Report 2 術師界へ(2)

「まず、術師界について説明しようか。目の当たりにしたから分かってるだろうが、この世界にゃあ『精霊術』っていう、お前さんの知っている科学だけでは通用できない世界が存在してナ。それを使える『術師』たちが集まってできた社会を『術師界』ってンだ。この清丸町も術師界の一部だ」


(昼間の話だと、ハンカチで隠れされた部分の世界、ってことか)


「そいでお前さんのように、『術師界』の存在を知らない人間のことを『汎人はんじん Commonisコモニス』、その汎人たちが住む社会のことを『汎人界はんじんかい Commonisisコモニシーズ・ Societyソサエティ』っていうんだ。まア勝手知ったる、お前たちの社会だナ。それで『術師』の中でも、生まれつき超能力が使える『亜人あじん Demi-Humanデミ・ヒューマン』と、亜人の血を引かない『ヒト Human』に分かれる。そして、マガツは……この亜人で構成されたテロ組織だ」

「亜人のテロ組織……ですか?」


 べとべとさん使いに土蜘蛛。たしかに今日襲ってきた二人は、因幡の言うとおり亜人だった。


「ああ、そうだ。汎人界の社会に経済格差や人種差別が依然として残っているように、この術師界にもあるンだ。それに不満を持った亜人たちが、術師界向けのインターネットを通じて作ったテロ組織、それがマガツなんだよ」

「はあ……。しかしその目的と、現世とボクが持つ『門』と何の関係があるんですか?」

「マガツは、『霊極』の謎を解明してこの世界に変革を起こし、術師界そのものを解体するつもりなンだ。まあホームページにゃあ、『門』が現世に宿っていることは、書いてねえがな」


 賢治は因幡の大仰な語り口に、疑念を抱いた。

 たしかに因幡の言うとおり、あそこで感じたのは今までに経験したことがない感覚だった。けれども、さっきの戦いを通じて賢治が感じた印象は、せいぜい「便利な武器」という感じである。現世は「全宇宙のスピリットが収束し、その霊力を使えるようになる」とは言っていたが、実際に使ってみた感想はその程度だった。その力に助けて貰っておいて申し訳ない気がしつつも、「『世界を変革する』ような力がある」という実感は、賢治にとって湧きづらかった。


「今日の戦いだけじゃピンとこねえ、って顔をしているナ。それもそうだ。いいか、賢治。お前さんが今日使った術、あれは『霊極』の力のほんの一部にすぎねエ。真の力は、そンなもんじゃねえハズだ」

「まあ、そうなのかもしれませんが……」

「それだけじゃねエ。『霊極』の謎を解き明かすことは、それ自体が術師界にとって大きな社会的影響を与えるんだ。何故なら、精霊術の発明者であるマイケル・・・・リチャードソン・・・・・・・が最後に残した未解決問題が、この『霊極』なンだからな」

「マイケル・リチャードソン、……ぅええええええッツ!!?」


 今日の昼間の話に出たばかりの哲学者の名前を耳にして、賢治は驚愕して声をあげた。


(え、え、え? 今、リチャードソンって言った? 聞き間違えじゃないよな?)


「まあ、知ってるよな。普通の世界でも教科書に載るくらい有名な哲学者だからねェ。――お前さん、リチャードソンが宗教や民間伝承、オカルトについて哲学的な解釈をしたことは知っているだろう?」

「はい! 父方の家系がイングランド出身で近代西洋魔術に凝っていたことや、母方の祖父がアイルランドの民間信仰や神話を研究した民俗学者だったことが、彼の研究のバックボーンにあったことも」

「そうか。それなら話ははえェ。リチャードソンが哲学者ってのは、汎人界での表の顔。裏の顔は、本当にそうした力を使える『術師アーティスト』だったんだ」

「術師……」

「ちょっと歴史の話をするぞ。言うまでもねェことだがこの世界には、『術師』なんて言う言葉ができるずっと昔から、魔術とか超能力とか、妖怪とか妖精とか、そういう超常現象や超常的な存在があったわけだ。で、こういう世界と、何の不思議な力も持たない普通の人間の世界は、まア魔女狩りだとか色々ごたつきながらも、互いに必要以上干渉しないよう上手くやってきたワケだ。だが産業革命以後、科学文明が急激な発展を遂げると、この調和が崩れ始めたのよ」

「わかります。それまで、錬金術や占星術などの超常的な概念と混然一体だった『自然哲学』から、再現性の高く画一的で効率的な生産を望める『科学』へとシフトしていったというわけですね」

「そういうことだ。『科学』を基盤に経済的・軍事的に発展する近代国家を率いる支配者たちにとっては、得体の知れず情緒的な力の体系を持つ術師たちが、自分たちと対抗する権力を得ることを恐れたわけだ。そこで、それぞれの国の権力者たちは俺らを自分たちの支配下に置こうとした。それに逆らう術師は、厳しい迫害を加えていったってわけだ。


 ――俺たち妖魔同盟は、そんな迫害されたこの国の術師たちが互いに助け合うためにつくられた」


「それは……、さぞ大変なことだったんではありませんか」

「あ々、大変だったさ。だが俺たちは、帝国時代のこの国で生き抜くための権利を勝ち取ってきた。だけどヨ、一度目の大戦を経て、大不況とか世界中のかつて『列強』と呼ばれた近代国家の発展も陰りが見え始め、本国も例外でなくなった頃――俺らへの弾圧はますます激しいものへとなっていった」

「軍部の台頭……ですか?」

「そうだ。第一次世界大戦で荒稼ぎをして束の間の民主主義的な機運が広がっていた本国だったが、関東を襲った大震災以後は発展がじわじわと怪しくなってきて、軍事路線へと反動しちまった。軍事色を強めていく帝国の中枢部はこう考えた。それまで抑えつけてきた俺たちが反乱を起こして、弱った帝国に転覆しやしないかと。それで奴らは、アメとムチを使い分けることにした」

「ムチは弾圧だって分かりますけど、アメは……?」

「俺たちがこの国で生活する権利をある程度認める代わりに、俺たちの不思議な力を軍事力として提供しろと言ってきたんだ」

「なんだって……!」

「国家の発展に有用なもの以外を切り捨ててきて、ひたすら暴走する科学の力で痛い目を見た大国たちは、『もう一つの科学』である俺たちの力を排除するのではなく利用しようと考えるようになった」

「ですがそれは、支配のあり方が変わっただけですよね? そんな話に術師たちが乗るとは思えませんが」

「理想は、そうだ。だが、俺たちも追いつめられていた。俺たちだって一枚岩じゃねえ。内部でイザコザも起こりゃあ、帝国側に寝返るヤツも出てくる。そんな疲弊し切った俺たちにもちかけた奴らの提案は、救いの糸のように思えちまったのさ。――だが、俺たちはその判断を後悔することになる。『術』という、もう一つの科学を巻き込んだ科学の暴走が、またどエラい戦争を起こしちまった。――第二次世界大戦さ」


 賢治は、固い唾を飲み込む。


「主要参戦国は揃って、俺たちの不思議な力を戦争に使えないか企んだ。徴兵された亜人も山ほどいた。西じゃ、鉤十字の総統サマが霊力の宿る歴史的遺物をバカスカ強奪するわ、北の赤いヒゲオヤジは魔術師たちや亜人を片っ端から強制労働させるわ、紅茶の島国の女王サマはクロウリーなんちゅうワケワカラン魔術師に総統サマを呪い殺すよう頭下げるわ、この国じゃヤオヨロズのカミサマに頼って米国アメちゃんの親玉を祟りで殺そうとするわ、科学もオカルトもグチャグチャだわ。――で、屍だけが残ったってわけさ」


 因幡の話は、賢治の知っている歴史と食い違うところはなかった。

 人類史において最初から科学のような概念は存在せず、有史以来の多くの研究者によって分化され、学問体系として切り拓かれてきたのだ。そして近代に入り、科学から排斥された魔術的な概念は、民俗学・宗教学・超心理学などといった、新たに開拓された学問分野において研究が進められていった。その一方で近代国家が、各々の国で定めた国家宗教以外の宗教を信じる人々や、その国の少数派の人種や民族、また植民地となった国家に対して、厳しい目を向けていたことも、歴史的事実として賢治は知っていた。そして、このような宗教対立や人種・民族対立といった矛盾の爆発が、第二次世界大戦のもう一つの側面であったことも。

 因幡の語る術師の歴史は、賢治の歴史の理解と概ね合致していた。


「まァ、そんな感じで茶色い戦争が終わった後だよ。大戦に勝った大国の連中が、『この大戦の原因の一つとして、科学への盲信の余り「もう一つの科学」と呼べる領域を侵したことにある。だから、この「もう一つの科学」と呼べる領域にも、科学の世界と対等な、国家のような社会共同体が必要だ』って考えてナ。それまで明確じゃなかった二つの世界に線引きをしたのよ。術師たちの世界と、術が使えず術の存在を知らないものが多数派を占める世界とにな。そしてできた前者が『術師界』、後者を『汎人界』って呼ぶ訳だ」

「なるほど……。ですが、出自も能力も全く違う人間たちを『術師界』という一つの社会に留め、外部に漏れないようにするのは、かなり難しいように思うのですが……」

「お前さんの言うとおり、この計画には膨大な困難が伴った。そこで、術師界の創立メンバーの中にいたリチャードソンが、『術師』たちの不思議な力を、検証可能で、反証不可能で、再現性のある、『科学』のような一つの大きな体系にまとめる必要があると考えた。……そうしてできたのが『精霊術』だ。この『精霊術』の概念はたちまち世界中の術師界で受け入れられ、あっという間に術師界の国際グローバル・標準スタンダードになったンだ」


 賢治は話のスケールの大きさについていけそうになかった。

 この話が本当だとすると、リチャードソンの功績と影響力は明らかに、一端の研究者という領分を超えているからだ。


(す、すげえ……。これが本当なら、こっちの世界でリチャードソンはニーチェ、ヘーゲル、フロイト……いやいや、そんな次元じゃない。キリストや孔子に匹敵するレベルでは?)


 やや茫然気味の賢治をほっといて、因幡は話を続ける。


「で、60年代前半くれえのことだ。リチャードソンの友人にノーマン・レノンっていう魔導物理学者がいてよお。こいつとリチャードソンの二人が、宇宙に存在する霊力の運動の原理を見つけ出せないかと、スピリットの循環法則について研究していたんだ。そしたら霊力の循環がどうしてもどこかで滞ってしまっているようで、実際の運動と計算とが噛み合わねえンだコレが。そこで二人はこう考えた。


 鉄道のターミナル駅・・・・・・・・・みてえな場所が・・・・・・・この宇宙の隣接領域に・・・・・・・・・・異次元空間として・・・・・・・・存在する・・・・そこで・・・全宇宙のスピリットの・・・・・・・・・・循環を促して・・・・・・いるんだと・・・・・


「そのターミナルというのが『霊極』……」

「そうだ。だが、結局二人は仮説を立てただけで、証明できなかった。この異次元空間がターミナルであるとすると、当然この宇宙とつながる『ゲート』のようなものがあっていいハズだ。けれども、ソイツがどんな形でこの宇宙に存在するのかわからないままリチャードソンとレノンは結局わからないまま亡くなり、後進の研究者たちも分からなかったンだ。

 だが、情況は一変する。現世がその身に『門』を宿してこの世に現われたことによってナ」


 そういって因幡は、扇子で現世の方を指した。

 現世は真剣な表情をして、因幡のほうをじっと見据えている。


「五年前の夏な。五歳くらいのこいつがヨ、星刻丘せいこくきゅうに捨てられていたんだ」

「せいこく……?」

「ほら、ここに来る途中であったろ。街の真ん中にあの小高い丘が」


 ビル街の向こう側。夕日に映える、鉄柵に囲まれた小高い丘――


「ああ、はい。あの、妙な柵に囲まれたところですね」

「そう、あそこは円島中の霊力が集まる要地でな。霊気が地面の下を血管のように注ぐ霊気の流れ……霊脈れいみゃくが集まるポイントだ。霊穴れいけつっていうんだけれどよ。ここは術師界で厳重に管理されていて易々とは入れねエはずなンだが、いつ置いたのか知れずにポン、と五歳くらいのガキが置かれていたンだ。真っ白なワンピース一枚で、記憶を完全になくした状態でナ」


 賢治は現世に、「そうなのか。現世」と訊いた。


「おう。何にもおぼえてないのだ。現世の一番古い記憶は、あの丘の上で見た青空なのだ」


 因幡が、話を続ける。


「術師界じゃ、新生児はどういう力を持っているのか検査を受けるよう義務付けられている。その検査の結果、現世は『生まれつき術が使えない』ということがわかった」

「術が……ええ!? でも現世は〔扉〕の力を使えているじゃないですか!」

それ・・しか使えねえんだよ。そのことすら、所轄の検査機関じゃわかンなかった。だから、俺ンとこに回されたんだ」


 賢治はふと、現世の方を振り向く。

 開かれた本の左側のページに映された現世は、相変わらず凛とした真剣な表情をしていた。


(普通じゃない。あたり前のことができない。この子は、そんな苦難を乗り越えてきたのか――)


 賢治は我が身を、振り返らざるを得なかった。

 「あたり前」のことができず、ひたすら卑屈になっていた自分。

 現世もまた、この世界における「あたり前」のことができない子どもであった。

 けれどもさっきの振る舞いを見るに現世は、そんな様子をおくびも出さなかった。

 この境地に至るまで、一体現世はどんな経験を経てきたというのか。

 想像すると賢治は、現世に一層の敬意を払わざるを得なかった。


「俺ァ、自慢じゃねえが他人の精神の中に入ることができるンだ。そいで、現世の中に飛びこんでみたらなァ……。青緑色の閃光に包まれて、変な形のイメージが頭の中に飛び込んできやがった。ソイツは『鍵』と『扉』の形をしていやがった」

(なるほど。このことを因幡さんから聞いたから、現世はあの異空間のことを知っていたんだ)

「で……。そのあとの調査に次ぐ調査で、次のことが分かった。現世が飛ばされた、あの空間こそがリチャードソンとレノンが予言した『霊極』であるということ。そして現世が持っている力が『門』であるということだ。術師界の重鎮たちはこの『門』に、そのイメージから古典ギリシア語で〔ポルタ〕と〔クレイス〕名前をつけたというワケだ」

「リチャードソンの発見した概念が……、オレと現世の中に……」


 自分が尊敬していた偉人の成果が、いま自分の中に宿っている。

 そう考えると賢治は、胸が熱くなる気持ちになった。


「だが、ここで一つ問題があった。現世はどうも、〔扉〕の方しか保有していないってことだ。そンで〔鍵〕は別の人間が保有して、現世の〔扉〕と合わせて初めて、『門』として機能するってことがわかったンだ」

「つまり、〔鍵〕の保有者と成り得る術師を探さなきゃいけなくなった、ということですね」

「そういうことだ。すぐ俺たちはそのことを、リチャードソンの功績を管理し、彼の研究を受け継いだアメリカの術師結社『リチャードソン協会』に報告した。すると『協会』は極秘裏に、〔鍵〕の保有者となるのに相応しい魔術師を世界中から募ったんだ。もちろん、俺たちも協力した。だが誰と引き合わせても無反応だった」

(現世の『相棒』という言葉は、そういう意味だったのか)

「で、ほんの一か月前のことだ……。さっき協会が、極秘裏に〔鍵〕の宿主となるのに相応しい魔術師を術師界の中から募ったって言ったろ? その術師の一人が、マガツに襲われた」

「何だって……!!」

「拷問されたその術師は、現世が『門』の保有者であることをゲロッちまったんだ。そしたら、俺含む術師界の要人たちに対して一斉に犯行声明を出した。『俺たちが「門」を奪う』ってな」

「それで狙われることになったんですね……」

「ああ、そうだ。そんな最中に――」


 ビシッ。

 賢治は、因幡に扇子を突きつけられる。


「お前さんが〔鍵〕の保有者として選ばれた、というわけだ」


 ゴクリ。賢治は、唾を飲み込む。


「リチャードソンの死後、その研究を引き継いだリチャードソン協会は、この『霊極』の謎を解き明かしたものに、『魔導師アデプト Adept』の称号を与えると公表していた」

「アデプト……。ハッ!」


 賢治は、昼間に動画で観た演説の一節を思い出す。



『……私の熱狂的な読者のなかには、私のことを「導く者アデプト」と呼ぶ人もいる。――だが、それは違う!! 哲学を教える者ではなく、哲学する者・・・・・・が「導く者アデプト」となるのだ!!

 それは有名私大アイビーリーグで優秀な成績を修めたとか、そんな次元の低いことでは決してない。今日この日、自分で考え、自分で行動する、あなた方のような人たち一人一人が「哲学する者」であり、「導く者アデプト」となるのだ!! そこに生まれや育ち、血や肌の色は全く関係ない!!』



(……リチャードソンの著書や演説にはよく、「導く者アデプト」という単語が出てくる。あれは、リチャードソンの思想における固有概念テクニカルタームというだけじゃない! 精霊術を知る者のみ分かるメッセージだ! リチャードソンは、自分が解けない謎に臨む術師の到来を期待していたんだ!!)


「術師界には『術師階位じゅつしかいい Order of spiritual arts』という称号があってナ。下から


『一般術師 Generalジェネラル

高等術師 Bachelorバチェラー

『達人 Masterマスター

『賢者 Philosopherフィロソファー』、

そして『


魔導師 Adeptアデプト


の順になっている。汎人界の学歴でいうと、中卒が一般術師、大卒が高等術師、修士が達人、博士が賢者に該当するんだが、魔導師の称号に該当する者はねえ。――そして術師界でも、この称号を与えられたのはリチャードソンしかいねえ。いわば名誉称号だ。だからこそマガツは、自分たちが『門』の保有者を手中に収めてその力を解明することにより、リチャードソンの権威をガタ崩れにすることによって、術師界に社会的な揺さぶりをかける心算なンだろうよ」

「そんな……! なんでマガツはそこまでして、リチャードソンの功績を汚すようなことにこだわるんだ! 自分たちが住んでいる社会が間違っているというのなら、もっとやり方は他にもあるじゃないですか!」

「ンなこと、俺だって知らねエよ。とにかく、そういうワケでマガツが現世とお前さんを狙っているってこった」

「だったら!!!」


 バン!!

 賢治はテーブルを両手で叩く。

 そして勢いよく立ち上がり、右の拳を振り上げた。


「ヤツらよりも先に、『霊極』の謎を解き明かせばいいんでしょう! ヤツラよりも先に、『門』の真の力とやらを手に入れれればいいんでしょう!! オレが、魔導師アデプトになれば!!」


 賢治は断言した。

 そして数瞬すうしゅん経過してから、周囲を見渡す。

 全員が呆気にとられ、賢治を見ていた。

 ――ざあっ。

 賢治は、急に血の気が引いた。


(し、しまった……ッ!! またいつの間にか頭に血が昇って、勢いで口走ってしまった……!!)


 賢治は、理不尽な目に遭ってキレたときだけでなく、自分の興味関心がある話題でもアツくなる癖があった。

 ここ三、四年は人と話すこと自体が少なく、また自制するようにしていたため、このようなことはなかった。けれども今は、自分の尊敬する哲学者が、いま自分が置かれた状況に深くかかわっているという高揚感もあって、ついアツくなってしまったのだ。

 客間に流れる気まずい沈黙。

 だが――


「プッ――あっははははは!!」


 因幡が噴き出したことによって、破かれた。


「面白ェ。お前、面白ェナ」


 予想外の反応に、今度は賢治の方が呆気に取られる。


(え……? ナニ笑ってんのこの人……)

碩学せきがくたちが智恵を絞っても何十年と解けなかった難題アポリアを、偶然力を手にしたお前さんが解くねェ。――いやア、いいねェ。子どもッてのは、こうじゃなきゃあなア。賢治、俺ァお前が気に入ったぜ」


 因幡がすっくと立ち上がる。

 すると、座っていた徳長たちも立ち上がった。

 そして因幡以外の全員が、賢治に対して頭を下げた


「――ようこそ、『妖魔同盟 Yo-Ma Alliance Y∴ A∴』へ」

「……」


 ガタン!

 その時、縁側のほうの障子が勢いよく開いた。


「賢治!」


 客間の中に入ってきたのは、立派な口ひげが蓄えられている体格の良い老人だった。タイ・ユア・タイのダークグレーのオーダースーツや、腕に巻きつけたオフィチーネ・パネライの自動巻き式という豪奢な身なりから、裕福な出自の人間であることが窺えた。


「賢助おじさん!?」


 来訪者は賢治の大伯父で、現在の保護者である青梅賢助だった。

 賢助は賢治の姿を見るなり、肩をつかんだ。バクスターのポマードで軽く撫で付けたごま塩の頭からは、かすかにミントの香りがした。

 賢助は賢治を見るなり、両肩をつかんだ。


「大丈夫なのか賢治! 誘拐事件に巻き込まれたと聞いて飛んで来たが、どこも怪我していないか!?」

「だ、大丈夫だよ、おじさん」


 賢治の無事を確認するなり賢助は、安堵の息をついた。

 そして、賢治を抱擁した。身長差は実に36センチ。賢治の頭はそのたくましい大胸筋で、がっしと受け止められる。爽やかなオーデコロンの匂いがした。


「良かった。本当に良かった……」

「おじさん……」

「ところで賢治、その恰好は――うおっ!?」

 

 ガタンッ。賢助は驚いて、その場に尻餅をついた。


「この人が賢治のおじさん、なのだ?」


 本の姿でふわふわと浮かんでいる現世を見たからだ。


「こ、こ、こ、これは……」

「青梅賢助様ですね」


 徳長が賢助に話しかける。


「お仕事中のところを、突然お呼び立てしてしまい申し訳ありません。私は、賢治くんが所属するクラスの副担任をしております、徳長涼二と申します」

「ふ、副……?」


 賢助は事情が呑み込めないといった表情をした。

 無理もない。当事者であるはずの賢治ですら、未だに何がなんだかといった状態なのだから。


「ちょっと込み入った事情がございまして。ともかく、こちらにおかけ下さい」


 賢助は徳長に言われるまま、因幡の対面に座った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る