瑠璃
毎度の如く、アップルパイを食べている途中でうたた寝していたようだ。
いつか首をやってしまいそう。
丸い卓に乗せた腕の上に、さらに乗せた顔を横にした体勢でのうたた寝を後悔するのもいつものこと。
しかし常になく充満する酸っぱい匂いに疑問を抱きつつ、痺れた腕に顔を顰めた瑠璃が外に逃がそうと瞼を持ち上げると。
「よう」
一年前、交通事故で亡くなった好敵手、もとい真赭のくたびれた顔が瞳に映った瑠璃は、まだ夢の中のようだと瞬時に認識すると同時に、痺れなど一切介さず、顔を上げて両手で真赭の両頬を挟むように叩いた。
思い切り。
すると山彦のように遠くから叫び声が耳に入ってきた。
「いったい。あんたの無精ひげは凶器ね。損害賠償金を請求するわ」
「ん」
眼前に差し出されたものに、痛みを振り払っていた動作を止めた瑠璃はやおら瞬いた。
「なにこれ」
「アップルパイ」
「そうね。アップルパイね」
「早く受け取れよ」
「ん」
真っ白い丸い皿。
幾重もの層を成す優しい卵色のパイ生地。
縞模様を織りなす焦がれ香色の細いパイ生地からこぼれんばかりに顔を覗かせるのは、淡い桃色と黄色が混在する林檎。
四角いアップルパイにちょこんと添えられている、四角いクリームチーズ。
受け取ってはまじまじと見つめた瑠璃。あんなに暴食したにもかかわらず、食欲をそそる匂いに釣られて、いつの間にか手に持っていたフォークで四等分、一口大に切り分けてから、一切れをフォークで刺して口に近づける。
バターの塩味、蜂蜜と林檎の甘味、正体不明、恐らく酢酸の酸味がほのかな匂いをくゆらせていた。
いただきます。
小さく言っては、口の中に招き入れる。
さくさく、しっとりした感触の後に、しっかりバターと蜂蜜の味を感知。
このまま蜂蜜と僅かな酢酸で煮詰められた、甘さとちょうどいい酸っぱさ、そして林檎の特有の優しい甘みを堪能できるはずだったの。
だが。
目を白黒させた瑠璃は、口に入れたアップルパイと同じ大きさのクリームチーズを手で掴んで口の中に突っ込んだ。
慌てていたせいで、親指を噛んでしまい、踏んだり蹴ったりだ。
瑠璃はキッと真赭を強く睨みつけるも、彼はあーあと呆れた声を出しながら、皿にクリームチーズを追加するだけだ。
「夢の中でくらい優しくしようとか思わないわけ。信じられない。こんなに檸檬をどっさり入れるなんて。しかも種入り皮つき。苦い。苦すぎる。甘味も酸味も苦味に浸食されて台無しよ」
「けど、クリームチーズを合わせたら、苦みが緩和されるばかりか、甘味も酸味も苦味も調和されて美味しいだろーが。むしろ一つ一つの味が際立ってんじゃないか」
瑠璃はぐっと押し黙ってしまった。
その通りなのだが、素直に同意するのは関係上できない。
なんたって、好敵手なのだ。好敵手。
「入れすぎ。限度ってもんがあるのよ」
「へっ。まだまだおこちゃまなおまえの舌には早かったか」
「誰がおこちゃまよ」
「俺が亡くなって一年経つのにめそめそしてるとこと、寂しくて寂しくて堪らなくて早く心の穴を埋めてくれる人がほしいのに、前面に必死感を出し過ぎて相手に引かれてふられてるとこ」
お茶らけた口調で言っていた真赭は、大粒の涙を流す瑠璃を見て目を丸くした。
「は。や。泣くことねーだろーが」
「莫迦。塩味が足りないから仕方なくこーしてるだけよ。うち。今塩ないし」
ぽたりぽたりと、大粒の雫が落ちたアップルパイと半分に切ったクリームチーズを口の中に入れては、もぐもぐと味わって飲み込んだ。
「やっぱり苦いわよ。莫迦」
「莫迦ってゆーほーが莫迦なんですー」
「莫迦よ。莫迦。暴走した車なんか颯爽と避けなさいよ」
「できるか」
「あんたが事故った日。アップルパイ勝負をするって言ってたじゃない。用意してた焼いてないアップルパイ。おばちゃんに許可もらって、棺桶に入れたわよ。初じゃない。美味しそうな匂いがしてたし。火葬場にいた人たちのお腹の鳴る音がハーモニーを奏でてたわ。もし勝負してたら私の圧勝だったわね。あんたのアップルパイ。苦いし」
「そりゃあ、あの日俺たちのアップルパイを食べるはずだった親たちの判定次第だろ。どーせおまえのは甘ったるいだけだろうしな」
「酢酸入れてたから、バターと少しの酸味の後に、蜂蜜と林檎本来の甘味が口の中と言わず、身体中に広がって、多幸感に包まれていたのよ。しかも、カスタード入りよ。バニラビーンズ多めの。勝ちは間違いないわ。あんたが。死ななきゃ。莫迦。ほんと、莫迦」
「あー。まあ。だから会いに来てやったし、アップルパイも食わせただろ」
「うちの両親とおばちゃんには?」
「は?」
目を点にした真赭に、瑠璃は勝気な表情を見せた。
涙は流したまま。
「三人にも食べさせて来てよ。夢の中で。いますぐ。私もすぐに起きて材料を買って作りに行くから」
「おまえなあ」
「できないなら私の勝ちってことで。あんたの墓前に敗者ってでかでかと旗を立ててやるわ」
ふふんと鼻で笑う瑠璃を見ながら、片手で髪を掻き回しながら考えた真赭。わかったと言っては、立ち上がる瑠璃をまた座らせてから、一年後と言った。
「一年後。俺の母親。二年後。おばちゃん。三年後。おっちゃん。レシピを変えるのは禁止な」
「望むところよ」
瑠璃は最後の二切れを一気に突き刺して、あんぐりと大きな口を開けて、嚙み砕くように大きく動かした。
「クリームチーズがないと食べられたもんじゃないわよ」
吐き捨てるように言い放つ瑠璃に、真赭はおこちゃま舌とからかうのであった。
(2021.9.5)
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