第九話 素人同士

 月が水面を照らし、数多の星は空一面を飾る。まさに静かな夜といった言葉が相応しい景色だ。しかし、その興趣を楽しむ心がアルヒにあるわけがなく──。


「せいっ!」


 浴場にいるのにも関わらず、アルヒは湯船に入ることなく洗い場で剣に見立てたタオルを振り回していた。

 流石に夜も遅いからか、浴場には誰もいない。そもそもこの大浴場を使うのはアルヒたち萌葱隊の8人だけなので、時間が合わない限り貸切状態なのは平常のことだ。

 故に、やろうと思えばいくらでも修練は出来るのだが。


「あんま遅いと、アイツ起こしちゃうか」


 本を読んでいたリアムが何時に寝るのかは不明だが、遅くに戻って彼を困らせるのはアルヒの本意ではない。

 アルヒはタオルを肩にかけ、ぐう、と背を伸ばすと、湯船とは逆の方向に向かって歩き出した。

 そして汗を流そうとシャワーに手をかけた瞬間、遠くの方で激しい衝突音が鳴り響いた。

 聞こえたのは、湯船に接する窓ガラスの向こう側からだ。

 慌てて駆け出し、バシャバシャとお湯をかき分けながら窓ガラスに近付き、階下を見下ろす。

 見えたのは、何者かが争う姿だった。

 片方が大剣を持ち、もう片方は何も持たずに戦っているようだ。

 暗いのでアルヒの目でさえもよく見えないが、時折輝く刀身だけはアルヒの目に美しく映り込む。


 その剣技に、アルヒは僅かだが見覚えがあった。今朝目にしたばかりの、大胆かつ美しい、大剣を用いた剣技。

 それはまさに、萌葱隊隊長オーブリーのものに間違いなかった。

 オーブリーに対する何者かの身の動きにも、アルヒは親しみを感じていた。

 詳細な動きは暗さ故に捉えられない。だがそれは、アルヒのよく知る妹の──。


「いやいやまさか」


 そんなはずはない、と笑いながらアルヒは目を凝らす。

 すると争うふたつの影が外灯の下に躍り出て、鈍色の髪がアルヒの眼に映った。

 そして疑惑は確信へと変わる。


「グレース.......?」


 しかし、にわかには信じられずアルヒは眉を顰める。

 アルヒの妹、グレース・クリーヴズは嬉々として、素手で大剣を持つ相手に挑んでいたのであった。






「フン。勇ましいことだな。剣を相手に何も持たず立ち向かうなど」


「そうですかー? 確かに、そんなに大きな剣と戦うのは初めてかもです」


 グレースが対峙する剣は彼女の身長など優に超えていて、素手で相手するには無謀のように思えた。

 だが、兄に会うためには力ずくでも勝たなければならない。たとえ相手が、触れれば肉を断たれる鋭利な剣だとしても。


「初めてにしては戦いに慣れているように見えるが、貴様は貴族の娘ではなかったか?」


「その通りですよ? でも、兄さまを守ってきたから、人を殴るのは慣れてるんです」


「守ってきた──、か。守られる必要がある男には見えんがな」


「兄さまは優しいから」


 こうして話す2人の口調は落ち着いているが、その動作は落ち着きとはかけ離れたものだった。

 オーブリーは体全体を使って大剣を駆使する。縦横無尽に振り回されるその剣をグレースは手のひらや腕、脚を使って受け流し、決めるつもりで拳をオーブリーに突き出す。

 しかしその拳は硬い鎧を凹ませることすら出来ず、鈍い衝撃が跳ね返ってくる。


「意外と硬いなー」


 今までに相手してきた者たちの中にも全身を鎧で固めた者はいたが、これほどまでに硬いことはなかった。

 せいぜい、2、3回の攻撃を耐えるのが精一杯だ。


「もうちょっと、本気出さないとかな」


 グレースは拳を握り締め、湧き出る力を拳に一極集中させる。

 次の打撃は、グレースの中で一番強いものになる。

 そしてそれは、あの鎧をも貫く力を持つと、グレースは確信していた。


「何と比べてるかは知らんが、本気で勝てると思っているのならば、やめておいた方がいい。素人の武術など高が知れている」


「素人? んー、でも貴方も十分素人に見えますけど」


 というのは、グレースの直感だ。

 グレースが目の前で対峙する人物は、さほど剣の腕は高くない。むしろ、剣を持ったグレースの方が強いのではないかと思わせるほどだ。


 しかし、そんなグレースの正直な感想に腹を立てない騎士などいるはずもない。

 現にオーブリーも、元々持っていた殺気がさらに増し始めていた。


「あ……」


 グレースは産毛がピリピリと立つのを感じ、珍しく自分の発言を後悔する。

 兄もそうだが、グレースは思ったことをすぐに口に出してしまう癖がある。

 育ての親であるイヴォン・クリーヴズには何度も注意された。しかし、嘘はつかないのだからいいと思っていた節もある。

 今後気を付けようと戒め──大概明日には忘れているのだが──、グレースは肘を引いて力を込めた。


「ここまで忠告されても尚聞く耳を持たぬとはな。貴様の兄も大概だ。妹を飼い慣らせなかった上に、今ここで守ることすら出来ない」


「兄さまは、何も悪くない! 兄さまの悪口は許さないんだから!」


 叫ぶグレースは精一杯に拳を突き出した。

 どんな硬い鎧も突き破る、渾身の力。いつからか世界樹から授かった、グレースだけの特別な力。

 しかしその全力を以てしても、オーブリーの鎧を貫くことは叶わなかった。

 鎧に力を放出した右拳は、呆気ない音を鳴らして動きを止める。


「なんでっ……!」


「貴様は私に勝てない。自らの弱さを嘆き、今ここで罪を償え」


 大剣が振り上げられ、グレースは惨めな格好のまま動けなくなる。

 黒い切っ先が夜空に輝き、グレースを死に至らしめようと振り下ろされ──、


「──グレース!」


 突如耳馴染みのある声が聞こえ、グレースは驚いて振り向く。

 そこには走ってきたらしい兄、アルヒが、息を切らして立っていた。


「っ兄さま!?」


 突然のアルヒの登場に、黒い剣は空中で静止する。

 グレースはこの機を逃さずアルヒのもとへ駆け寄る。


「グレース、どうしてここに……!」


「私は兄さまとお話したくて。兄さまは? どうしてここが分かったの?」


「分かったも何も見えたから……」


「ようやく来たか、アルヒ・クリーヴズ」


 コツコツ、と踵を鳴らしてオーブリーが近寄ってくる。

 その手には、未だに剣が携えられている。

 グレースは頬を強張らせ、兄の手を握った。


「貴様は運が良いようだ。しかし、持った妹が悪かった」


「何を……!」


 兄が噛みつきそうになるのを、グレースは腕を引いて止める。

 グレースの真剣な表情に、兄は何かを言いかけてやめた。

 そしてオーブリーは切っ先をグレースの鼻先に向け、宣言する。


「グレース・クリーヴズ。貴様を『世界樹の使者』として王城へ連行する」

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