妖怪篇
Introduction
「何が、『ともだちと仲良くなれますように』だよっ!! くそったれ!」
そう叫んで、逆十字のキーホルダーを泥の中に投げ捨てた。
わたしの叫び声が、残暑の陽射しが厳しい林の中で反響した。
「くそっ、くそっ!」
捨てただけでは気が収まらず、何度も上履きで踏みつけた。身体を動かすたびにあちこちが痛んだ。
細かい傷はそこら中にあるし、右頬や左腕などはひどい青あざになっていた。デニムのショートパンツから剥きだした足には、あちらこちらにひっかき傷ができている。消火器やら椅子やらを振り回しまくったため、筋肉痛も相当だ。
「……勝手にいなくなりやがって」
わたしは肩で息をしながら、親の形見であるキーホルダーを親の仇のようににらみつけた。
それから、ゆっくりとその場から離れようとした
「……」
だが三歩ごとくらいに、振り返ってしまう。
後ろ髪が引かれる、という表現が適切なのだろうか。胸の奥がチクチクと痛んだ。
(……お母さんの、最後の手がかり……)
――ごめんね、なかなか会えなくて。おばさんおじさんの家では、いい子にしてる?
――桐野は、どんどんお利口さんになっていくね。
――その逆十字のキーホルダーはお守り。桐野がともだちと仲良くなれますように。
「なあ」
不意に呼びかけられた。
わたしは後ろを振り返る。
そこには、浅葱色の薄いパーカーにジーンズ姿の若いお姉さんが立っていた。
その手には、さっきわたしが捨てたはずのキーホルダーが握られている。
「これ、捨てていいのかい?」
問い質すような口調で、パーカーのお姉さんは言った。涼やかな一重のサファイア色の瞳が、わたしを捉える。
はっきりと見えることから、幽霊の類いじゃなさそうだ。
「あ……? 誰だよアンタ」
「質問しているのはこっちだ。捨てていいのかと訊いている」
パーカーさんはどことなく、世の中のはみ出しものっぽいビジュアルをしていた。長身で寸胴体型。左目だけが隠れた黒のショートヘアで、瞳はサファイア。たぶんカラコンだろう。顔つきは端正で中性的な魅力を湛えており、心が惹かれるのを感じた。
だが、その達観したような態度が燗に障った。
「バカじゃねーの。いらねーから捨てたんだろーがキタロー女」
わたしはそう冷たく返す。
けれどもパーカーさんは、顔色ひとつ替えずに指摘を続けた。
「いらないなら、何度も振り返らないだろう」
「うっせーな! 関係ねーだろアンタに、は――」
頭に血が昇ると、フッと力が抜けてしまった。足元がもつれ、体が重力に引っ張られていく。
「おい!」
倒れそうなところを、パーカーさんに抱きかかえられた。
「よ、余計なこと、すんじゃねーよ……」
「意地張ってる場合か。何があったかは知らないが、熱中症になりかかっているぞ」
パーカーさんは、いやがるわたしに無理矢理肩を貸す。林の奥へ行くと、せせらぎが聞こえてきた。
木漏れ日のなか、小さな川が流れていた。
彼女は、パーカーのポケットからハンカチを取り出す。それを水につけるとまず、ひっかき傷から流れる血を拭いてくれた。
「
患部に触れると痛んだ。
けれども、その冷たさが心地良かった。
「ここは上流に近い。だから、冷たいし澄んでいる」
パーカーさんは、ドンキホーテの特売で売ってるような安っぽいリュックの中から、ポカリスエットの500ミリリットルを出す。そして、キャップを捻って開ける。
「私が飲もうと思って買ったヤツ。これもあげるよ」
わたしは女性から、ポカリを受けとろうとした。
すると、サッと上にあげる。
「人からモノをもらうときに言うべきことは?」
わたしは「いい子ぶってんじゃねーよ」と心の中で蔑み、口を「へ」の字に曲げた。
「……ありがと」
だがわたしの意地は、のどの渇きに数秒で屈した。
搾り出すような声で礼を言うと、パーカーさんは「よろしい」と言ってポカリをくれた。
飲み口を、唇につける。
ほどよい冷たさの液体が舌の上を流れ、ゆっくりと飲み込む。果実のような甘みと、わずかな塩味。のどが二、三回脈打ち、よく知っている味が口の中に満ちて潤していく。
「……アンタ、名前は」
「人に名前を尋ねる前に、まず名乗るべきでは?」
「いちいちうるせーな。……桐野。桐の箱の『桐』に、野原の『野』……」
「桐野か。いい名前だ。わたしは
クールな外見に似合わない、可愛い名前だと思った。
「……灯。アンタ、平日のこんな時間に何してんの」
「フリーターなんだよ。今日は、出荷量が少ないから昼まで」
「なんだ。プータローじゃねーか」
「君こそ、学校がある時間だろう」
「わたしのことはいいだろ、どーでも。いいよねアンタ、自由そうで。親が健在だからぷらぷらしていられんだろ?」
すると灯は、目を伏せてこう言った。
「――父親は死んだよ。母もいない」
その言葉を聞いたわたしは、自分を恥じる気持ちがかあっと込み上げた。
偏見に苛まれているわたしが、他人を偏見で判断してしまったのだ。
「……ごめん」
罪悪感に耐え切れず、謝罪の言葉を口にした。
ナメられたら終わり、と思って決して頭を下げないことが心情のわたしにとって、こんなことは滅多にないことだった。
「いいよ。気にしなくて」
無礼と浅慮にも関わらず、灯はそう言ってくれた。
――こんなにも対等な扱いを受けたのは、いつぶりだろうか。
「……あのさ」
その灯の誠実さに、わたしは思わず口を緩ませてしまった。
「……さっきのキーホルダー。母親がくれたんだ」
わたしは灯に、今わたしが置かれた状況を説明する。
父無し子として産まれ、親戚に引き取られたこと。母親とは、ほとんど会えなかったこと。去年母親が行方不明になったこと。親戚の間でたらい回しにされ、虐待同然の仕打ちもされたこと。学校でひどいいじめを受けていること。特に、母親が失踪してからはそのことをネタにされていること。
……ただ、「他人に見えないものが見える」ということだけは、どうしても言えなかった。
「――なるほど。それで、お母さんの悪口を言われてカッとなり、暴れて学校から逃げだしたというわけか」
「そんなんじゃない。自分の身を守るためだよ」
せせらぎの音。柔らかい木漏れ日。遠くから聞こえる鳥の声。
自然のノイズによって緊張が解かれたためか、弱気が口をついて出た。
「……こんな世界なくなってしまえばいい」
わたしがそう言うと、灯は「君は嘘ばかりだな」と返す。
「母親はまだ死んだと決まったわけじゃない。そうしたら、永遠に母親に会えなくなる」
「死んだも同然だよ。何の連絡もないんだし」
「それでも、君はそのキーホルダーを捨てられなかった。それは
淡々とそう言う灯に、わたしはムッとした。
「行きずりがわかったよーなこと言うな。わたしをこの状況から救ってくれるわけでもねえのに」
「ああ、わからんさ。人は
わたしの頭に、灯の白魚のような手が触れた。
「――こうして寄り添うことだけだ」
灯の指は細く、長く、整った形をしていて――温かかった。
「……」
わたしはその手を払いのけることをせず、ただうつむき黙っていた。
母親以外の人間でこんなにも接近するのを許したのは、生まれて初めてのことだった。
ガサッ。
その時、藪の中から大きな影が飛び出した。
「――!?」
影はわたしを押し倒して、組み敷いた。
野犬だった。
灯が「桐野!」と叫んだ。
犬の生臭い息が顔にかかる。
わたしは助けを求めて、灯に視線を向けた。
その時、信じがたいごとが起こった。
ドシュッ――
水のビームは野犬のわき腹に命中する。
野犬は「キャイン、キャイン」という甲高い悲鳴をあげて去っていった。
わたしは、倒れたまま呆然と灯を見つめていた。
「……い、今……なにしたの」
灯は、質問に答えない。気まずそうに目を反らす。
それから、別れの言葉を口にした。
「……じゃ、もう行くよ。そのハンカチはあげるから」
砂利の音を立てて、灯が去っていく。
わたしは、無意識にその背中へ向かって右腕を伸ばしていた。
「待っ――」
――がばり。
「……!?」
わたしは、右腕を伸ばしたまま硬直した。
聞き慣れた目覚まし時計のけたたましいアラーム。見慣れた学習机。何度も遊んだPS vita。手作りである現世を象った大量のぬいぐるみ。カーテンから漏れ出す朝日。そして、いつものベッドとブランケット……。
そこは、わたしの部屋だった。
目覚まし時計を止めて、スマートフォンを立ち上げる。
そこには、「06:48 2017年5月26日(金)」と表示されていた。
「……起きなきゃ」
そう言って、わたしはきびきびとベッドから降りた。
――久しぶりだな。あいつの夢を見るなんて……。
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