第十五話 グレース・クリーヴズの憧憬

「これもダメだな……」


 アルヒは閉じた本を陳列棚に戻し、小さくため息をつく。

 こうして町まで出てきて目的の本を探すのは8月の休みの日から5回目になるが、参考になりそうな本は一向に見つかっていなかった。

 聖女に関する本はあるにはある。何百年も前のものから最近のものまで、子供向けの童話や聖女自身の日記など選り取り見取りだ。

 しかし、髪の毛が変色したようなことは全く持って書かれておらず、そのうえ中にはページの一部若しくは全体が黒く塗りつぶされたものまであった。


 先程見つけたものも、例に紛れず一部のページが読めなくなっていた。他のものはこれまでに手に取ったことがあるので、今回も残念ながら収穫はない。

 一か月に一度ではあるが毎度現れては立ち読みして帰るだけなので、そろそろ何かしら買わなければ店主にどやされてしまいそうだ。

 とは思いつつ、アルヒは別で頼まれたものを調達するために屋台を離れる。


 アルヒはメモを片手にいくつかの屋台を回りながら、少しの違和感を感じていた。

 どこか、町の人たちが浮足立っているように感じるのだ。確かに年末で祭りが近いのもあるかもしれないが、それにしてもまだ早いし、雰囲気も祭りを待ち望むそれとは少し違う気がする。


 首を傾げながら歩いていると、答えはメモの5番目を達成した時に判明した。


「青薔薇の聖女、見事敵兵の闇討ちを撃退」


 新聞売りから購入した朝刊の見出しには、そのように書かれていた。その下に、髪の長い女性の後ろ姿と茨に貫かれた敵兵の写真が大きく載っている。

 白黒なので詳しいことはわからないが、薔薇が咲いているので写っている女性はおそらくエリーだ。


 アルヒはそれがわかった瞬間、夢中になって記事を読み始める。

 記事にはその見出しの通り、明朝に陣地に現れたヴォルドリー王国兵を聖女エリーがその圧倒的な力で殲滅したことが書かれていた。

 アルヒが昨日読んだ記事には確か、2つの戦線のうち北側の戦場を分断するようにエリーが生やした茨の壁を、敵兵が燃やそうとして失敗したということが書かれていたはずだ。


「エリーの方はまだ大丈夫そうか」


 アルヒは戦場に駆り出されたエリーとグレースのことが心配でならない。エリーは新聞記事にも大きく掲げられ、連日その戦功が讃えられている。しかし、グレースの方はその光にかき消されてしまっているのか、戦争に参加していることしかわからない。


「俺も行けたら……」


 アルヒは討魔騎士という立場上、他国との戦争に出兵することはできない。武勲を立てることは輝かしい王国騎士団の役目であり、悪魔の血に汚れた討魔騎士団の役目ではない。

 その決まりを破ることも考えたが、それでは同僚に迷惑をかけてしまう。ただ一人、リアムだけは賛成してくれたが、上司であるアルフレッドとの賭け──模擬戦をしてアルヒが勝ったら戦場に行ってもいいというもの──に負けた以上、駄々をこねることは許されない。


 アルヒは肩を落としつつも、新聞を丸めて鞄にしまう。

 メモにはまだ少しすべきことが残っている。

 まずは買い忘れていたもののために本の屋台に戻ろうと旋回すると、アルヒの視界を何かが遮った。

 頭を覆ったそれを引っぺがしてみると、それは先程買ったばかりの新聞だった。


 しかし、内容が違う。

 驚いて見上げると、青空を大量の白い鳥が飛び回り、尋常ではない数の新聞が靡き翻りながら町に降り注いでいた。






 ──数時間前。

 空を仰ぎ見れば、まっさらな青が血で汚れたグレースを嘲笑うかのように見下ろしていた。

 グレースは拳を握り、力を込める。赤く滲んだ手袋に付着したのは自分の血と、他人の血。グレースがこの手で殺した、知らない人の血。


「もう少しで、兄さまに会える……」


 この争いが無事に終結すれば、グレースはようやく最愛の兄と再会できる。

 しかし──、


「兄さまはこの手を握ってくれるかな」


 血に塗れたグレースの手を、兄は以前のように優しく握ってくれるのだろうか。

 グレースは前を向き、押し寄せる敵を見据える。


「それでも──」


 兄を守ると心に誓ったあの日から、グレースの覚悟は揺るがない。

 どれだけの血で手が、心が汚れようと、グレースは拳を振るい続ける。ひとえに、愛する兄のために。


「あなたは──とても立派ですね」


 突如頭上から降り注いだ声に、グレースは胸を打ち砕かれたような気分になる。

 歯ぎしりをし、頭上を見上げると、そこには息を吞むほど美しい女性が浮かんでいた。

 女性は灰色の髪を風に靡かせながら、迫る敵兵たちを赤い瞳で見下ろす。


「エリーさん……」


「遅くなってしまってごめんなさい。──もう、終わらせてしまいましょう」


 水のように澄んだ声が鼓膜を掠めると、産毛が震えたと気づく程の震動が空気を揺らした。瞬間、グレースたちの目前に迫っていた数千もの敵兵を深緑色の茨が貫き、銀色の甲冑を赤く濡らす。茨はその一撃で敵兵を殲滅したとわかると、その圧倒的な力を見せつけるかのように深い色の青薔薇を咲かせた。


「宣告します! 私、エリー・ラ・フィランツェはここにいます! 北側の戦場のあなた方のお仲間は撤退しました! ……復讐のためにやってくるのは構いません! ですが、私の茨はあなた方の心臓を余すことなく貫くでしょう! もしあなた方に自らの命や家族の幸福を惜しむ気持ちがあるのなら、ここから撤退してください! ──終わらせましょう、この戦争を!」


 青薔薇の聖女の声が静まり返った戦場に響き渡る。しばしの沈黙の後、敵側の兵士一人が奇声を発しながら後方に逃亡する。すると連鎖するように恐怖に顔を歪めた兵士らが身を翻し始め、もはや統率者の抑止も聞かず戦場から兵士らが撤退していく。


「……か、勝った、勝ったぞ!」


 味方の兵士の一声からこちら側でも勝利による歓喜が連鎖し、戦場の緊張が解けていく。


「聖女様、万歳!」


「聖女様、万歳!」


「聖女様、万歳──!」


 人々はこの戦争に圧倒的な勝利をもたらした聖女への賛美を合唱する。聖女エリーは凛とした姿勢で歓声を受け入れ、足下に群がる兵士らに自らの姿を見せつけるかのように浮かび続ける。

 グレースはその姿を仰ぎ見て唇をきゅっと結び、涙を堪える。


「私じゃ、兄さまは守れない……」


 グレースは、弱くてみじめで、大切な人さえも一人では守れない人間だ。その象徴である首の蔦に触れ、指先で絡みついてくる蔦をそっと撫でた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る