Report 11 憎悪を萌すもの(8)

 桐野に名前を呼ばれた河辺は、驚いたような、訝るような、どちらともいえない表情をしていた。


「え? なに? 二人、お知り合いなの?」


 少し混乱した様子で島嵜が口を挟む。

 桐野は、混乱していた。


(……うだるように暑い夏の日。絶望と不安と怒りのやりどころがどこにもなかったわたしに、わずかな時間だけ寄り添ってくれた女性。――記憶の中の彼女が、いま目の前にいる)


 もし灯が亜人だったのならば、あのとき桐野の目の前で見せた不思議な力も説明がつく。

 あれは、水術系の超能力だったのだ。 

 いま桐野は、同じ術師になっている。

 そのことを、彼女に伝えたい。

 そして、あの時のお礼を言いたい。 

 その気持ちが、灯の名前を口に突き出させたのだ。


「どうして、私の下の名前を?」


 河辺灯の第一声は、桐野の期待に沿ったものではなかった。

 けれども、目の前の人物が灯であることに確信を得た桐野にとって、それはささいなことだった。

 桐野は、五年前の出来事を灯に語った。


「あの……。五年ほど前、赤城山麓の森で一人の女の子を介抱して、野犬から守った憶えは……」

「赤城山麓――あっ。……君、まさかあのときの?」


 灯はあの日のことを思い出してくれた。

 その返答に、桐野は顔を綻ばせた。


「思い出してくれた!?」

「うん、人助けなんてそうそうしないし……。――いや、ちょっと待ってくれ。君も術師になったのか?」

「何言ってんの、そうじゃなきゃここにいないよ」

「そうか。……しかし、驚いたな。術師になったこともそうだけど、ずいぶん成長してたから」


 そう言われて、桐野の胸の中に未知の感情が込み上げてきた。それは、こそばゆいような温いような気持ちだった。桐野にとって、「久しぶりにあった知り合いが自分の成長を誉めてくれる」経験など、ほぼ初めてのことであったからだ。


「ねーねー、お二人サン。つもる話があるなら、ちょっと場所変えない? 知ってる喫茶店あるんだけど」


 会話に介入してくるイソマツに、現世が「おお、『パキラ』のことを言っておるのだな?」と注解をした。


「パキラ?」

へいちゃんのやっている店のことなのだ」

「ああ緒澤さん……。そう言えば普段は喫茶店のマスターやっているって言っていたな。てゆーか、結局あれから逃げ延びたのか?」

「まあ平ちゃんなら、そうしたであろう。それより金曜の日替わりは、たしかエリュマントス・ピッグ妖牛グラス・ガブナンの合挽きハンバーグ定食なのだ! 灯どの、と言ったな! 一緒に行こうぞ!」


 はしゃぐ現世に灯は「あ、ああうん。私はいいけど……」と戸惑いながら応えた。

 だが、賢治が制止させる。


「待て現世、オレたちは罰として掃除させられているんだ。寄り道なんてしたらまた徳長先生に怒られるぞ」

「む……。たしかにそうであるが、でも再会できたことを喜び合いたいのではないか? 桐野?」


 逡巡する子どもたちに、維弦が声をかける。


「俺から徳長先生に頼んでやろうか?」

ツルちゃん! よいのか!?」

「ああ、せっかくまた会えたんだ。少し話をするくらい、徳長先生だって許してくれるだろ。今度いつ機会があるともわからねえし、ゆっくりして来い。……平祐アイツも店ん中じゃー気の良い店主だってことくれーは、俺もわかってる」


 維弦はスマホを開いて、徳長に電話をかける。


「羽山です、さっきはすんませんでした。ええ、魔導警察にゃあ余計なことは話してません。それとは別に、ちょっと賢治たちアイツらのことでお願いがあるんですが……」


 しばらく話をしてから、維弦は電話を切った。


「あんまり遅くならないようにしろってよ」

「どうもありがとうなのだ、弦ちゃん!!」


 現世は心からのお礼を述べた。


「急に誘ってごめんね、灯さん」

「いや、ちょうど今日の夕飯を何にしようか悩んでいたところだったから大丈夫だよ。それと『灯』でいいよ、桐野」

「わかった――行こう、灯」


 桐野が、はにかむような笑顔で灯に言った。

 すると島嵜が、河辺のバケツとぞうきんを取り上げて言う。


「あたしが片づけておくから、早くみんなと行ってき」

「会長……ありがとうございます」


 そうして賢治たち五人は、島嵜と維弦にいま一度お礼を述べてから、特魔学校から辞去した。




   ★


 すり鉢上に窪んでいる清丸町であるが、円島特別訓練魔導学校は高台の方にある。そのため坂下の星刻丘の近くにある喫茶パキラに行くには、階段上の長い長い公道を下っていく必要があるのだ。

 その道中で、灯は自分のことを少し話してくれた。


 灯は、「川天狗かわてんぐ」の亜人の真祖であった。


「やっぱり、あの時わたしが見た川の水を操る力は、水術ハイドロキネシスだったんだ」

「そう。だから『術師じゃない人に見られた』って思い、そそくさと退散してしまったというわけさ」


 川天狗とは、西関東の多摩地方近辺に多く住んでいる亜人の種族である。

 天狗の中でも比較的平和な性格で、滑稽こっけいといえる術を人に見せるとされている。例えば、せせらぎの音をどこからともなく聞かせる、天狗火と呼ばれる熱くない火の玉を見せてビックリさせる、などといった他愛もないものがあげられる。しかし中には、川の水を操り、川を汚す人間を引きずりこんでしまうなど、恐ろしい伝承も伝えられている。


「見間違えじゃなかったんだね……。わたし、あの後お礼を言えなかったことをずっと気にしていたんだ。ありがとう、灯」

「いやいや、礼なんて受けとれないよ。ケガの確認もせずに、去ってしまったんだから」

「ううん。それでも、助けてくれたことには変わりないから」


 そんな二人のやり取りを見て、後ろをついていくイソマツと現世が感想を述べる。


「何か仲良さげじゃん? 一回会ったきり、って感じには見えないよねェ」

「よきことかな、よきことかな。桐野は同世代の友だちも、目をかけてくれる年上の先輩も、これまでおらんかったからの……」


 ようやく三丁目の住宅街に入ると、街灯がまばらで暗いように感じた。一軒家よりもアパートやマンションが多く、明かりのついている部屋があまりなかった。


「この辺は家賃が安いし、独り暮らしが多いからね……。遅くまで働いているんだろう」


 そういう灯も、この三丁目南のアパートに住んでいる。学校から近く、またバイト先も三丁目の物流倉庫であるため、ここを選んだのだ。


 現世が「あそこなのだ!」と指差した。


 街灯と月の光に照らし出されていたのは、古色蒼然とした佇まいの一軒屋であった。

 扉の上に掲げられる「喫茶パキラ」と書かれた看板からは、店の歴史を感じさせてくれる書体と色褪せ具合をしていた。


「にゃーん」

「わっ!?」


 鳴き声がしたと思って足許を見ると、金色の目だけが浮かんでいた。

 平祐の飼い猫であるザインだった。


「おお、ザインか!! お店の警備ご苦労様なのだ!」

(黒猫だから、夜は闇に溶け込んでちょっとビビるな……)


 イソマツが扉に手をかける。

 するとベルが涼しげな音を立て、中から挽きたてのコーヒーの良い香りが漂ってきた。

 聞こえるのは、エリック・サティの《グノシエンヌ第二番》。カウンター、椅子、壁紙等々が飴色基調のカラーリングで統一されていた。


(――すげー。おじさんが学生の時代に通っていたような店の話、そのまんまだ……)


 夢幻の素子は交わって、共感覚的な刺激を賢治に与えていた。脳髄がタイムトリップしてしまったのではないかと、一瞬錯覚するほどだった。

 店内はカウンター席六つと、四人がけのテーブル四つに二人がけのテーブル二つという構成だ。金曜の夜であるから書き入れ時のはずだが、半分以上の席が空いていた。


「いらっしゃい――なんだ、現世ちゃんたちか」


 カウンターの中で立っていた平祐が挨拶した。


(この人、本当にあのまま逃げおおせたのか)

「平ちゃん! 6時間ぶりなのだ!」


 現世が元気よく挨拶する。


「え? 何のこと? 俺が今日キミたちと会ったのは今が初めてだよ?」


 平祐は穏やかな笑顔を浮かべたまま――しかし目は完全に「余計なことを言ったらどうなるかわかっているな」という酷烈さを剥き出しにして、そう答えた。

 灯以外の四人は射止められたように、その場に硬直した。


「お、おう、そうであったな。すまぬすまぬ」


 いつもは堂々としている現世ですらも、平祐の有無を言わさぬ迫力に圧倒されて、やや口ごもった。


「こちらのお席に、お座りください」


 ショートボブのウエイトレスが賢治たち五人を、四人がけのテーブル席に案内する。足りない一席は、他の空いている椅子をあらかじめ持って来てくれたようだ。


「さ、じゃあ座ろっか。灯」


 桐野がそう灯に言うと、灯はコクリと頷いた。




   ★


 席に着いた現世たちは当初の予定通り、「夜の日替わりセットを五つ(コーヒー・紅茶は食後)」を注文する。

 灯は桐野に、そもそもあの日どうしてあの場にいたのか、あの日からどういう日々を過ごしてきたのかを話した――〔扉〕の保持者である現世の保護役、というところは省いて。


「なるほど。それで今は、その人の家にお世話になっているということか。しかし、清丸高とはすごいね……。日本でも最高クラスの進学校じゃないか。……本当に頑張ったんだね」


 慈しむような目で灯は言った。


「いや……。ただ努力の結果が、目に見える形で現れるのが好きだったから、勉強していただけで……」


 桐野は誇らしいような、気恥ずかしいような表情をした。

 それは、久しぶりに会った親戚のお姉さんに成長を誉められたような、普段の桐野ならまず見せないような顔だった。


「灯は、いつから今の学校に通っているの?」

「四年前から。汎人界に潜りこんでフリーターやっていたんだけど、未登録術師対策局の職員サルベージャーに相談してね」

「そんなに前から……。ということは中学一年から学び直したってこと?」

「特別訓練魔導学校は、働きながら通っている生徒も珍しくないからね。卒業まで何年もかける人もたくさんいるんだ。汎人界の定時制や通信制もそうだろう?」


 すると賢治が、口をはさんできた。


「相談? 彼らは学校や職場などに派遣されているみたいですが、どうやって接触できたんですか?」 

「汎人界に派遣されている未登録術師対策局局員サルベージャーは学校や職場に限らず、様々な行政施設にも局員を派遣しているんだ。その代表的なのが職業安定所で、そこの総合受付には術師であるかどうかを判別する魔道具が置いてあるのさ」

「どうやって判別するのですか?」

「LEDランプみたいな装置なんだけど、霊力の存在を知っていて感覚勁路が開かれている人間にしか認識できない光が灯されているんだ。それで『この光ってるの、なんですか?』と訊くと、奥から局員が出てきていくつかの質問に答えさせられるんだよ」


 それは「霊知灯ジャッジライト Judgelight」と呼ばれる魔道具であろうと、桐野は考えた。以前、術師界に入る前に行われる適性検査で見せられたことがあった。


「それで、特別訓練魔導学校への入学を勧められてね」

「なるほど……。でも、どうして術師界で暮らしていこうと最初から思わなかったんですか?」

「……『四月事件しがつじけん』って聞いたことあるかい?」

「いいえ、わかりません」


 賢治がそう言うと、場に少し緊張が走った。


「ああ……。ごめん灯、青梅は先月に術師界入りしたばかりで、近代魔導史はまだ勉強途中なんだ」


 桐野がそう補足する。

 すると灯が、四月事件の概要について話し始めた。


「四月事件というのは1931年――昭和六年四月に起きた、術師と亜人による大規模な暴動と帝国の弾圧により、多くの死傷者を出した事件のことさ」

「昭和六年……、昭和恐慌で経済がガタガタだった時代ですね」

「よく知っているね。そう、二年前にアメリカで起こった世界恐慌の余波で日本経済が危機的な状況に陥った。糊口を凌ぐことさえままならない人たちが溢れかえったんだ。それは、今でいう汎人も術師も皆等しく同じだった。そんな情況で起こったのが、四月事件だ。事件とはいっても単一の出来事ではなく、複数の事件の総称なんだ。これらの事件の切欠となった最初の事件は、魔導人民主義者の魔術師である氷室蔚ひむろしげるとその妻が行方不明になった事件、氷室事件だ。氷室と通じていた非合法組織に属する魔術師や亜人たちの目撃情報によると、当日陸軍の兵士が出入りしていたことがわかったんだ。そこから人づてに『二人は陸軍の憲兵に殺されたんだ』という噂が、真偽不明のまま燎原りょうげんの火のように広まり、抗議活動や示威行動を起こすようになった。これまで散々差別的な扱いをされてきた積年の恨みがあるうえに、昭和恐慌の苦境に立たされていた術師たちは、帝国政府への不満が爆発したんだね」


 灯の話は、とても理解しやすいと賢治は思った。

 知識だけはあっても、他人に分かりやすく伝えるということが苦手な賢治は、うらやましいと思った。


「最初のうちは、怪我人が散発的に出る程度の小規模な暴動で済んでいた。だけど術師たちと同じように不況に喘ぐ、帝都周辺の街や農村で対抗的なデマが飛びかった。『怪しげな力を使う連中や、新興宗教じみたやつら、あるいは人民主義者が、大規模な内乱を起こそうとしている』というデマがね。氷室事件は汎人の間でも広く知れ渡ったから、このデマには信憑性があった。そのため事態は、急速に悪化した。やがて、汎人たちのなかの血気盛んな若者を中心として、暴動を阻止せんと自発的に『自警団』という名前の愚連隊を組織するようになっていったんだ。この自警団によって『術師狩り』や『亜人狩り』が行われ、死人が出る凄惨なリンチが多発した」

「集団心理というですね……。それにしても、むごいです」


 賢治は、眉をしかめてそう言った。

 人間の集団は苦しめられて不安になったときに、個人で考えるということが往々にしてできなくなる。個人の責任は曖昧になり、ヒトは徹底的に残酷になる。

 灯は目を少しだけ伏せたかと思うと、湿やかな声でこう言った。


「その通り、どうしようもなく惨かった……。私の父も、その自警団の連中に殺されたんだ」

「……! ごめんなさい……!!」


 賢治は自分が、触れてはいけないことに触れてしまったことに気づき、平謝った。


「いや、いいんだよ。かつて相模原には川天狗のごく小さな集落があって、父と母と私の、三人暮らしで住んでいたんだ。だけど帝都を襲った大震災で、母と集落のみんなはほとんど死んでしまった……。それからは父が、畑で育てた野菜や川魚、小さな窯で焼いた炭を、近隣の住民に行商して細々と暮らしていたんだけど、やはり暮らしは厳しくてね……。山奥にあるもっと大きな集落に移住することにしたんだ。それで引っ越しの当日……、私たち親子は自警団の襲撃にあった。父は匕首あいくちで首を刺されて……即死だった」

「ひどい……」


 灯はコップを手に取り水を飲む。

 それからまた、話を続けた。


「私だけが、命からがら逃げおおせることができてね。それ以来人間の社会に紛れ込んで、職場を転々としながら食いつないできたんだ。術師界が成立しても、父を殺したヒトノコの……ああごめん、これは今は差別用語なんだよね……汎人たちが作った社会というものへ、正式に加わることがどうしても解せなくてさ……」


 賢治は、因幡と徳長から何度も術師界の成立経緯について教わっていた。その経緯が示すものは、術師による自治を目的にしているというのは建前で、本当は汎人の都合で術師を支配するために作られたというものだった。

 この話を踏まえると灯の心情は、賢治にとって察するに余りあるものがあった。


「ただそうは言っても、食っていけなくなってね。解決の目処が立たない不況に加え、個人情報の管理が年々厳しくなる現代社会においては、私みたいな身の保障もできない根無し草はどこの職にもつけなくなってしまった。だから今回、思い切って術師界に入ることにしたんだ。……情けないね。意地張って長年フラフラした挙句、結局大きなものにすがっちゃうなんて」

「――灯どのは、情けなくなんかないのだ」


 意志の強さを秘めた凛とした声が、重たい空気を打ち破る。

 現世だった。


「灯どのは自らの意志で大きな流れに飛び込んでいった、強い意志の持ち主なのだ。そして、つらい経験を重ねてきたのにもかかわらず人を助けることができる、優しい心の持ち主なのだ。何も恥じることなどないのだよ」


 それは、灯の背中を押すような指摘だった。


「……うん、そうだね。ありがとう」


 灯は口の両端をやわらかく吊り上げ、こう応答した。


「――妖豚と妖牛の合挽きハンバーグ定食、お待ちどう様です」


 ウエイトレスが、料理の乗ったトレーを賢治たちの前に差し出す。ミニプレートの上に乗った厚めのハンバーグはパチパチと音を立てて、香ばしい肉の香りを漂わせていた。きびきびとした動作で、すぐに人数分の料理がテーブルの上に並べられた。


「¡Guayグァイ, que buena・ブエナ pinta・ピンタ!(うわあ、美味しそう!)」


 イソマツがフォークとナイフを両手に言う。


「――いただきます」


 賢治はナイフをハンバーグに刺し入れて切り開く。

 たまねぎのエキスと肉汁がじんわりと滲み出る。そして一口サイズに切り取り、口の中に運ぶ。


「……あつっ!」


 咀嚼そしゃくしようとした途端に、肉汁が溢れ出てきた。

 だが次の瞬間、賢治の口腔と鼻腔は、豊潤な肉の旨みと香りを堪能することになる。


「……! な、なんだこの肉汁は!? それとこの不思議な食感! 最初は固いと思ったのに、二回目の咀嚼ではスッと裂けていく! 食べ応えが堪らない!」


 基本的な味は牛豚合挽き肉のハンバークとほぼ同じである。しかし噛むと出てくる肉汁の量は、はるかにこちらの方が多い。練られてなお密度の高い妖牛グラス・ガブナンの肉が、その旨みがギンギンに詰まったエッセンスを閉じ込めているのだ。味付けは魚醤ガルムソース。醤油によく似た味わいで、日本人の舌にはよく合う。


「そしてこのコクのある魚醤……。緒澤さん、これは一体なにを原料にしているんですか?」


 賢治が平祐に質問を投げかける。


「んー? それはねー、コーンウォールのファルマス湾で獲れた大海蛇シーサーペントの一種、モーガウルの魚醤がベースだよー。シーサーペントは英国だと『ニシンの王』と呼ばれていて、味がニシン目のカタクチイワシの風味とよく似ているんだ」

「カタクチイワシ……! 煮干しや塩漬けアンチョビの原料! なるほど、だからこんなにコクが深いのに、親しみのある味わいなのか。そして、添え物であるキャベツのソテーの塩味はアンチョビによるもの。肉の添え物としてはぴったりだ……」

「ちなみにカタクチイワシは、相模湾でも獲れるね。この円島でも、それで作った魚醤がかつては名産品のひとつだったらしいよ」

「アンタらは、料理マンガの登場人物かよ……」


 賢治と平祐のやり取りに対し、桐野は半ば呆れ声をこぼした。


「いやいや桐野。これは本当に美味しい。賢治くんたちの反応も無理ないよ。――ありがとう、連れていってくれて」


 そう灯が、微笑んで言う。

 すると桐野は少し照れくさそうに、「灯が満足なら……」と言って顔をそらした。




   ★


 食事が終わると、さっきのウエイトレスが皿を片づけてくれて、コーヒーと紅茶を出してくれた。三つのホットコーヒーが賢治、桐野、現世。イソマツと灯が、紅茶だった。


「青梅、アンタ何杯砂糖入れるんだよ」


 桐野が、三杯目の砂糖をコーヒーに入れる賢治に向かって言った。


「その分、頭を使うからいいんだよ」

「糖分の過剰摂取はインスリンの多量分泌を招くから、かえって脳の働きを鈍くする。加えてドーパミンによって依存状態を引き起こすから、悪循環に陥るよ」

「……お前が現世に作る激甘パンケーキに比べれば、大したことはない」

「なっ! ……フン!」


 そう鼻を鳴らして桐野は、ブラックのキリマンジャロを口に含んだ。


(……うん。もぎたての果実のごとき芳醇ほうじゅんな酸味。エグみがなく爽やかな後味。……ここのマスターは人格こそアレだけど、コーヒー豆の選別能力と挽く腕前は卓越したものがある)


「このアールグレイは深い……。ベルガモットのフレーバーがよく効いている。森の中にいるようだ」


 そう灯が言った。


「しかし、ちょっと暑いね……。渠波羅みぞはらさん、水おかわりー」


 イソマツがぼやきながらウエイトレスを名前で呼んだ。

 気づくと、いつの間にか客の数が増えていた。また調理の熱が窓と換気扇では逃がし切れず、室内は心なしか暑くなってきた。カウンターの奥から「渠波羅さーん、クーラーいれてー」という平祐の声がした。

 灯は暑さのためか、左目を覆っている前髪を掻きあげて拭った。


「……!」


 その時、桐野は見た。

 灯の左眉の横に、バンソウコウが貼ってあるのを。

 昼間の徳長と平祐の会話を思い出した。



 ……手口は風由のときと全く同じで、小瓶に入れられたどこかの川の水を弾丸のように打ち出す水術系の術です。突然の襲撃で、二人はあっという間に昏倒したみたいですね。かろうじて意識があった識人が《ジャイロケット・アイシクル》を唱えたのですが、襲撃犯のニット帽をかすめるだけで終わりました……



「灯……。その傷……」

「ん? ……ああ、これは朝に擦りむいちゃってね。元々古傷があるから、切れやすいんだ」


 そう説明する灯。

 けれども桐野はその灯の言葉に納得することはなく、疑念を深まらせていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る