Report 1 賢治と現世(2)
「帰ろー、賢治」
桜庭の申し出に、賢治は「うん」といって席を立つ。
二人は教室脇の階段を降りる。
トン。
階段を降りたところで、誰かにぶつかった。
「ってーな」
「あ、すみませ……」
賢治がそう言いながら顔を上げると、賢治をにらみつけている男子生徒がいた。
ネクタイの色はグリーン。三年生だ。
「おぉ、青梅? 何てめー、赤坂先輩ドツいんてんだこのクソチビ」
三年の男子生徒の隣にいた男子が、整形手術に失敗したマントヒヒのような顔を歪めて言った。
ネクタイのカラーはブルー。賢治たちと同じ一年だ。
(
「桜庭ァ、てめーのツレかよ。ぼっち同盟か?」
加良部に名指しされた桜庭は、すすすと退く。
「カラ。こいつら知ってんの?」
「ウス。タメで特進の青梅と桜庭ッス」
「特進ン? ガリ勉かよ」
「いンや。桜庭は知らねえッスけど、青梅は本ばっか読んでて国語だけ良かったから後で選ばれたっつう、フザケた奴ッス」
「何だソレ。おい、詫びついでにどんなん読んでんのか見せろや」
赤坂に言われた賢治は逡巡する。
(スマホは変にいじられたら嫌だな。本にするか。どう考えてもこの手の連中が興味を示すものじゃないし、すぐ返すだろ……)
おずおずとカバンの中から、リチャードソンの『時間のプラグマティズム』の訳書を取り出した。読み返すのは今回で十三回目であるため、ボロボロである。
赤坂はそれを取って、パラパラとめくる。
「わけわかんね。返すぜ、オラ」
「――!!」
赤坂は本を、宙に放るように投げた。賢治は慌ててそれをキャッチする。
ボッと火がついたように、首から上が熱くなる賢治。その衝動は、抗議の声となって顕われた。
「何すんだオイッ!!」
賢治の怒鳴り声が 階段中に反響する。
赤坂の眉がピクリと動く。
「……うっせ」
――ザアッ。
赤坂の冷え切った声色を聞き、賢治は頭に集まった血が一瞬にして引いていくのを感じた。
ガツン! 赤坂は、壁に蹴りをいれて賢治に詰め寄る。
「先輩だよ? 先にぶつかっておいてタメ語って何だ? あ?」
賢治は「しまった」と思った。
空間の隅に追い込まれた賢治は、完全に退路を失っている。通りがかる学生は、平然と顔をそらすか「またやってるよ」とせせら笑って、その場を去る。
……「てめえが何で怒るんだ、悪いのはてめえだろ」「いい加減にしろよゴミ野郎」「うるせえんだよクソが」「死ねよてめえ」……
フラッシュバックする、中学のときのどす黒い記憶。
賢治は、涙ぐんだ目を桜庭に向ける。
だが桜庭の鳶色の目はおびえきっていて、今にも逃げ出したさそうな状態だった。
その様子を見て、加良部と赤坂がほくそ笑んだ。
「ケケケ、ダチがピンチなのに止めもしねーってか。さすが陰キャって感じだな」
「まあぶつかってきたのはコイツで、お前は関係ねーからな。おい金髪。このクソメガネ見捨ててさっさと帰れば、お前は見逃してやるぜ」
赤坂が提案した。それは悪魔の囁きだった。
「……」
後ろめたそうにしながら、桜庭はゆっくりと背を向けようとする。
「……! 桜庭、お前……!!」
賢治、身を前に乗り出す。
「てめえは動くんじゃねえ!!」
赤坂が賢治に怒鳴りつけて、壁に押し付ける。
「さーて、このオトシマエどーつけてくれんのかなー……。とりあえずさー、この場に土下座しろや。嫌っていう権利、てめーにないことわかってるよなあ? あぁ?」
「――そこで何してるの?」
後ろから、凛とした声が響いた。
赤坂と加良部が後ろを振り向く。
そこには、緑色のネクタイをした短髪の女子生徒と、体格の良い白衣の男性が立っていた。
赤坂は反射的に手を放す。賢治は解放された。
「赤坂、アンタみっともなくないの? 通りすがりの一年に絡んで」
女子生徒は険のある声で、赤坂に詰め寄る。
当の赤坂は口の片端を歪めて、こう言い放つ。
「……
「やっているほうはフザケでも、やられているほうはいつだってマジなんだ。これ以上やるなら、
男性の方が言った。現役のラガーマンもかくやというほどの肩幅であり、白衣の上からでもその見事な筋肉が推し量れた。
赤坂は賢治からプイと顔を背けて、加良部に声をかける。
「行こうぜ、カラ」
赤坂と加良部の二人は、その場を立ち去っていく。
「あの……。ありがとう、ございました」
賢治は、橙崎と男性職員に対して頭を下げる。
「いいんだよ、そんなかしこまらなくて」
そう応える橙崎は、微笑を浮かべていた。
その容姿は中性的な魅力を湛えていて、先ほどの毅然とした態度といい、人当たりの良さそうな振る舞いといい、一目で人気者だということが分かる雰囲気を湛えていた。
桜庭が「あ。先輩たしか、新勧で司会していた――」と言いかけると、
「そう、副会長の橙崎。よろしくね。こっちは筒井先生」
と、橙崎が先だって言った。
紹介された筒井は、節くれだった大きな右手をさしだした。
「スクールカウンセラーの
賢治たちはその手を握り返して、「どうも」と応える。
「
橙崎はそう言ったあと「じゃあね」と言って、去っていった。
取り残された二人。
気まずい沈黙が流れる。
「け、賢治……。帰ろうぜ……」
桜庭が弱々しく、声をかける。
しかし賢治は、答えない。
(……帰ろう、じゃねーよ。馬鹿野郎)
握りしめた拳が震えている。
再び急激に頭へ血が上り始め、首から下が小刻みに震えた。
だが賢治は怒りを口に出すことなく、脱兎のごとく走り出した。
「賢治……」
桜庭の声は、あっという間に聞こえなくなった。
昇降口まで走り、ローファーに履き替えて一気に飛び出した。
(ちくしょう。ちくしょう、ちくしょう! 今度こそ、上手くやれると思ったのに。ちくしょう――)
理不尽に対して何もできない無力で情けない自分に対する憎悪。桜庭に対する失望。
これらが、賢治の小さな身体を内側から焼いた。
少年は後悔を振り切るように、がむしゃらに走った。
★
(くそっ! さっきから何なんだよ、このイメージは!)
賢治は息を切らして頭を抱えながら、整備された山道を登っていた。
高校のすぐ裏手にある月輪山の麓には、賢治が知っている東屋があった。
国道から少し外れたところにあるのだが、ここは滅多に人が通らないため、賢治のお気に入りスポットだった。
今日みたいに、まっすぐ帰りたくない出来事があるときはここに立ち寄って、本を読んで時間をつぶすのである。
しかし今は、少し来たことを後悔しつつあった。
山道に入り始めた辺りから、妙に頭が重くなり始めたのだ。脈打つように頭が痛み、どういうわけかその度に脳裏に謎のイメージが浮かぶのだ。
(わかんねえ……。誰なんだこの人は……。この映像は、オレが経験したことなのか? それとも、何かの映画とかのイメージがごっちゃになっているのか?)
それは昼に見た、青い三角帽を被ってマントを被った女性のイメージだった。
何を話しているのかはっきりと聞き取れないものも多いけど、親しげな様子はよく分かる。
女性がマントの下に着ているものが何度か変わっていることから、賢治は彼女と何度か会っているようだ。
そして女性が杖を掲げて、手品を始めるようなしぐさをするところで、この白昼夢のような映像はことごとくブラックアウトするのだ。
(どうする、やっぱりまっすぐ帰るか。でも今引き返したら、桜庭と鉢合わせる危険もあるしな……)
そんなことを考えながら歩いていたら、いつの間にか目当ての東屋についていた。
東屋は林の中に設えられていて、その部分だけが切り開かれていた。四つの柱で屋根が支えられており、その下には石でできた簡素な机と円柱椅子がある。
(とりあえず、少し休んでいくか……)
賢治は鞄を抱きかかえながら、椅子に腰かけた。
だが頭痛は鳴り止まない。頭が痛むたびに、何度も同じイメージがまぶたの裏に思い浮かぶ。
……その女性が異質だったのは、恰好だけではなかった。
意志の強そうな大きく丸い瞳に、引き締まった口元。棚引くつやのある黒髪。
顔立ちからして同じヒトとは思えない、現実離れした凛々しさを湛えていた……
ガササッ。
東屋の奥の茂みが、音を立てて揺れた。
「――!?」
賢治は驚いて振り向く。
茂みの中から小さな影が現れ、東屋の机の上に飛び乗った。
それは、10歳くらいの女の子だった。
「……」
突然のことに唖然として、女の子の顔を見つめる賢治。
意志の強そうな大きく丸い瞳に、引き締まった口元。棚引くつやのある黒髪。
――ドクン。
彼女を見て、賢治の心臓が高鳴った。
目の前に突然現れた少女の容姿が、何故かオーバーラップしたからだ。
イメージの中の、謎の女性の姿と。
賢治の存在に気づいた女の子は、目が合うなり賢治に叫んだ。
「逃げるのだ! ここは危ない!」
「は?」
次の瞬間、机の上に火の玉が飛んできて破裂した。
赤い爆風が巻き起こる。
「「うわあっ!」」
賢治と女の子が同時に叫んだ。
賢治は鞄をクッション代わりにして、とっさに椅子の下へと伏せる。
(……!)
目を開けると、そこには地面に転がる女の子の姿があった。
「うっ……、ぐっ!」
女の子は立ち上がろうとして、顔をしかめた。赤いチェックのワンピースからのぞく膝小僧が、血で赤く濡れていた。
「おい大丈夫か!」
賢治が叫んだ。
「いけないなぁ……、こりゃあいけない……」
先ほど少女が出てきた茂みの方から、ねっとりとした低音が響く。
茂みがガサガサと掻き分けられる。出てきたのは、迷彩服とミリタリーベストに身を包んだ筋肉質で大柄な茶髪の中年男性だった。
その顔には、弱いものを甚振りたくて堪らないといった嫌らしい笑みが張り付いている。
右手には、先端が赤く光る伸縮式の指示棒のようなものが握られていた。
「無関係の人を巻き込んじゃあいけないなあ……。二人とも、ちょっとオネンネしてもらうよ。――《
男がそう唱える。
すると信じがたいことが起こった。
(……な、何だあれは!?)
指示棒の先に赤い熱線が収束されていき、見る見る火の玉が出来あがっていく。
こんなことができる武器を、賢治は知らない。
あえて形容するなら、こんな言葉しか浮かばなかった。
――魔法の杖。
「ぐっ!?」
その時、賢治の頭のなかにまた例のイメージが浮かんだ。それに伴って激しい偏頭痛が起こる。
……女性が何事か唱えると、杖の先から水が溢れ出した。それを一回りさせると、今度は水が真赤な花びらになった。……
「まずい! よけるのだ少年!」
今にも発射されようとしている火の玉を見て、女の子が叫ぶ。
「うっ――わあああああ!!」
賢治は無意識のうちにカバンの持ち手を握ってフルスイングし、火の玉めがけて放り投げていた。
ヴァボッ!!
カバンをぶつけられて火の玉が暴発した。
「ヴえおっ!?」
茶髪の男は爆風に吹っ飛ばされて、茂みの中に倒れ込んだ。
カバンは裂け、周囲に教科書やノートなどといった中身をぶち撒けた。
「げっ、リチャードソンの本! 古本屋で二千円もしたのに!」
賢治の目の前で、鞄から飛び出た『時間のプラグマティズム』が炎に包まれていく。
その時、右手を誰かに引っ張られた。
「かたじけない! 逃げるのだ、『勇気ある少年』!!」
引っ張ったのは女の子だった。
頭痛は、いつの間にか収まっていた。
(さっきのイメージと、この暴漢が使った力……。オレは、何を知っている? 一体オレに、何が起こり始めているんだ?)
賢治は女の子に言われるまま、二人で山道を走り出した。
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