Report 1 賢治と現世(1)

 オレは、「あたり前」のことが何一つできない子どもだった。

 

 朝早く起きられない。食べるのが遅い。早く走れない。集中力がない。宿題がわからない。勉強の内容が覚えられない。すぐ疲れる。「左」とか「前」とか言われると、どこのことか分からずにまごついて怒られる。団体行動が苦手。靴ひもが結べない。逆上がりができない。


 ……友だちがつくれない。


 テレビなんかだと、「一つのことに熱中してしまう人は、普通の人ができないことに長けている」なんて言うけれど、オレには当てはまらない。だってオレには、取り立てて熱中してしまうことも、特別好きなものもないからだ。

 強いて言うならば、何かある度に「考えること」に夢中になってしまうことくらいである。


 考える。

 それがものごころついた頃からの、オレのくせ・・だった。

 空の青さ。蝉の声。風の感触。花の匂い。お菓子の味。感ぜられるものが何故そのように感ぜられるのかが、幼い頃のオレにとっては一大事だった。

 小学校に入って活字だけの本が読めるようになると、言葉の意味について考えるようになった。

 これは誰が言った言葉で、何について述べているのか。他の子どもたちが退屈そうに教科書を開いているなか、オレは一生懸命に考え続けた。そしていつしか、誰に言われなくても大量の本を読み漁り、その都度オレは「考えた」。


 けれどもこの「考える」ことは、「あたり前」のことができることにはつながらなかった。

 それどころか「考えること」に夢中になることは、オレの足かせにさえなっていた。


 他人が求めていることを「考え」ては、見当違いの行動に出る。

 「考える」ことについ意識が行ってしまうから不注意になって、失敗する。

 だからオレは、考え込むのをやめようと「考えた」。

 言われるままに行動してみようと努力した。

 わからなかったらすぐに訊いてみることにした。


 もっと失敗するようになった。余計に怒られてばかりになった。

 

 考えるとダメ。考えなくてもダメ。

 そんなオレはいつの間にか、他人の顔色をうかがっては口を閉ざすという、すっかり暗い子どもになってしまった。


 「あたり前」のことだが、こんなオレでも親はいた。

 ただし、母親だけだったけど。

 父親はオレが生まれた年に病気で亡くなった。


 そんな、オレが手にしているささやかな「あたり前」も運命は残酷に奪っていった。

 

 オレが小学五年生になる年の夏に、母さんは交通事故で亡くなった。

 遺体は原型を留めていないくらいひどかったみたいで、葬儀の日まで引き合わせてくれなかった。


 オレは、父方の大伯父にあたる賢助けんすけおじさんに引き取られた。

 中三の冬におじさんの都合で湘南へ行くことが決まったため、引っ越し先の近くの高校を受験した。

 この辺りだと一番低いレベルの学校だったから、国語以外の勉強がダメなオレでも合格できた。 


 ……今日は、オレが16歳になる日。

 だけどオレは未だに、「考える」くせを直せていない。

 だから、パッとしない日々を無為に過ごすしかないのは、「あたり前」なのかもしれない。……




   ★


 円島まるしまは平塚海岸の東端から相模湾へと突き出ている、江ノ島のような陸繋島りくけいとうである。地形はほぼ完全な円形であり、誰が最初にそう呼んだかは定かではないが、「海上のフェアリーリング」という通称で親しまれている。

 面積は約20キロ平方メートル。地方自治体は円島市。人口はおよそ二万人。面積の半分は北の日輪山ひのわやまと南の月輪山つきのわやまから成る円島山系が占めており、平地部分は太い三日月形を成している。市内に鉄道は走っておらず、最寄り駅はNR日本鉄道株式会社の平塚駅となっている。そのため、市民の主な移動手段はバスである。


 賢治の通う私立五色ごしき学園高等学校の校舎は、月輪山を背にするように建てられている。

 本校舎の四階、一年一組の窓から緑風が入り込む。「二〇一七年四月二八日(金)」と小さく書かれた黒板の前の小さなチョークが、風にそよがれて振動していた。

 賢治は左手でスマートフォンで動画を再生しながら、右手のミックスサンドにかじりついた。

 動画のタイトルは、「Michael Richardson : Speech of Civil right movement(マイケル・リチャードソン:アメリカ公民権運動での演説)」。

 ものすごいブーイングのなか野外の演説台に立つ、極めて体格の良い50代くらいの白人男性が映っていた。チャコールグレーのスーツは、投げつけられたいくつもの生卵で汚れているが、男性はまったく気にも留めない様子で熱弁を続けた。


『……私の熱狂的な読者のなかには、私のことを「導く者アデプト」と呼ぶ人もいる。――だが、それは違う!! 哲学を教える者ではなく、哲学する者・・・・・・が「導く者アデプト」となるのだ!!

 それは有名私大アイビーリーグで優秀な成績を修めたとか、そんな次元の低いことでは決してない。今日この日、自分で考え、自分で行動する、あなた方のような人たち一人一人が「哲学する者」であり、「導く者アデプト」となるのだ!! そこに生まれや育ち、血や肌の色は全く関係ない!!』


 するとどうしたことか。

 当初は怒りを顕わにしていた聴衆が、徐々にトーンを落とし始める。

 やがて歓声が湧き、拍手が起こった。

 その中には、動画の最初の方で男性に詰め寄っていたアフリカ系の人びとや、冷笑を浴びせていたヒッピーファッションの若者も加わっていた。


(……うん。やはり何度見てもこの演説は素晴らしい。数あるリチャードソンの演説のなかでも、一番だろう)

「誰、このおっさん」


 隣の席から声をかけられて、賢治はビクッとした。

 右を向くと、そこには冷凍食品でオンパレードの弁当を机に広げたハニーブロンドの少年が座っていた。賢治と同じクラスの桜庭修一さくらばしゅういちである。

 賢治は、ワイヤレスイヤフォンを外して動画を一時停止する。


「あ、うん……。マイケル・リチャードソンっていう哲学者。……知らないよね」


 哲学フィロソフィー

 それは古代ギリシアに端を発する活動にして教養である。「知を愛する」という意味のこの言葉の発明者はソクラテスであるが、そのはるか以前より哲学に相当する知的活動は存在した。古代から現代に至るまで、この名前を関する活動に共通していることは、「『知る』ことを『考える』」ということだ。感覚を通じて知ったものを考える、知る=認識する自分について考える、というように、「知る」ということそれ自体を考え、この世界の営みの根源へと遡行しようと試みる思考の活動が、哲学と言っていい。

 賢治は大伯父に引き取られてから、偶然書斎にあったリチャードソンの本に触れて哲学を知った。以来、賢治は主に哲学書を読み漁るようになった。

 知って、考えることをやめられない彼にとって、「『知る』ことを『考える』」この営みに出会ったのは、ある意味必然だったのかもしれない。


「ふーん、知らね」

(知らないなら絡むなよ……。というより、人のスマホ覗き見るなよ……)


 そこで、一旦会話が途切れた。

 席の近い桜庭は、入学以来よく賢治に絡んでくる。 

 桜庭はどっちかというとチャラ系で、常に本を読んでいるモロ陰キャな賢治とは、住む世界が違う住人だ。賢治もそう思っており、「話しかけてくるのは最初だけで、すぐにどこかのグループに入るだろう。からかわれるのは面倒だから、さっさとそうしてくれ」ぐらいに思っていた。

 だがどうも、桜庭は高校デビューに失敗して、クラス内の上位カーストの生徒からはウザがられているらしい。部活も体育会系なこの学校ではどこもきつくて、全部三日でやめたとのことだ。

 なので入学式から三週間以上経った今でも、たびたび賢治に話しかけたり、一緒に帰ろうと誘ってきたりする。また授業でペアや班を組まなきゃいけない時も、必ずといっていいほど一緒になる。

 正直賢治は余り得意なタイプじゃないし、話も合わない。だが特に断る理由がなく、ズルズルと今の関係を続けている。同じクラスの人間と話した時間が、年間合計一時間に満たなかった中三のときに比べると、今の状況は賢治にとって快挙と言えた。


「なあ、お前本とかよく読んでっからわかんねーかな」

「な……何が?」


 賢治は、人と会話をするのが苦手だった。主語と目的語を省略されたり、会話の暗黙の了解を反射的に捉えたりすることが、どうしてもできないのだ。


(先に訊きたいことのテーマ言えよ……。反応に困るんだよ……)

「魔術や超能力って本当にあると思う?」


 魔術――

 その言葉を聞いた途端、賢治の脳裏に何かが浮かんだ。



 紺碧の空。

 その下にどこまでも広がる原っぱ。

 マント。三角帽。杖。箒。

 そんな絵本で見る魔女のような恰好かっこうをしている若い女性に、食い下がる自分。


 ――ねえ。今の、どうやったの? タネはなに? しかけはどうなってるの! それとも、本当に魔術なの?


 ――君は、何だと思う?


 ――分からないけれど、科学で説明つくことじゃないと思う。


 ――どうして、そう考えた?


 ――だって、あたり前・・・・じゃないか。水が花に変わることなんてありっこないし、そんな手品なんて見たことがない。


「……おい、賢治。賢治ったら」

「――!」


 賢治は、フッと我に帰る。

 目の前に、怪訝な表情をしている桜庭の顔があった。


「聞いてる?」

「あ、ああゴメン。いや……、突然言われても……」


(なんだったんだ? いま頭に浮かんだのは……?)


「異能ものっていうの? マンガとかに多いからさ。あと、チェンメで呪いがどうとか」

(全部作り話じゃねーか……。っていうか、魔術と超能力と都市伝説じゃあ、それぞれカテゴリーが違うだろ……)

「〈オカルト〉っつーた方がいいかな。科学で説明できない何かがあるって考えると、なんかワクワクしねえ?」

「うーん……、『あるかもしれないし、ないかもしれない』としか言えないかな」

「なんだよ、はっきりしねえなあ」


 桜庭が笑った。

 一方、賢治は歯切れの悪い回答をした自分自身に嫌気が差していた。


(ああ。何で自分はこういう時、もっと上手い返し方ができないのだろう)


「面白そうな話をしていますね」


 不意に、後ろから誰かが声をかけてきた。

 賢治たちが振り向くと、そこには細身の青年が立っていた。

 

「あ、徳ちゃん」

「こんにちは、桜庭くん」


 一年特進クラス副担任、古典の徳長涼二とくながりょうじ教諭である。

 ベージュのパンツとグレーのベスト、そしてパステルイエローのチェックのシャツというシックなカラーチョイスは、見た目二十代半ばの男性にしては不釣合いに地味な雰囲気を湛えていた。しかし、殻を向く前のヘーゼルナッツのような薄茶色に染めた長髪が、コーディネートにアンバランスな統一感をかもし出している。


「なー、徳ちゃんはどう? 〈オカルト〉って本当にあると思う?」

「ふむ……。その答えに入る前に、まず〈オカルト〉という言葉の意味を考えてみましょうか。

 英語の〈オカルト occult〉は、ラテン語の『隠されたもの』を意味する言葉が語源となっています」

「隠されたもの?」

「はい。科学の進歩というのはよく『被せものヴェール』で例えられますね」


 徳長は、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、脇に抱えていたクリアファイルを水平にして、その上に乗せる。そして少しづつ引っ張って、ファイルの上に乗ったハンカチを剥いでいった。


「人類はこの世界の仕組みを、文明の進歩に従って少しづつ解き明かしてきました。このハンカチが被っていない部分が、科学によって証明されたものに満ちた領域です。そして、このハンカチが被って隠れている部分が、科学で証明されていないものが潜んでいる領域。この領域にあるもの、あるいは領域そのものが、オカルトです」


 桜庭は、首をひねって「ちょっとわからない」という表情をしている。

 しかし賢治は、徳長の言わんとしていることが理解できていた。


「多くの人々は、オカルトを『科学的でない』と否定するでしょう? でもそういう人が『科学』というとき頭に思い浮かべているのは、あくまでもこの明かされている領域で起きている物事でしかないのです。『知らないから、そんなものは「無」い』とする判断はおかしなものなのですが、日常会話で『科学的なものとそうでないもの』が話題になったときは、得てしてこういう危うい詭弁に陥りがちなのです」

「……そのハンカチが被った部分については、結局『わからないまま』ってことですよね」


 賢治が言った。

 徳長は、唇の両端をニッと吊り上げた。

 

「そういうことです。だからさっき賢治くんが言ったように『あるかもしれないし、ないかもしれない』というのは正しいのです。言い換えると、『経験してみなければわからない』というところでしょう」

「あの……、それってもしかして、マイケル・リチャードソンの『ハンカチに覆われた世界』ですよね?」

「よく知ってましたね。その通りです。1960年にシカゴで講演したとき、著書『科学とオカルト』の説明で使った例え話ですよ」

「あ、あの。ぼくが初めて読んだ哲学書は、リチャードソンの『哲学へのみちびき』だったんです」


 熱を込めてそう言う賢治。賢治は、目上の人間に対して話すときは一人称が「ぼく」になる。


「ねえ。さっきから、リチャードソンって誰なの?」


 桜庭が訊いた。


「マイケル・リチャードソンは、二十世紀中盤に活躍したアメリカの哲学者です。アメリカには、哲学や宗教思想、もしくは数学といった、一般に『勉強して何の役に立つのかわからない』と言われているような学問や知識を、実生活や実社会において積極的に役立てようとするプラグマティズムという考え方があります。リチャードソンは科学によって発展する現代社会において、宗教や神秘思想がどのような役割を果たすのかを分析し、理論化したことで知られています。大変有名な人ですので、倫理の授業でもこれから習うことでしょう」


 桜庭はあんまり興味がなさそうに「ふーん」と返した。


「あの……話を戻しますが、その講演ではリチャードソンは、超常現象などを実際に経験したとき〈オカルト〉が『ある』と確定する、とも言っていましたよね。この経験は、観測と言い換えてもいいとも」


 賢治がそう言うと、徳長は感心した様子でこう返した。


「おお、詳しいですね賢治君。リチャードソンはそこから、『科学かオカルトか』という問いの立て方それ自体への批判へと、議論を移行していくんですよ。この被せものに隠された領域には、もしかしたら我々の科学とは違う科学が体系化して存在しており、そしてその恩恵を受けて暮らしている人々がいるかもしれない……。しかしそのようなことは、誰にも『かもしれない』としか言えないんですよね」


 二人のやり取りに退屈していた桜庭が、口をはさむ。


「リチャードなんとかっていうオッサンがどうとかはよくわかんないけど、要するにオカルトは『あるのかないのかわかんない』ってことでいいの? つまんねー」

「ははは。私は経験していない以上、『あるかどうか』という判断をすることはできませんが、〈オカルト〉という概念・・がこのハンカチで明かされた領域――つまり科学の世界に影響を与えてきたことはれっきとした事実です。

 〈オカルト〉とはいわば未知そのものなのです。未知のものを解き明かすことが『科学』であるならば、〈オカルト〉は人間を『科学』の探究へと突き動かす原動力となってきたといえます。先に言ったリチャードソンも同じようなことを述べていました」

(教師らしい無難な回答だな……。もっと具体的に掘り下げて欲しかったが、まあ桜庭相手じゃ無理か)


 賢治はそう思ったものの口には出さなかった。

 引っ込み思案の賢治は、頭に浮かんだことを上手く口に出すのが苦手なのだ。


「じゃあさ、とりあえず〈オカルト〉的な力? があったとしてさ。そういうのを持っている人はやっぱりマンガみたいに魔女狩り? とか遭ったりするの?」


 突然の話が飛ぶ桜庭に、やや眉をひそめる賢治。


(いきなり論点を変えるなコイツ……、いや普通の人の会話なんてこんなもんか?)


 だが徳長は、さすがに教師であるためか顔色一つ変えることなく桜庭の疑問に答える。


「異質な存在としての〈オカルト〉が社会的にどう扱われるか、ということですね? それについては残念ながら、何とも言えません。ただ歴史を鑑みるに、もしそうした人たちがいたとすると、桜庭くんの言うように苦境に立たされることは間違いないでしょう」


 徳長は軽く咳払いをして、話を続ける。


「生まれ、育ち、血のつながり、地縁、職業、ことば、肌の色……。人は、同じ性質を持ったもの同士で集まる習性があります。生き延びるための知恵ではありますが、それは同時に『違う性質を持ったもの』への排除意識も生み出してしまうのです。そうであるが故に『異質なものは排除されやすい』のが、人間社会の必然といえるのです。

 しかしこの同質性は、『異質なものたち』にも当然備わっています。そうであるから、『異質なものは異質なもの同士』で集まり、彼らもまた同じように排他的なコミュニティを作ることでしょう。実際この世界は、そうやって何度となく争いを繰り返してきました」

「『未知』のものを受け入れるのは、誰にでもできることじゃないですからね……」


 賢治がそうつぶやいた。


「そうです。日々の生活を営むのに精一杯の人びとは普通、未知のものや異質なものに構っている余裕はありません」

「それは『排除』への第一歩ではないでしょうか」

「全くその通りです。だからこそ、人間は『学ぶ』必要があるのです。『未知のもの』を受け入れ、考えることができるには、『教育』が不可欠なのです」


 桜庭はもう飽きてしまったようで、スマホをいじり始めていた。

 

「そういや徳ちゃん、なんの用で教室来たの?」


 そう桜庭が訊くと、徳長は用事を思い出したように「ああ、そうでした」と言った。


「話し込んですっかり長居してしまいましたね。これを、賢治くんに渡しに来たのでした。昨日、君が休んだときに返した小テストです」

(――ゲッ)


 渡されたチェックだらけの小テストの用紙には、赤字でデカデカと「再」と記されていた。


「さっきの教養と知性を授業でも同じくらい発揮してくれると、何もいうことないんですけどね……」

「す、すみません……」

「再試験はいつにしますか? といっても明日から大型連休に入りますから、その後の月曜日の昼休みが直近になりますが」

「あ……。じゃあ、それで……」


 賢治は学年でも有数の読書家であり、内容も他の生徒がまず読まないような学術書が多い。しかしその読書遍歴は、学校の成績と反比例していた。

 中学時代の模試の偏差値は総合で40に届かないレベルであり、新入生クラス分けテストの結果もけして芳しいものではなかった。特別進学クラスである一組に入れた理由は、テストの国語科目で、232人中2位の78点から21点を引き離して1位を取ったからである。問題が難問であったため、平均点は51点。そんななか賢治の点数は快挙と呼べるもので、半ば特例という形で特進への勧めを受けたのであった(ちなみに、英語は36点、数学は23点、総合得点は158点で順位は101番目である)。


 ポンポン。徳長の肩が、後ろにいた何者かに叩かれた。


「なんでふ……」


 振り向こうとした徳長の左頬に人差し指が軽く刺さる。


「¡Holaオラ!(やーい) 」


 徳長の背後には、背の低い赤茶けた猫っ毛の少年が立っていた。悪戯いたずらっぽい笑いを浮かべて、キシシと笑っている。

 徳長は対照的な呆れ気味の表情で、はあ、とため息をついた。


「イソマツくん……。そういうことをして面白いのは小学生同士か、あるいは恋人同士ぐらいです」

「僕、小学10年生!」

「さあ離れた離れた。私はもう行きますからね」

「あー、待ってよせんせー」


 そんなやり取りを見せて、徳長と赤毛の少年――イソマツは教室を後にした。


磯松いそまつ? 小田だよね、今の」

「イソマツは名前。小田イソマツって、自己紹介のとき言ってただろ」

「あ、ああ……。そうだっけ」


 賢治は、そう返しながら始業式の日のことを思い出していた。 


 自己紹介によるとイソマツは太平洋に浮かぶ中米の島国出身で、父親が日本人とインディオ(中南米のアメリカ大陸先住民)のハーフ、母親がラテン系の西洋人という、複雑な血筋の出自だという。特徴的な名前は、両親が新婚旅行で来日したときに見た一面に花開くエスタティス(イソマツのスペイン語名)より名付けられたとも、語っていた。


「……小田って、ぼっちだよな。クラスだと誰も相手してくれねーから、いつも徳ちゃんに絡んでくるんだ」


 桜庭がぼそりと言った。


 賢治は「お前だって人のこと言えないだろ」と思ったが、100パーセント自分にも突き刺さるので、黙って頷いた。

 イソマツは明らかに日本人離れした目立つ外見から、最初のうちはクラスメイトも好奇の目で見て話しかけていた。しかし性質の悪い一部のクラスメイトは、名前の語感が某有名アニメキャラに似ていたこと(名前だけで見た目は全然似ていない)でイソマツをいじった。そんなこともあってか、イソマツは徐々に交流を避けるようになり、暇さえあれば徳長のところへ行くようになっていった。


(オレは名前も名字も普通だから、それでいじられたことないけど……。嫌だよな、そういうのって。本人にもその作品にも、何も責任がないのに……)


 もやもやした気分になり始めた賢治は、これ以上イソマツについて考えるのを止めた。そしてさっきから引っかかり続けている、「魔術」のことについて話題を切り替えた。


(魔術……。何だろう。何か、頭の奥で引っかかっているような気がする)


 賢治は考える。

 さきほど、桜庭が「魔術」と言ったときに頭の中に浮かんだイメージについて。


(さっき浮かんだ、謎のイメージと何か関係があるのか? 知らない風景に、知らない女性。彼女に必死に話しかけるオレ。目線の低さからいって、あのイメージの中のオレは10歳くらいだと思うが、あんな人に会ったことあったっけ……? ……ダメだ、さっぱりわからない)


 桜庭が「おい、おーい」と呼びかけている。だが賢治の意識は、既に思考の渦の中へと潜ってしまっていたため、それが届くことはなかった。

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