Report 1 賢治と現世(3)

 月輪山の山道を走る二つの小さな影があった。

 一人は、ブレザーの制服を着た少年。

 もう一人は、少年よりもさらに小さな黒髪の女の子。

 二人は謎の暴漢に追われ、必死に山道を走っている。


「カバンをダメにしてしまってすまなかったな『勇気ある少年』、大事なものもあったであろう?」

「いや、とっさのこと、だっただから……」


 一分も走っていないのに、賢治はもう息切れし始めていた。


「もっと早く走るのだ! 追いつかれるぞ『勇気ある少年』!」

「ハァハァ……その、『勇気ある少年』っての、やめろ! オレは、ぜえぜえ、……賢治っていうんだ!」

「どのように書くのだ!?」

「宮沢賢治の、賢治っていってわかるか――ってか、今、必要な、情報か、コレ!!」

「おおわかるぞ! 『セロ弾きのゴーシュ』は名作なのだ!


 私は『現世げんせ』! 『うつしよ』と書いて現世だ!」


(うつしよ……、平田篤胤ひらたあつたね? まさかな。語感がカッコいいから名付けられただけだろ? こういうのも、キラキラネームっていうのかな?)


 完全にアゴを出し始めている賢治の頭の中では、いつもの連想の暴走が始まっていた。どうでもいいことを延々と連想してしまう悪癖が、賢治にはしばしば引き起こった。

 二人は山道を抜けて開けた場所に出る。

 そこは沢だった。


「小屋がある! あそこに逃げ込むぞ!」


 現世は叫んだ。

 賢治が首をあげると、たしかに二十坪ほどの面積がある廃屋があった。

 木製の扉は幸運にも鍵がかかっておらず、二人は迷わずそこへ飛びこんだ。

 小屋は極めて簡素なつくりをしておて、六畳あるかどうかの部屋にサビだらけのシンク。空っぽになった金属棚に、小さな机と丸椅子。棚には、元はファイルなどが入っていたらしい。トイレは外に設えられた簡易トイレを使うようだが、何年も放って置かれているため、いまもまともに使えるとは思えない。

 机の周囲に散らかった書類から察するに、どうやら地質調査の記録をするために使われていた作業小屋らしい。

 現世は小屋の中に入るなり、机を引っ張り始めた。どうやら扉の前に置いて、外から入れないようにしようとしているらしい。


「賢治はそこで休んでおれ。現世はこれから、ばりけえど・・・・・を作るのだ」


 賢治は現世の言われるままに、床の上に座った。ほこりまみれだったが、気にしている余裕がないぐらいに息が上がっていた。息を吸うたびに、ちりと埃でむせた。

 賢治は現世の姿を見る。


(この子、やっぱり似ている……。あの白昼夢の中の女性と……)


 その時、また例の頭痛が始まった。


「ぐっ……!?」


 賢治は頭を抱える。

 そして、またもイメージの奔流が起こった。



 ――次に君はこう思う。『この人、何なんだろう』と。……何だと思う?」


 ――魔術師?


 ――そうなんだけど、それは『私が何であるか』の正確な答えじゃあないな。小学生とかサラリーマンとか、子どもととか大人とか、白いとか黒いとか、……そういったものは、ある存在そのものを示す言葉じゃない。さっき君が言った『魔術師』というのもこれらの一つでしかないのさ。

 

 ――じゃあ、お姉さんは……結局何なんなの?


 ――『私』は『私』でしかないよ。この『私』というのも、『私そのもの・・・・』を示してはいない。君だってそうさ。『君』という言葉は、『君そのもの・・・・』じゃあないだろう? もちろん、『お姉さん』という呼び方も『私そのもの・・・・』じゃない。


 ――それじゃあ、何て呼べばいいの?


 ――名前で呼べばいいのさ。私の名前は沙智子さちこ。『サッちゃん』って呼んでいいよ。


 ――ぼくは……青梅賢治。


 ――賢治。お近づきの印といってはなんだけど、君に素敵なものを見せてあげよう。……《ウィンドロップ Windrop》。



「……どうした!? 頭を打ったのか!?」


 白昼夢の世界から我に返ると、現世が心配そうな表情をしていた。


「い、いや違う。気圧が下がったから頭痛がするだけだ……」


 賢治はうそぶいた。


(そうだ……。いま頭に浮かんだやり取りから、さっきの暴漢が不思議な力を使ったときに見た場面へとつながるんだ。あの女性……サッちゃんは、オレに不思議な術を見せてくれた。風が水に、水が花に変わるという不思議な術を。

 この白昼夢が何なのかわからないけど……少なくとも今いえることは、さっきの男はサッちゃんと同じような力を使うということだ。だが、いま訊かなければいけないのはとりあえず……)


「なあ……、現世……」

「うむ?」

「君は、何で追われているんだ? あの男は何者だ?」


 賢治は知りたかった。

 現世を狙う男の素性と目的。そしてさっき、男が使ったあの「力」が何であるのかを。


「あの男は……みずのとと名乗っておった。ヤツは現世の力を狙っておる」

「君も、あの男と同じような力を持っているのか?」


 そう賢治が訊くと、現世はやや言いにくそうに目を伏した。 


「賢治。おぬしは、『精霊スピリチュアル・アーツ』を知らないのだよな?」

「スピリチュアル……アーツ?」


 賢治が首をかしげる。すると現世は「やっぱりか」という顔をして、話を続けた。


「驚かないで聞いてほしいのだが……。この世界には、おぬしらが知っている科学とは異なる科学が、隠されて存在した世界があるのだ。そのもう一つの科学が、精霊術スピリチュアル・アーツと呼ばれるもので、この精霊術を使うものを術師アーティスト、もしくは『じゅつし』と呼ぶのだ」

術師アーティスト……」


 賢治の脳裏に、昼休みで徳長がしたリチャードソンの例え話が思い出された。

 ヴェールに隠された、〈オカルト〉の世界。そこに存在するもう一つの科学。


「現世たちの世界では、この宇宙は全て『れい spiritスピリット』でできていると考えておる。まずは定まった形のない『霊気れいき psycheサイキ』が始めに存在して、この『霊気』同士がぶつかり合うと『霊力れいりょく psycho energyサイコ・エナジー』というエネルギーが生じるのだ。このエネルギーが、物質の生成を促し、形作られてこの世界に現われるのが『精霊せいれい spiritsスピリッツ』なのだ。そして『精霊』からは常に『霊気』が放出され、滅びればまた『霊気』に戻る。つまり現世やおぬしを始め、この世界にあるシンラバンショーが『霊』なのだよ。『霊気』から『霊力』、『霊力』から『精霊』、そして『精霊』からまた『霊気』という、生成の循環運動を意図的に引き起こして、様々な『精霊』の現象を生み出すことができるのが術師であり、この術師の技術が精霊術なのだ」


(アニミズムっぽいな……)


「精霊術は、生まれつき使える能力・・である超能力と、超能力を再現するために教育を受けて学ぶ技術・・である魔術との二つに、大きくは分かれるのだ。癸がさっき使ったのは、魔術の方なのだ。癸が持っていたあの細い棒、あれは導体どうたいと呼ばれるもので、おぬしらの世界で言うところの『魔法の杖』なのだ。あれを持ちながら『呪文』を唱えることで、魔術は発動するのだ」


(なんてことだ……。あったよ桜庭。魔術も、超能力も)


「そして現世には、数多ある精霊術のなかでも特に特異で、希少で、この世界をひっくり返しかねないような超能力を持っておる。癸含む術師結社じゅつしけっしゃ『マガツ』とその一味が、この力を狙っておるのだ」

「術師結社?」

「術師の組合のようなものなのだ。マガツは、現世たちが所属する術師結社『妖魔同盟』と敵対しておる」

「『黄金の夜明け団』みたいなものか? というか君も力を持っているんだろ? だったらあの癸とかいう男に、何でそれで対抗しなかったんだ?」


 それは当然の疑問だった。

 もし現世が強大な力を持っているのならば、何故あの男に襲われた時にそれを使わなかったのか。


「それが……現世の力は、現世だけでは――」


 ドーン!

 扉がけたたましい音をあげた。

 誰かが蹴破ろうとしているのだ。


「まずい、追いつかれた! 賢治! どこかに隠れるのだ!!」

「ど、どこかって、どこに!」

「シンクの下に収納棚がある! 早く!」


 賢治は、現世に言われるままに収納棚に入った。蜘蛛の巣が髪の毛にひっかかる。


「現世も早く!」

「ダメなのだ。ここは賢治一人でいっぱいなのだ」

「そんな……!」


 轟音が響く。

 机とドアが倒れされたのだ。

 バタン! 現世はとっさに収納棚の扉を蹴って閉める。

 ドアが外れてしまった入口の向こうには、癸がいた。

 さっきの術の暴発で茶髪はすっかりチリチリになってしまい、顔は煤だらけである。相変わらずにやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべていたが、目は全く笑っていない。


「お嬢さんひとりかい?」


 癸は倒れたドアを脇によけながら、現世に訊いた。

 現世は「ああ、そうだ」とうそぶいた。


(現世……!)


 賢治は収納棚の扉に空いた穴をのぞいて、小屋の中の様子を窺っていた。


「いけないねえ、ウソは……。二人で入っていくところを俺は遠目に見たんだ……。ここから出て行ったところは見てないし、その痕跡もないじゃないか」


 癸は部屋の様子と現世をなめるように見回しながら、じりじりと迫る。


(ダメだ、出なきゃ。しかし――)


 目の前の危機的な状況を見て気持ちが逸る。

 だが、その足はどんどん重たくなっていった。


(……いや、止そう。オレが出てもあんな男に敵う訳がない)


 賢治の胸中に臆病風が吹き始めていた。

 人間は追いつめられると、逃避したくなるくせがある。たとえそれが、どう考えても人の道に背くような行為であったとしても、正当化して心を落ち着かせようとしてしまうものなのだ。

 賢治はいま、まさしくその状態に陥っていた。


(落ち着け、大丈夫だ。現世には「力」があるっていうじゃないか。多分、何とかなるさ……)


 賢治の欺瞞的な楽観論は、すぐに打ち消された。


「《サイコバインディング・ペンタグラム》」


 癸がさっきの「導体」とよばれる杖を取り出し、そう唱えた。

 現世の足元に光る六芒星の術の陣ができる。

 円陣から鎖が飛び出し、現世に絡みついた。そして、鎖から電流のようなものが迸った。


「ぐっ……うああああッ!!」


 現世が悲鳴を上げた。どうやらあの魔術の鎖は、巻きついたものに激痛を与えるらしい。


「薄情だねえ。君がこんなに悲鳴をあげても、さっきの坊やは助けにこないんだぁ」

 

(な、なんでだよ! 現世は力を持っているんじゃないのか?)


「おおい! さっきの眼鏡の坊や!」


 癸が大声を張り上げた。突然呼ばれた賢治は、心臓が跳ね上がった。


「どこかに隠れているんだろ!? 君ぃ、このまま出てこないでさっき見たことを忘れてくれれば、逃してやるよ!」


 その蠱惑的こわくてきな提案に、賢治の心は揺らいだ。――誤った方向に。


(……このままヤツの言うとおりにしたほうがいいんじゃないか? こんなこと警察に言ったところで笑われるだけだし、オレなんかじゃ敵いっこない相手だ……)


 ――キッ。

 現世は鎖に拘束されたまま、癸を睨み付けた。


「そんな怖い顔しなさんな。あの坊やを恨むなよ。彼は自分のできることを弁えているだけだから……」

「黙れ」


 重く、静かに現世は言った。


「もう一度、賢治のことを悪く言ってみるのだ……。その口、二度と効けないようにしてやる……!!」

「あ……?」


 癸は現世の意図が分からず、訝った。

 そして、現世は一喝した。


「賢治は、『勇気ある少年』だ。勇気とは理性のことなのだ。理性とは魂のはたらきのことだ! ソントクカンジョウではなく、魂が命ずるまま最善の行動へ移すため身体が動くこと、それを勇気と呼ぶ!!」


 その小さな身体に見合わない大音声で――まるで軍隊を鼓舞する指揮官が張り上げるときの声のごとく――現世は叫ぶ。


「さきほどのやりとりで現世は確信した! とっさに体が動き、現世の前に出た賢治は、その『勇気』の持ち主だと!!

 賢治は今、最善の機会をうかがっているのだ! 現世はそれを信じておる! だからお前など怖くないし、どれだけいたぶられようと平気なのだ!」


 いつのまにか賢治の頬は、涙で濡れていた。


(……こんなに他人から信頼を受けたのは、一体いつぶりだろうか)


 賢治は、自分が「さっき桜庭にやられた裏切り」と、全く同じことをしようとしていたことに気付いた。

 だが、現世は信じてくれた。

 こんなにも卑怯な自分を、全く疑うことなく信じてくれた。

 余りにも高潔な現世の姿を目の当たりにし、賢治は心の底から自分を恥じた。


(……助けなきゃ。助けなきゃだめだ。オレにはそうする「責任」がある。


 ――信じてくれた者に・・・・・・・・報いる・・・責任・・」を! 今このオレは負っているッ!!)


「いけないなあ、強がりは……。でも一体どこまでもつかな? ほれ、ほぅれぇ」


 癸の意思を汲むように、円陣の光が激しく明滅した。

 現世を束縛する六芒星の鎖がより強く絡みつき、聞くに堪えない悲鳴を上げさせる。


 プツン――

 賢治の中の、何かが切れ・・た。


「てめえ――てめえてめえてめえてめえてめええええッッッ!!!!!」


 賢治は、絶叫しながら収納棚から飛び出した。

 驚いた癸は振り返る。

 その一瞬のスキが、賢治に癸の右腕を捕らえさせた。

 ガブッ!!

 賢治は、丸太のような太い腕に思い切り噛みついた。


「いっ、でえええええ!!」


 癸が悲鳴を上げて、杖を落とす。

 現世を拘束していた円陣が消えた。

 解放された現世は咳き込み、その場に崩れ落ちる。


 賢治は、一度キレ出すと止まらなくなるという悪癖があった。

 普段から人と話すのは余り得意ではない賢治であるが、このモード・・・・・になると輪をかけたように直情的な言葉しか出てこなくなる。

 中学の時のことだ。体育祭の団体競技でミスしたことが原因で、クラスの生徒たちからリンチに遭いそうになったことがある。そのときも、今回のようにブチギレたのだ。それで転校を余儀なくされたのだった。

 さっき赤坂らに絡まれたとき、賢治は危うくこのモードに入りかけたが、何とか抑え込んだ。

 だが今は――、完全に理性を吹っ切ってしまっていた。


「ううっ、ぐう、ふぐううぅ!!」


 賢治は狂犬のように、癸の腕を食い千切らんばかりに歯を食い込ませる。

 余りの力に、噛みついている賢治の歯茎からも血が流れ始めていた。


「こんの、クサレうんこガキがッ!!」


 癸は左手で、がら空きの賢治の腹にボディブローを見舞った。

 賢治は「ごえっ」といううめき声をあげて、床に落っこちた。


「ううっ!! ううううっ!!」


 だが腹を抱えながらも、癸のすねを何度か蹴りつけた。二、三回は弁慶の泣き所に当たり、癸は顔をしかめた。運動神経ゼロのもやし体型が繰り出す激弱キックとはいえ、さすがに多少は痛かったらしい。


「……いけないねえ、実にいけない。便所でクソをふく紙キレよりも薄っぺらい正義感で俺の邪魔をするやつは、実にいけ好かない……」


 そういって癸は、悶絶する賢治を足の甲で何度も蹴りつけた。

 蹴られる度に賢治は「ごえッ、げえ、ぐえ」とうめき、その口から大量の唾液が溢れ出させていた。


「賢治! 貴ッ様あああ!!」


 凛とした声が響く。現世は、叫びながら癸に向かって突進した。


(! ……現世っ、来るな!!)


 現世の声に応答するように、賢治は頭から血が一気に引いていくのを感じた。

 冷静さをこんなにも早く取り戻すのは、賢治にとって初めてのことだった。

 

「うるせえ!」


 だが癸は物ともせず、けたぐりで突っ込む現世を蹴り飛ばした。


「ぐあっ!」


 床に転がる現世。


「……この野郎! 現世に何をする!」


 賢治はブレザーの襟についた校章バッジを取り外す。そして針の部分を、癸の尻に思いっ切り突き刺した。

 ズブッ!


「ぎゃあん!」


 癸は飛びあがって悲鳴をあげた。


 賢治は腹這いのまま、倒れる現世の方へ向かった。

 もうすっかり、賢治の頭は冷え切っていた。

 それどころかまるで哲学書に触れているときのように、理性が極めて明晰めいせきに働いている気さえしていた。


(……さっき現世は、「現世だけでは」と言いかけた。つまり、現世の力は「一人では使えない」んじゃないか。それならば――)


「現世……! お前の力を、教えてくれ」

「……賢治」

「オレに何ができるかわからないけど、……一人でできないというのならば、オレが手伝う……! して欲しいことがあったら何でも言ってくれ……!!」


 重なる、互いを想う気持ち。自然とつながる、二つの手。


「てんめえ~、よくもやってくれたなクソガキがあぁぁ!!」


 血塗れのバッジをつかんだ癸がこっちへ向かって来る。

 その時、であった。


 青とも緑ともつかぬまばゆい光が、二人の両手から迸った。


「こ、この光は!?」


 賢治は、現世の力の発動を予感した。

 それは現世も同じのようで、その顔は「好機を得た」といった表情をしていた。

 賢治の、「現世の力は一人では使えない」という予測は当たったようだ。


「この感覚……、よもや……!!」


 ...d....ong, di.......g...


 不意に、賢治の耳に何かが聞こえてきた。


「な、なんだこれは! おいガキ! てめえ、魔道具アーティファクトとか隠し持ってんじゃねえだろうな!?」


 癸は狼狽え、がむしゃらに賢治たちに飛びかかろうとした。だが、


「うおっ!」


賢治と現世を包む霊光れいこうが爆発的に肥大し、癸を弾き返した。


(な……何も見えない!)


 激しい光に目がくらむ賢治。

 全身をつらぬくような強い力に、ただ身を委ねるしかなかった。


 ...Din...ong, ding-do......


(これは――鐘の音?)


 ここで、賢治の意識は一旦途切れる。




   ★

 

 Ding-dong, ding-dong, ding-dong......


 ……鐘の音が、空中に漂う四つの時計塔から厳かに鳴り響いていた。


 一棟が五十メートルはあろうかという時計塔は全て千切れていて、四方を囲むように浮かんでいた。その全てがレンガ造りであり、まるでミラノにあるスフォルツェスコ城の一部であるフィレーテの塔をそのままぶっかいてきたかのような外観をしている。


 目を醒ました賢治がいたのは、無数の星々がきらめく濃紺の空の中だった。

 時計塔と同じように、賢治の身体はプカプカと浮かんでいた。

 

「……」


 賢治は、言葉を失っていた。

 ついさっきまで荒れ果てた小屋の中にいたはずなのに、どうして――「どこだ」というより「なんだ」という疑問詞の方が適しているような――こんな異空間にいるのだろうかと、彼の混乱は頂点に達していた。


(まるで重力や抵抗を感じねえ。完全に無重力だ。だけど、不思議となんら不安も感じない……)


「賢治!」


 どこからか、賢治の名前を呼ぶものがいる。

 現世の声だった。

 この異空間には現世も辿り着いていたのだ。

 賢治は声がした方へ振り向いた。

 だがその姿を見るなり、賢治は何と言っていいのかわからなくなった。


「現……世?」


 賢治の視線の先には、“Goetiaゲーティア”と表紙に記された真っ赤なハードカバーの本が、開かれた状態で宙に浮かんでいた。


 その右側のページは真っ白で、左側のページには現世の姿が映っている。

 それはまるで、ライブ動画配信のウィンドウのようであった。


「その姿、一体どうしたんだ……?」

「はは、あは、あははははは!」


 だが現世は賢治の質問には答えず、大笑いし始めた。


「げ、現世?」


 予想外の反応に、賢治は戸惑う。


「驚いた、驚いたぞ! 何年も探して見つからなかったというのに、こんなところで出逢うとは……。おぬしが、私の相棒・・だったのか!」

「相棒? 何のことだ?」

「ははは。いや、すまん。何から説明すればいいのか、ちょっととまどっておるのだが、結論からまず言おう。


 ――青梅賢治。おぬしはたった今から、魔術師なのだ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る