Report 3 魔術のホームスクーリング(5)
因幡邸での暮らしは、二日目を迎えた。
昨日と同じように午前中の講義を終え、お昼を取った後に、「呪文学(演習)」の授業が始まった。
賢治と桐野は、昨日と同じ場所で、同じ格好で、同じ構えで、同じように一定の距離を置いて向かい合っていた。
ただ一つだけ違うところがあった。
それは、賢治と桐野の持っている杖が昨日使ったものとは別の杖であることだ。
二人の手に握られているのは、指揮棒のような形をした三十センチ強の真っ白な杖であった。
「今日の練習では、この杖を使ってもらいます」
徳長が、これからやることを説明する。
「この杖は特殊なものであり、《PKシュート》と《PKガード》という二つの呪文しか唱えられません。《PKシュート》は《ファイアボール》のような霊力の砲丸を錬成・発射する攻撃呪文で、《PKガード》は杖先に半径50センチの霊波動のバリアをつくる防御呪文です。
賢治くん。昨日宿題として出した、この二つの呪文の『
「はい!」
「よろしい。――これから二人には、二つの呪文の『式』と『陣』を思い浮かべながら、交互に呪文を唱え合ってもらいましょう」
「式」と「陣」とは、「
「式」とはその呪文の魔導反応を表現するための表記法であり、化学反応式のようなものだ。「陣」はこの「式」を具現化するための触媒の役割を果たす。《ファイアボール》などは目に見える形で具現化はされないが、そのような呪文でもきちんと「陣」は存在するのである。最後の「呪文」は、「式」を通常言語で表した名称であり、力場を展開した上で「呪文」を「詠唱 Chant」することで、呪文は発動する。
「賢治くんの方から《PKシュート》を唱えてください。それを桐野さんは、《PKガード》で防いでくださいね」
(……ええと。《PKシュート》の「陣」は、中に「PK」と書かれた正三角形に外接円。《PKガード》の「陣」は、中に「PK」と書かれた正方形に外接円。「式」は両方とも、単項式しかない単純なものだったな……。大丈夫。覚えている、覚えている)
直前の直前で、昨日の宿題で習ったことを思い浮かべる賢治。記憶力が悪い賢治はこうでもしないと、とっさに思い出せないのである。
「用意!」
徳長の号令。
賢治と桐野は、杖を互いに向け合う。
「――始め!」
「《PKシュート!》」
賢治が呪文を唱える。野球ボール大の赤いエネルギー球が杖の先につくられ、発射した。
「《PKガード!》」
桐野が唱える。桐野の目の前に、半径50センチの青い霊波動のバリアができあがる。それにあたった《PKシュート》のエネルギーボールは、火花を散らして消滅した。
「《PKシュート!》」
今度は桐野が攻撃する番だった。
迫り来るエネルギー球におののきながらも、賢治はハッキリと唱え返す。
「ピ、《PKガード!》」
ボン! 賢治の《PKガード》は、見事に桐野のエネルギー球を防いだ。
(――よし! 霊力場のコントロールはできている。タマゴもヒビが入ってなくて、軌道も全く乱れてない)
「止め!」
徳長が合図した。
「それではですね、今からこの一連の流れを100回繰り返してください」
(……ひゃ、100回!? あ、でもさっき一巡するのに15秒ほどだったから、25分くらいか……。なら、大丈夫か)
「では、再開しますよ。二人とも構えて。――用意! 始め!」
賢治と桐野は、練習を再開する。
赤い弾丸が
そんなやり取りを繰り返すごとに、賢治は段々と自信がついてきた。
だが、それが慢心へと変貌するのに5分とかからなかった。
(……これで30回目。まだ、半分もいかない…)。
単調なやり取りの繰り返しに飽き始めた賢治は、眠気さえ催していた。
この練習をとっとと終えて、早く色んな呪文を試したいと思い始めた時――アクシデントは起こった。
「……《PKシュー……ト》ックシュン!」
ブウォウンッ!
賢治の杖先からサッカーボール大のエネルギー球が、爆音を立てて発射された。
詠唱の最後でくしゃみをしてしまって意識が乱れ、必要以上の力場が形成されてしまったのだ。
ゲーティアの状態のまま、隣で見学していた現世が「賢治ッ!」と叫ぶ。
「しまっ……!」
エネルギー球は大きなS字を描いて、桐野に迫る。
「《PKガードッ!!》」
青い霊波動の盾が杖の先にできあがる。だが――
ボンッ!
「あうっ!」
爆散する巨大な霊球の衝撃波で、桐野は後方に1メートルほど吹っ飛ばされた。緑色の三角帽子が外れてしまった。
賢治は魔装を解いて、立ち上がろうとする桐野に駆け寄る。
「ゴメン! 大丈夫――えっ?」
ガッ。
賢治は、立ち上がった桐野に思い切り胸ぐらを掴まれた。
二人の身長差は実に15センチ。見下げにらみつける桐野の目は、これまでにないほど激しい怒りに満ちていた。
「テメー、ナメてんのか? あぁ?」
「……え。えと、あの」
「さっきからズレた方向ばっか霊球飛ばすモンだから、受け止めるのにどんだけ苦労してると思ってんだよ。これ、テメーが力場をコントロールできねえからやってる練習だろーが」
その桐野の口ぶりは、湘南の暴走族もかくやというほどの剣呑さだった。
(……ふ、ふええええ)
賢治は恐怖のあまり、ふるふると震えていた。頭のてっぺんからつま先まで氷水が伝わっていくような錯覚がする。賢治は、完全に蛇ににらまれた蛙の状態だった。
「こっちはテメーのやる気があろーがなかろーが、つき合わなきゃいけねえんだよ。考えろコラ」
「そ、そ、それは」
「ホンット、何でお前なんかが現世のパートナーなんだよ」
「……」
「神様ってのがいるなら、こんなヤツを〔鍵〕に選んだことを本気で恨みたいね」
――ブチッ。
そのとき、賢治の中で何かがキレた。
一瞬で頭に血が集まり、手足から体温が奪われカタカタと震えている。
「……めえ」
「あ?」
怪訝な表情を浮かべる桐野。そして――
「てめえてめえてめえてめえてめえてめえてめえええええええッツ!!!!!」
豹変した。
「――ッ!!」
危ういものを感じた桐野が、とっさに手を放して賢治を突き飛ばした。
転倒する賢治は、すぐさま立ち上がり飛びかかろうとした。
「はーい、賢治くん
イソマツが賢治を捕らえる。
すると心なしか頭が冷え、直情的な言葉に代わってある程度筋道だった言葉が頭の中に浮かんだ。
「集中できなかったのはオレの非だとしても、それ以外のことはやつ当たりとやっかみでしかねーだろ!! それを鬼の首を取ったみてーに、この野郎てめえ!!」
だが、それを口に出すまでに取捨選択ができるほどにはまだ、平静には戻っていなかった。
そして、余計な言葉まで発してしまう。
「んな風に独り善がりでひねくれているから、今までひとりぼっちだったんじゃねーのか!? ああ!?」
「……テメー、ぶっ殺――」
桐野が賢治に殴りかかろうとした、その時のことだった。
ゴウンッ!!
現世以外の全員が、芝生の上をごろごろと転がった。
「「……」」
二人は呆然とした顔で、自分たちを引き離した人物の顔を見ていた。
手の平に緑色の残光をまとわせて、徳長は立っている。
「――いい加減にしなさい」
それは、普段の軽やかな喋り口からは想像もつかないほど厳かな声だった。
徳長の顔には、青筋こそ浮かんでいない。けれども、先程の桐野とは比べ物にならないほどの迫力に満ちていた。
賢治と桐野は、白い杖を徳長に取り上げられる。
「二人には頭を冷やしてもらいます。客間で課題を出しますから、それが終わるまでこの練習はおあずけです」
徳長が、ぴしゃりとそう言い放った。
叱責を受けた賢治は、急激に頭が冷え始めていた。
そして、さっきの失言のことを省み始めていた。
……「お前みたいなひねくれものは、クラスの和を乱すんだよ」「独り善がりなことばっか言ってんじゃねーよ。空気読め」「独りでいることが、カッコいいと思ってんの? キモッ」「青梅くんは難しい本を読み過ぎなのよ。だから、ひねくれちゃうの。いつもひとりぼっちなの。もっと子どもらしくできないの?」……
灰色の在りし日が、賢治の脳裏に蘇る。
言ってしまったことを後悔する気持ちが、心の中で沸々と湧き立つ。
かたわらで旋回する卵はヒビだらけで、だらしなく白身をボトボトとこぼしていた。
「何で……、僕まで……?」
そして、賢治を捕り押さえたまま一緒に転がったイソマツがぽつりとぼやいた。
★
賢治と桐野の二人は、客間で徳長から出された課題に黙々と取り組んでいた。
課題の内容は、渡されたテキスト『小・中・高 呪文集』に記載されている小学校レベルと中学一年生で習う範囲の基礎的な呪文を、ひたすらノートに書き写すことだった。「《》 二重山カッコ」で括られた「呪文」名に、数式のような「式」。そして円陣――「陣」。これら三つの大構造を、一つの呪文につきページの半分を使って、贅沢にノートを埋め続けている。
客間には、言いも知れぬ気まずい空気に包まれていた。ノートを書き込むカリカリという無機質な音だけが、寒々しく響いている。
「……あのさ」
賢治が、堪え兼ねたような口調で話しかける。
しかし、桐野は無反応である。
「あのさ……。堺」
「うるさい。黙ってやれよ」
「――ごめん」
賢治は、はっきりとした声でそう言った。
桐野のシャープペンの動きが止まる。
「オレ。自分が言われたら、一番嫌なことを言ってしまった」
目頭が、熱くなる。
声を震わしながら、賢治は反省の言葉を続けた。
「集中してなかった自分が悪いのに……。居直るなんて最低だ……」
『ひねくれものって言わないで』
『独り善がりって言わないで』
『ひとりぼっちなんて嫌だ』
もっともらしいこと言われて、人格を否定されるのが嫌で。
それなのに。
それなのに。
他人に、あんなことを言ってしまうなんて――
「……バカじゃねえの」
ぽつり。
桐野が、反応を零した。
「喚いたと思ったら、涙ぼろぼろ流して。よく恥ずかしくねーな」
気づくと、賢治の黒い瞳からは大粒の涙が零れ落ちていた。
「あ……」
賢治は黒い長袖のドライTシャツの袖で、顔をぐしぐしと拭く。
その様子を見ていた桐野は呆れ顔から徐々に、険の取れた意味深な表情へと変え、ぽつりとこう口にした。
「……でも、人の顔色をビクビクと窺っているよりは、ずっとマシかな」
それからゆっくりと、けれども確かに、こう言った。
「こっちこそ言い過ぎたよ、悪かった」
それは偽らざる心からの謝罪だった。
「……堺」
「アンタさ、ちゃんと話せるんじゃん。いつもそうしていなよ」
ガラリ。
にわかに障子が開けられる。
「涼二先生……!」
「ノートを拝見します」
徳長は、先程と変わらぬ仏頂面で二人のノートをパラパラとめくる。
「なんですか。一時間でこれっぽっちしか進んでないじゃないですか。追加として、中学二年の範囲も書き写すように」
徳長がそれだけ言って背を向ける。障子がピシャリと音を立てて閉められた。
「……」
隣の桐野が、ぷるぷると肩を強張らせていた。
(……ああ。こいつもやっぱり、徳長先生にだけは逆らえないのか)
二人は作業を再開した。課題を終えるまで、交わす言葉は何もなかった。
★
賢治と桐野が、課題を終えて練習場に戻ってきたとき、日はかなり西に傾いていた。それもそのはずで、賢治のG-LOCKは午後6時ジャストを示していた。
(ううう、教科書をひたすら書き写すだけの作業が、こんなにしんどいとは……。ずっと同じ姿勢だったから節々は痛むし、単純作業だから集中力を保つのが辛かった……。情報を無理に詰め込んで、頭が重くなったような気さえするぜ)
フラフラの身体で、賢治は徳長の前に出る。
「それでは、演習を再開したいと思います。賢治くん、桐野さん。いつもの魔装をしてください」
「え? さっきの練習じゃないんですか?」
賢治は驚いてそう言った。
徳長はうっすらと微笑を湛えて、こう言ってのける。
「『この練習をとっとと終えて、早く色んな呪文を試した』かったんでしょう? ですから、昨日の練習の再チャレンジをさせてあげようと思ったのです」
賢治は、心臓に液体窒素をかけられたかような錯覚に陥る。
(……何で、こんなにピタリと心を読めるんだよ。やっぱりこの人、こわい)
「賢治よ」
現世が、賢治の前に立つ。
「現世……」
現世は無表情で、口を
ボスッ。
「ぶぐっ」という、珍妙なうめき声を漏らす賢治。
みぞおちに、現世のごく軽いパンチを食らったのだ。
「……桐野は、たしかに言い過ぎたのだ。だが、ここにいる皆はおぬしのためにやっておるのだ。それに対してあんなみっともない姿はもう、さらしてくれるな……」
賢治は、そう言う現世の力強い瞳を見る。
「……ああ!」
そうして二人は、互いに笑って応えた。
意志を通じ合わせる二人。力場を展開させる。
「「《展開!》」」
二人は魔装を完了させ、いつもの練習場所へ向かう。
桐野は対面で、既にスタンバっていた。
徳長からお馴染みのスリコミタマゴニソクリュウの卵を受けとり、霊波動を当てて浮遊させる。
徳長が、二人の脇に立って合図をする。
「用意!」
杖を向け合う賢治と桐野。
「――始め!」
徳長の号令と共に、桐野が詠唱する。
「《プロテクティヴ・シールド:パイロキネシス!》」
桐野が呪文を唱える。目の前に、淡いマゼンタの光を放つ円陣が出現した。
(え、と……。《ファイアボール》の「式」と「陣」は、中学一年の範囲で、真っ先に出てきたな。「式」は[PYK: y = f (x)]、「陣」は二重の円に「FB」だったな)
賢治は「呪文」の「式」と「陣」を思い浮かべながら、《プロテクティヴ・シールド:パイロキネシス》の円陣の中心に、心の照準を合わせる。
(……自然に逆らわず、かつ自分の意志をしっかりと持って、唱える!)
「《ファイアボール!》」
ソフトボール大の火球が、賢治の杖先から発射した。
火の玉はまっすぐ飛び、円陣の真ん中に命中する。
ボン!
火球が爆発した。
「……」
桐野の円陣は、依然として浮かび続けていた。光の波形に乱れはまったくなく、形を保っている。
賢治は、卵の方を見やる。
スリコミタマゴニソクリュウの卵は、安定した軌道で宙に浮かんでいた。ヒビも全く入っていない。
「は…… やった! できた! できたよ! 力場のコントロールができた!!」
賢治は破顔し、喜びの声を上げた。
「でかしたぞ、賢治!」
現世もと歓喜する。
ざりっ。徳長が賢治に近寄る。
「よくできましたね、賢治くん」
「徳長先生……」
「これまで賢治くんが上手くできなかったのは、余計な考えが邪魔していたからなんです。いうなれば『雑念』ですね。〔鍵〕から得られる霊力の大きさもあり、身体と心に余裕が有り過ぎて、それが雑念を生む原因になっていたんです」
「雑念、ですか」
「そう。
けれどもこうした非日常的な状況は、そうそう遭遇できるものではない。では、日常の練習で集中力を上げるにはどうすればいいのでしょうか?」
「心身を引きしめる適度の緊張と、成し遂げたいと思う強固な意志……。そうか! あの課題!」
得心がいく表情を浮かべる賢治。
それを受けて、徳長は微笑んだ。
「そういうことです。あなたは今、心身ともにとても疲れている状態にある。教科書をひたすら書き写す作業というのは、想像以上に集中力と体力が必要な作業なんです。数時間に渡って、それも不慣れな分野の情報を理解しながら、同じ姿勢で、ひたすらノートに書き写していく。この単純作業により、心も身体も疲れて緊張状態にあるあなたは、目の前に課せられた難題を何とかして成し遂げようとします。
そこで、『もっとも効率良く目的を達成させられる動き』が自然とイメージされるのですね。そのイメージを具現化する方法だけに、思考が集中されるのです。このような実践を繰り返すことで、それを再現することのできる規則――自分なりの『格律』ができあがるというわけですね」
「先生……!」
「さあさあ。一発当てただけで満足してはいけませんよ。最低でも、あと十発真ん中に当ててください。そうしたら、今日の勉強はこれで終わりにしましょう。桐野さんもしっかり受け止めてあげてくださいね」
「「はい!」」
賢治と桐野が同時に答える。
(こんな達成感は、果たしていつぶりだろう。心の隅まで満ち足りて「やった!」と感じられ、その快感を分かち合える人たちと共にいられるというのは……)
太陽が山際に隠れていく。本日の講義が終わり、因幡邸での二日目の夜を迎えようとしていた。
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