第18話*袖振り合うも多生他生の縁(3)

 一方、絢音は。

 化粧室を出た後、ホールにつながるロビーの端でソファーに腰掛け休憩をしていた。

 実は、あちらこちらで同じ高校に通う令嬢たちと遭遇してしまい、その度に足を止めて会話をしていたので疲れてしまったのだった。令嬢の世間は狭い…。

『お嬢様学校』の世界は主に4つの階層カーストに分かれている。

 上から順に清華家の流れを組む令嬢、次に新旧財閥令嬢(薫子はここ)、その下が成金令嬢、最後に庶民である。絢音はもちろん最下層であり、友人のほとんどは場違いだと自覚しながらも親の見栄で入学することになった少女たち。

 ただ絢音が彼女らと異なる点は、上位階層に外戚がそこそこ存在しているということだろうか。故に、学校内での絢音の立場は微妙で、あちらこちらから『お茶会』の誘いを受ける。そして耳聡い彼女たちの関心事はもっぱら弟・花奏であった。

 昨年の文化祭…唯一男性が学内に踏み込むことが許された日に姉の誘いで花奏がやってきた。最大級の愛想を振りまく弟は、令嬢たちの無垢な乙女心を鷲掴みにし、震撼させた。今思えば弟を招いたのは明らかに失敗だったと思う。

 顔の良さが全ての難を覆い隠す弟の…一体何がそれほど魅力的なのか…。

 彼女らに花奏の本性を暴露したところで「そんな花奏様も素敵」と、恋は盲目発言をするに決まっているのだ。花奏の魔性、おそろしや。

 深いため息を漏らした時、絢音に影が差す。

「…ああ、絢ちゃん。ここにいたんだね」

 呼びかけられて顔をあげると、そこには見知った青年が立っていた。女性的で、育ちの良さを感じさせる柔らかい面差しの青年は薫子の兄、黒川瑞希みずきだった。薫子同様に幼少期からの仲で、いわゆる幼馴染だ。

「瑞希くん!」

「少し久しぶりだね、元気にしてた?」

 瑞希は絢音の横に腰掛けるとにこやかに問いかける。

「元気だよ。瑞希くんは今来たの?」

「うん、作業に没頭していたら置いていかれちゃってね。聡おじさんには、さっき挨拶してきたところだよ」

 苦笑いを浮かべる瑞希は現在、国立美大の1年生で19歳。

 彼と薫子の実家はとある日本舞踊の流派を継承する家柄で、現在は彼らの祖母が家元である。薫子はすでに踊りの名手となっているが、瑞希は踊りではなく、絵画の道を選んだ。

「今日も絢ちゃんはとても可愛いね。着物、よく似合ってるよ」

 瑞希は昔から自然に褒め言葉が出てくる少年だったが、それは大人に近づいても変わらない。

「ありがとう。このおばあちゃまのお着物、レトロさが可愛いよね」

「とても可愛くしているのだから、こんな端にいたらもったいないよ」

「食べすぎちゃって…ちょっと休憩中なの」

 瑞希の側からすれば、着物を含めて絢音を褒めているのだが毎回伝わらない。

「最近、あまり家に遊びにきてくれないね。薫子が寂しがっているよ。もちろん、僕もね」

 僕、を強調気味に伝えるも絢音は受け流してしまう。

「あー…うん、ごめんね。バイト始めちゃったから、なかなかおばあちゃまのお供ができなくなってしまったの。でも、この前はふたりでお店に来てくれてありがとね」

 黒川兄妹は時々連れ立って絢音のアルバイト先のカフェに遊びに来てくれる。ふたりともすこぶる容姿が整っているので店内ではとても目立つのだが。

「カフェの制服姿の絢ちゃんも可愛いからね。目の保養になるよ」

「そうなの、制服が可愛いのよね」

 彼女自身を褒めても、必ず着衣のことだと勘違いしてまともに取り合ってくれない。そう、瑞希は絢音に好意を抱いているのだが、伝わった試しがなかった。

「絢ちゃん、また僕の絵のモデルになってほしいんだ。昔はよくモデルになってくれたよね。僕が描く人物画は君だけと決めているから」

「……子供の時はともかく、今は…向いてるとは思えないよ?」

 せっかく描くのならば、もっと美しい女性の方が意欲が湧くのではないだろうか。

「そう思っているのは絢ちゃんだけだよ。僕はずっと君だけを描いていたいくらいだ…君が許してくれるなら、一生ね」

 いつの間にか瑞希との距離は詰まって、絢音の耳に囁くように告げられる。

「…み、瑞希くん…あの…」

「どうしたの?」

 息が首筋にかかる。

「えっと…」

 すごく近い、と頬を染めて戸惑いを口にしかけたとき、絢音を探しに来た花奏がふたりの前で仁王立ちになる。

「はい、そこまで」

「か、花奏!」

 弟の登場に絢音はどぎまぎし、慌てて立ち上がる。

「全然戻ってこないと思ったら、こんなところで油売ってたわけだ」

「あ、油は売ってないわ。休憩してただけよっ」

「休憩、ね…」

 口説かれていたように見えたけど。

 じろりと花奏は瑞希を睨むが、彼は動じる様子もなく微笑み、立ち上がる。

「こんにちは、花奏くん。久しぶりだね」

「どうも、瑞希さん」

 花奏は薫子同様、瑞希にもある程度本性を晒している。人当たりの良い美少年武装する相手ではないと判断しているのだろう。

「そういえば…花奏くん、さっき薫子が興奮気味に報告してくれたよ」

「?薫子ちゃんがどうしたの?」

 絢音は首をかしげる。

「ゲストに目の覚めるような美形がいたんだってね。しかも、その相手に君が対抗心むき出しにしてたとか…」

「………」

「僕が来たときにはもうその麗人は会場をあとにしていたけれど……僕も見てみたかったな」

 残念、と瑞希は花奏を冷やかすように言う。

「え、そんな綺麗な人がいたの?!花奏、その人と挨拶したの?!」

「……まぁね」

「えーわたしも会ってみたかったなぁ…」

 休憩している場合ではなかったか。

「ねーちゃんはあんなのに会わなくていいよ。それに、顔は全然負けてないから俺も」

 なぜだか弟は少しふてくされている。珍しい。

 花奏は自身の容姿に自信のような強い自負を持っている。ナルシストという意味ではなく、その使い道や影響力をよく心得ているという意味で。その花奏をして、対を張る、またはある種の脅威を覚えるほどの美貌の主と対峙したのだろう。一見の価値ありの人物だったに違いない。

「すごい人だったのね。ますます興味が出てきちゃったじゃない」

「興味持たなくていいから」

 完全にニアミス。

 ファナイオスの代表が来ることは事前に知らされていたが、その甥まで顔を出すとは思わなかった。

 高嶺遠矢、ファナイオス躍進に見え隠れする悪魔的存在。遥も面食らっていたので本当にサプライズだったのだろうが、救いは絢音があの場にいなかったことだ。

 不意の遭遇。あの男を見極めるには時間が短すぎた。

 それにしても、高嶺遠矢への対抗意識を薫子に見抜かれていたとは……。

 くそ、俺もまだまだってことか。

「花奏、そんなに美形対決に負けそうになって悔しかったの?」

「そんなんじゃないよ。っていうか負けそうになってないし。…まったく、ねーちゃんは気楽でいいよね」

「えぇ?!なんでそうなるの?!」

 花奏は小さく息をつくと姉の手を取り、絢音への好意を隠さない瑞希から引き剥がすべく「ほら、戻るよ」と促して歩き出した。



 ※



 秘書に車の手配を任せ、下降する空のエレベーターの中、高嶺遠矢はガラス張りの視界から広がるビル群へ目を向けながら苦言を述べる。

「…伯父さん、僕を後継者のように紹介するのはやめてくれないかな」

 視線だけ伯父の仁志に向けて続ける。

「ファナイオスは伯父さんの会社だよ。注目を集めるのは本位じゃない。僕に経営権はないのだからね」

「すまない遠矢、しかし今日は来てくれて助かったよ」

 申し訳なさそうにする伯父の姿に遠矢は嘆息して向き合う。

「来なければ研究開発資金を凍結するなんて脅されてはね」

「そうでも言わなければ重い腰を上げてくれないと思ったのでね。…まあ本気ではなかったよ」

 遠矢の運用資金を凍結したとしても、別の手段を講じてあっさり取り返されてしまうだろうが。

「僕は今回の提携話は伯父さん任せで関与していないし、魅力もさして感じてはいなかったのだけれど、彼…いや、彼らというべきかな…を目にして伯父さんの意図がわかったよ。…あの藤崎家と繋がりを持つことが目的だったのだね」

 遠矢はエレベーターにもたれかかり、腕を組む。

 仁志は小さくうなずいた。

「その通り。以前から次男の遥君とは顔見知だったけどね、公に藤崎本家を紹介してもらういい機会だったんだよ。社交で人脈を築くより閨閥のひとつに食い込むのが近道だったからね」

「真偽は定かではないけれど、彼らは貴種流離譚を地で行く一族だそうだね。遡ればさる高貴な兄妹の子孫だとか…禁断の」

「遠矢」

「わかっているよ、この話が禁忌だということは。…でも、あの若君の見目麗しいかんばせを目にして、僕のような馬の骨でも納得したよ。あれが〝呪いの顔〟なのだと」

 藤崎の男たちが異様なほど整った顔立ちをしているのは、血の呪いなのだとまことしやかに囁かれてきた。禁断の関係に至った兄の顔と諱を継承し続ける呪い。彼らの罪の姿。

 藤崎花奏と名乗ったあの少年、表面上の麗しさとは裏腹に強かさを感じた。己が価値をよく理解しているのだろう。

「確か、諱は葛城かつらぎだったかい?…出自を示す古代の皇子の名を継承し続け、血塗られた玉座から逃れ、後継争いからも政争からも遠ざかり徹底的に朝廷や時の政府とは距離を置き、市井の民となって生き延びてきたと。いまだに政財界、法曹界への直接的な就業を忌避しているそうだけれど、皮肉だね。そんな彼らが現代ではあらゆる閨閥の中心にいるとは」

 遠矢は肩をすくめた。

 いつの世も、すべてを手に入れた者が最後に欲するのが、貴種の血だ。

 宇宙旅行が目前に迫った21世紀となっても、その価値や尊さは不変だと言わんばかりに。

「でも意外だな。迷信だ時代錯誤だと軽んずるつもりはないけれど、伯父さんも彼らの血を欲するひとりだったとは」

「否定はできない。だが魅力はその血ばかりではなく、彼らを取り巻く外戚筋だ。我々のような成り上がりは肩身がせまいからね」

「それは、ごめんよ。僕が急激にファナイオスを大きくさせすぎてしまったことが原因だ」

「いいんだ。これで本当はお前が継いでくれれば安心なんだがね」

「今は伯父さんの会社なのだから僕ではなく、晴臣君が継ぐべきだよ」

「……晴臣か…いや、駄目だあいつは。お前と違って才能がない」

 仁志には息子が一人いる。遠矢の従兄弟だ。

 複雑そうに呟く伯父の顔を見つめ、遠矢は僅かに眉を寄せた。

「自分の息子を駄目なんて言うべきじゃないよ、伯父さん。彼は繊細なだけだ」

「…あぁ…そうだね…」

 決まり悪く笑う仁志に遠矢は諭すように告げる。

「伯父さん、僕は毒と同じだ。今後僕のような男が役立つのは、精々会社が大きく傾いた時くらいのものさ。事業が安定している間は向かないし、逆に腐らせてしまうだろう。取締役たちも小僧が大きな顔をしていたら疎ましく思うだろうしね。会社の未来を思うのなら、晴臣君のために今から最善のブレーンを揃えておくことが肝要だよ」

「その中にお前は含まれていないのかい?」

「…晴臣君の方で願い下げだろうね。…それに、僕は僕で専念したいことがある。なすべきことが…。そのためにファナイオスを大きくしたのだから」

 残念ながら、遠矢は『豊かな者による支配』を望む単純な野心家でも俗物でもはない。同時に『市場の蝿』から彼を遠ざけるのが仁志の役目でもあった。故に、今回のように公の場に呼び寄せるような真似は避けてきた。しかし、あわよくば遠矢を藤崎家の息女と対面させられたらという自身の欲望がまさり、彼を呼び寄せた。結果、邪な考えを運命に見透かされ顔合わせは見事すれ違いに終わったが。

 急くべきではなかった。反省しつつ別の話を振る。

「……そういえば、いつき君に聞いたんだがね。最近楽しそうにしているそうじゃないか、遠矢」

「樹が…?…あぁ…そうかな。…うん、そうかもしれない」

 遠矢は少し考える姿勢をとる。

「ほう、何があったんだい?」

 感情の起伏が平坦な甥の返事に興味深く問いかけると。

「妹がね」

「?」

「僕に『妹』ができたんだ」

 遠矢は飾らずに微笑む。

 仁志は驚いた。

 その謎めく『妹』の存在よりも、作り笑いではない甥の表情を見たのは久方ぶりのことだったので。

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