後編
その日、雨は降っていなかつたが主人はそんなことには頓着せず吾輩を持つた。
背には赤い彼奴を背負い
「いってきまーす」
「気をつけるのよ」
母親の返事を待たずに、ゆめちゃんは飛び出した。
落着きがないのである。
信号を待つていても吾輩を開いては閉じてにたにたと笑つている。
目の前では大きな大きな〝とらつく〟が猛すぴぃどで通り過ぎる。すまあとふおんを片手に話しながら運転する車が少女の至近距離をよぎる。もし、少しでもはんどるの角度を違えばたちまちのうちに、このおさなき少女の体なぞ、遥か彼方へふつ飛んでしまうであろう。
小さな主人は信号の青色を見て横断歩道を渡り始めた。吾輩は後悔した。こんなことならば早々に自ら命を絶つてしまえば良かつたのだ。新しくてかわいい傘を買い与えてもらえば良かつたのだ。
吾輩の色褪せた猫の紫色が、信号の黄色を青色へ、ぼやけさせてしまつていたのだ。
「あぶない!!」
声が出るのならば、喉はりさけんばかりに叫んでいたであろう。
体が動くのであれば、雷のように動いて彼女を留めていただろう。
しかし吾輩は傘である。
叫ぶことも体を動かすことも出来なかった。吾輩はこんなにも自分が傘であることを呪つたことはない。
老人の乗つた黒い車が幼い少女を轢いた。小さな体が野球ぼうるのように空中に投げらる。
ああ、神様。感謝致します。
吾輩は感謝せずにはいられなかった。
吾輩がその小さな手に収まっていたことに。
少女のからだは吹き飛ばされた。が、しかし、傘は雨から、そして突風からも主人を守るのである。衝撃で吾輩のゆるんでいた留め具が外れる。吾輩の皮膚が花弁のように開き、少女の飛ぶ速度をゆるめてくれたのである。しかし。
少女を死に至らしめる速度はまだ健在であつた。
このまま地面へ落ちてしまえば必死。
(ああ、すまぬ)
全身の骨を折られながら吾輩は謝罪した。彼奴もまた、主人を守るために生きてきたのであつた。少女の体は背中からあすふぁるとへ落ちた。凶悪な大根おろしのやうな地面との間には、しかし、らぁんどせるがいたのだ。
「傘さんよ、後は頼んだよ」
吾輩には彼奴の声が聞こえた気がした。断末魔ではない、その声は感謝に満ちていた。吾輩にはその気持ちがわかる。数舜前も、今も、吾輩も同じ気持ちであつたから。すなわち。
ゆめちゃんを助けたい!
その気持ちだけで吾輩たちは動いていたのだ。
らぁんどせるの身体が地面にけずられていった。皮は地面にこびりつき、金具はひしゃげ、原型をとどめなかつた。彼はもう不能であろうことがすぐにわかつた。
「寂しがるな。吾輩もすぐに逝くであろう」
吾輩は言つたが、その声を聴けるもの――らぁんどせるはもうそこにいなかつた。地面にこびりついた赤色がむなしく、一直線に、彼の終わりを告げていた。
吾輩も骨という骨は折れ、皮は穴だらけである。これでは到底傘とは言えない。あとは捨てられるだけであろう。しかし、吾輩は満足していた。
少し寂しいが彼女が無事ならと、何事もなく立ち上がつた少女を見てそう思うたのである。
しかし
予想に反して吾輩は生き続けていたのであつた。
※・※・※・※・※・※・※・※
「あなたは命の恩人よ」
大人になったゆめちゃんの傍らで毎夜、吾輩は彼女を見守つている。事故によつて折れに折れた骨もすつかり修理されて、べつどで彼女と添い寝するぶんには申し分ない。
もう大きくなってしまった彼女の体を、ちいさな吾輩は雨から守ることはすでにできない。しかし、そんなことはどうでもいいのであつた。彼女が生きてさえいれば。
吾輩は傘である。名前は未だない。永遠にない。
しかし、吾輩はゆめちゃんの傘である。永遠に。
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