の指摘は正しい。


 正しいのだけれど……。


 怒り、いらつき、倦怠感、疲労。そういった負の感情は、僕が一番意識して隠しているものだ。事実今まで、職場の誰にも自分の調子の悪い姿は見せていないという自信がある。それは会社で必要最低限の無難な人間関係を構築するために、とても役に立ったし、だからこそ不本意ながらも、後輩たちには分かりにくいなどと呼ばれてもいたのだろう。


 だが彼女にはそれが見えるのだという。


 僕が思考に浸っていると、ぴ、と百井が人差し指を僕に向けた。

「特に、目ですかね」


「目?」


「はい。心的ストレスの程は分かりませんが、身体の疲労は顕著に、目に出ているような気がします」

 思わず僕は左手を目元にあてがう。


「あ、その、具体的に見た目に出るということではなくてですね。ええ、どう説明すればいいでしょうか……。あ、そう。ツボです。それで理解していただけるかと」


 彼女はそうするのが癖であるのか、また小さく掌を打った。


「ツボ?」

 しかし、続いた言葉の意味は僕には分からない。女性はこういう時の思考の跳躍が男性より激しいというから、そんな時は素直に訪ねるのが一番だと思う。


「目が疲れているかはツボを押してみるとわかります。私が何を見てそう思ったかはさておき、先輩が疲れていることが分かれば、私の言葉が本当だったと分かります」


「あ、え、うん。それで?」


「眼精疲労のツボはここです」

 言いながら百井は自らの眼窩上部の、中心より少し内側を指した。


「ここを、こう、んん、ぐりぐりーっと」

 そして、目を閉じたまま10秒ほど、それを親指で押し込んでいた。


「ぐりぐりーっと?」

 彼女に倣って、僕もそのツボとやらを指圧してみる。


「視界が明るくなりませんか?」

 親指を話して、ぱちくちと何度か瞬きをしながら言う。


「ああ……。悪いけど、自覚はないな」

 しかし僕の方はというと、何かが変わった気配はない。


 そも、押し方が間違っているのかもしれないし、疲労がたまっているという彼女の言葉が間違っているのかもしれない。どちらにせよこの方法じゃ、検証は不可能なんじゃ……。などと考え始めたところで、百井は焦れたように、すくっと立ち上がった。


「あんまり、改善したようには見えませんねぇ」

 そして、僕の横にまで歩を進める。


「何だ? どうした?」


「目、つぶってみてください」


「なんで?」


「なんでも。つぶってみてください」

 何故かその百井の表情に少しばかりの威圧を感じて、観念して僕は目を瞑って見せる。


「ほら、つぶった…………んっ」

 視界が暗くなって数秒後、僕はその視界がさらにもう一段暗くなるのを感じた。と、同時に、じわと目の周りに熱が伝わる。


 背後には人の気配を感じて、びくりと心臓が跳ねていた。背中が熱くなっている気がする。これは、多分、後ろから両目を塞がれている?


「……あったかい」

 気付くと僕は呟いていた。動揺しきっている今の胸中を表すには、適当な言葉ではないかもしれないが、心拍は上がっているのに、脳はすっと安らいでいるようなひどく矛盾した感覚を僕は体験していた。


「マグであっためてましたから。頑固な眼精疲労の時は、少し温めてあげないといけません」


「なるほど」

 だからって、百井がする必要があるのか、とか、誰かに見られたら何というのか、とか、発するべき言葉はたくさん浮かぶのだけれど、そのどれもが、発声する前に面倒になって消えてしまって、僕はされるがままになる。


 無言の時間が続く。


 浮かんでは消える思考がようやく収まって、やがて、何も考えずに、ぼうっとしそうになった頃、急に、いかんともしがたいくすぐったさが込み上げてきた。


「これ、いつまで続くんだ」


「五分程、ですかね」


「なんか、恥ずかしいんだけど」


「大丈夫です。さっき、私たち以外で十一階に残っていた最後の社員の方が帰りました」


「いや、そういう問題じゃ……」

 だから誰かに見られることはありませんよ、とでも言いたげな百井の発言を、否定しようとするが、それも彼女に遮られた。


「視界を遮っているので、脳も休まるんです。そんなときに余計なこと考えてちゃ、損ですよ」

 一度、言葉を区切ってから彼女は続けた。


「だから、頭はからっぽで。ちょっとだけ休憩しましょう?」


「えっと……」

 耳元から、少しだけ普段より低いトーンの囁きが聞こえて、どくんと心臓が跳ねる。戸惑いながらも、しかし、彼女の言葉に逆らいはしなかった。


 それからの五分は長かったのか、短かったのか。起きていたのか寝ていたのさえも、後からは思い出せない。


「はい、おしまい。どうです? 少しだけ、明るくなったと思いませんか? もう少しだけお仕事がんばれそうな気になりません?」

 表情は見えないが、彼女は、にこと口角を上げている気がする。最後に、ぐりぐりと中指で僕の目のツボを押し込んでからの問だった。鈍い痛みが数秒続いた後、目をひらくと、やけにオフィスの照明が明るく感じる。


「あ、ああ。なんか、そんな気がする。……ありがとう」

 僕は、どこかふわふわと思考が空回りする中、なんとか礼の言葉だけをつぶやいたのだった。

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