Report 11 憎悪を萌すもの(1)
桐野は障子を開けて自室から出ると、廊下を挿んで真正面にある現世の部屋のふすまをノックした。
「現世、まだ起きてないの? 入るよー」
ふすまに手をかけて開く。
そこに、現世の姿はなかった。
カーテンなど、あちらに用意されていて不必要になったものだけが寒々しく取り残されていた。
「……そうだった。現世はもう、この家にはいないんだ」
桐野は、物悲しい気持ちで一人つぶやいた。
現世が出て行ってから桐野は、朝起きるたびに間違えてこの部屋を開けてしまっていた。
最初は、自分から現世を奪った賢治のことを憎んでいた。
魔術を覚える前はずっと親無し子として虐げられ、魔術を覚えてからはずっと努力を重ねてきた桐野は、タナボタ的に現世の相棒の立場と強大な力に恵まれた賢治のことが、心底気に入らなかった。
けれども、賢治とともに生活をして、ともに戦ったことで、彼が自分の弱さと立ち向かえる勇気の持ち主であり、他者のために行動することができる優しさの持ち主であることを知った。
しかし賢治に対して好感を持てば持つほど、現世に依存していた自分の心は空洞が開いたような虚ろな気持ちになっていき、自己嫌悪へ陥っていくのであった。
(ダメだなわたしは……。あれから何週間も経っているのに、未だに気持ちを切り替えられていないなんて)
★
桐野は歯磨きを終えてお茶の間に入ると、徳長に挨拶をされた。
「おはようございます、桐野さん」
だが徳長の顔は、朝の爽やかな雰囲気に似つかわしくない、厳めしい雰囲気に湛えられていた。ここしばらく目にクマを溜め続けていたのだが、今朝はさらに深まっていた。
「イソマツはまだ起きていないんですか」
桐野は、
「ええ。公欠だと思って、ギリギリまで寝ている気ですよ」
もちろんのこと、徳長が眉間にしわを寄せているのはそんな
「……今日のことが、そんなに不安ですか」
桐野がそう言うと、徳長は眉間のしわを深めた。
「あたり前ですよ。今日の陰陽保安局での聴取では、私はマジックミラー越しに監視することはできても同伴して入室することはできません。それも、一人一人別室で取り調べが行われます」
それは先週の金曜日。
清丸高でのひと騒動があった後の深夜の因幡邸に遡る。
……
…………
………………
「……陰陽保安局? 何ですか、それは?」
賢治が首をかしげながら訊いた。
ここは、因幡邸の茶の間である。
清丸高の校長と教頭との話し合いが長引き、賢助も不在であったため、この日は賢治と現世は因幡邸で泊まることになった(なお徳長は、賢助に連絡した際に清丸高での顛末を伝えたのだが、大変厳めしい言葉を喰らったらしい)。
遅い夕ご飯を終えて、0時も過ぎようかとしていたときに、徳長から今日の「門」対策合同会議の報告が行われたのだ。
その中には、先日の二件のマガツに関する事件の聴取が陰陽保安局で行われることも含まれていた。
「この国の術師界の公務術師結社であり、警察機関の一つです」
徳長がそう答えた。
「魔導警察とは違うのですか?」
「普通の魔導警察が取り扱えない、専門的かつ公安に関わる事件を扱うのが、陰陽保安局です。陰陽保安局の職員である陰陽保安士は『特別警察術師』といって、魔導警察官ではありませんが同等の権限を与えられているのです。汎人界でいうところの麻薬取締官なんかに近いですね」
「公安」という言葉に、賢治は嫌なものを感じた。
「公安……。あの、もしかして退魔連合と関わりが深かったりします?」
魔導警察が退魔連合の影響力が非常に強いことを賢治は、麻枝との一件で痛いほど知った。
そのため警察機関である陰陽保安局も、退魔連合と何かしらのかかわりがあると踏んだのだ。
だが徳長の答えは、予想を上回るものだった。
「関わりが深いどころか、退魔連合の基礎をつくりあげた組織の一つですよ」
「……詳しく聞かせてもらえますか」
「いいでしょう。私はこの前、退魔連合は妖魔同盟への抑止力として作られた、と言いましたよね?」
「はい。圭子先輩からは『この国は、戦前から魔術の研究を許されていた術師たちにその役目を任せた』と聞きました」
賢治は圭子から、山吹家は平安時代より続く陰陽道の名家の分家だと説明を受けていた。明治以後は、本家が陰陽道の研究に専念する一方、西洋魔術の研究に力を入れてきたとも。
「その術師たちというのが、五星院・山吹・唐紅・群青・廣銀・黄金田のいわゆる保守六大家なのです。そして戦前、山吹家に西洋魔術の研究を託した陰陽道の本家というのが、五星院家なのです」
「ああ、なるほど。でも本家と分家の関係なのに、保守六大家として同格に並ぶのですか?」
「賢治くん、五星院家は六大家のなかでもさらに別格として扱われるのです。そもそも他の家は、五星院家を守るために存在すると言ってもいいのですよ。何故なら五星院家はあの
徳長がそう言うと、しばしの沈黙が起こった。
「――へ? あ、安倍晴明の子孫……?」
賢治は、間抜けな声をあげる。
安倍晴明。
平安時代に生きた貴族の一人であり、陰陽師の代表的存在である。本国では、古くから様々な文芸作品の主題として使われており、説明不要と言っていい有名な偉人である。
師匠の
突然出てきたビッグネーム中のビッグネームに、思考回路は一時フリーズしてしまう。
(……て、ことは圭子先輩もその血を引いているってこと……? うわあ、思いもよらない名前が出てきて、一瞬頭が固まってしまったぞ……)
「ともかく五星院家は陰陽道の名家として、陰陽保安局およびその上部組織である術師界行政府直轄の内部部局『
「陰陽寮……。たしか天武天皇の命によって奈良時代にできた組織ですよね。しかし明治政府が発足すると、解体させられたはずですが」
桐野が「アンタ……歴史の授業はボロボロなのに、何でそんなことだけ詳しいの」とツッコミを入れた。
「うるさいな。思想史や哲学史に深く関わってくるから、主要な文化圏の宗教史は勉強しているんだよ」
「賢治くんの知識は間違っていません――汎人界では、ですね」
そう前置きを入れてから徳長は、渋面を浮かべながら話を続けた。
「陰陽寮は明治以降も、実際は秘密裏に宮内省の内部部局として存続していたのです。その目的は、帝都を霊的に統治することと、『同盟』に対する抑止力です」
「……戦前に術師を迫害していた汎人の代表ってところですか」
「そういうことです。終戦時、連合国側の指令により陰陽寮は完全に解体されました。しかし先に述べたとおり、既に築かれていた『妖魔同盟』という既存の政治的勢力の存在を懸念した連合国側は、退魔連合の設立を日本政府に要請しました。そうしてまず陰陽寮の元職員である陰陽師たちが集められ、彼らが中心となって超党派の退魔連合ができあがっていったというわけです。そして術師界が成立すると、『陰陽保安局』という警察組織が陰陽寮のなかにできたというわけです」
賢治たちは一様に、何ということだと表情をした。
徳長の説明だと、陰陽寮および陰陽保安局は、退魔連合の中枢といっても良い存在だ。そんなところに賢治たちは、これから赴かなければならないのだ。
「いいですか。かねてより連合幹部は「門」保有者を、自分のコントロール下に置く方針を立てています。今回のことで干渉を強められるようなことはないよう、くれぐれも気をつけてください……」
賢治たちに言い聞かせるように、徳長は言った。賢治たちは、固い
………………
…………
……
「しかし、それは徳長先生も合意のうえで決められたのでしょう?」
桐野は訊いた。
たしかに徳長の考えていることは憂慮すべき事態だが、今更危惧してどうなるのか、と桐野は思ったからだ。
「合意はしましたが、賛同も納得もしていないですよ。情況を考えれば、相当憂慮するべき事態だと思っています」
桐野は「情況?」と首をかしげる。
「麻枝の事件から既に18日経過しております。警察というのは、初動捜査が何よりも重要なのです。一日でも、一時間でも、一分でも早く、関係者から聴取を取りたいのです。それなのに、これだけの長い間を政治的な都合でおあずけにされてきたのです。現場の陰陽保安士たちは相当イラだっていることでしょう。かなり厳しく追及されると予想できます」
(ああ……。徳長先生の悪いクセだ)
そう桐野は思った。
徳長はこう見えて、腹芸というのが余り得意ではない。特に桐野たちの身に何かあったときや、苦手な相手と対面したときは、感情的になることが多い。
もっともこの間の清丸高の校長室での啖呵など、この不器用さがプラスに転じることもあるのだが――今日はどうやらマイナスへと陥りそうな雰囲気だった。
「……その話も、もうとっくにしたじゃないですか。今更ですよ。余計なことは喋りませんから大丈夫ですって」
桐野があっさりとそう言うと、徳長はやや色めきだった口調になる。
「あのですね、桐野さん。『相手の意思を捻じ曲げてでも、自分たちの言うことを聞かせたい』という大人たちがどれだけ恐ろしいかを、あなたは知っているでしょう? 子どもの強がりを
「……そんなに言うなら、実力に訴えてでも辞めさせればよかっただろ」
徳長の言い草に、桐野もカチンと来た。
徳長相手に敬語が消えたのは――彼女が憶えている限り、ここに来てから間もない頃のこと以来だろう。
だが、徳長は答えなかった。
無言のまま、眉間の皺がさらに深める。
桐野は口の
「まあ、それができないのが『大人』ってヤツなんだろ?
「……そういうあなたは、私が思っているよりもまだずいぶん『子ども』だったようですね。こっちの気も知らないで……」
ようやく返ってきた答えは、さらに桐野の神経を逆なでするものだった。
桐野はちゃぶ台をバン! と、片手で叩いた。
「うぜえんだよ! 今更グダグダと!! アンタが一番イラついてるのは、なりふり構わず相手に噛みつけなかった自分自身だっつってんだよ!」
「……少し……りましょうか」
「それなのに、こっちに当たってんじゃねえ!! 大体アンタはいつも――」
「少し黙れと言っているのが、聞こえないのですか?」
氷の手で心臓をわしづかみにされた。
そんな風に錯覚するほど、
「……」
すっかり射
ガラリ。
不意に、障子が開けられた。
「¡
イソマツだった。
三角巾は取れて、手首をギプスで拘束された右手をふりふりする。
「いや~、もっと寝ているつもりだったけどみんながエキサイティングしていたから、目が覚めちゃったよ~」
わざとらしく陽気に振る舞うあたり、さっきのやり取りを障子越しに聞いていたようだ。
正直言って桐野はイラついたが、黙殺することにした。
ここで何か言っては、今度はイソマツに八つ当たりをしてしまいかねない。
「さあ、早く食べてください。おみおつけが冷めてしまいます……」
徳長が、二人に目を合わせないまま言った。
(……こんな時に現世がいてくれたら、どれだけ場の空気がほぐれてくれただろうか……)
桐野は考えても仕方がないことを考えながら、ご飯が盛り付けられた茶碗を左手に取った。
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