第三話 少年の慟哭

「はあ? なんだよ、お前。ムカつくな」


 アルヒの頭上から、男の苛立ちの声が吐き捨てられた。

 青年というより、幼い子供の声だ。見上げれば、白黒の髪の少年がドラゴンの背の上に座っていた。

 少年の赤紫色の目線は、黒いマントをはためかせる『勇者』に向いている。


「ムカついてくれて結構。『悪魔』ごときに我々が気を配る必要はないのでね」


「はー。うぜーうぜー。同胞の匂いがしたから久しぶりに出てきたってのに、これかよ。お前らはいつも俺たちの邪魔をして。楽しいのか? 面白いのか? 俺たちは全っ然面白くないね。早く帰れよ。俺たちの邪魔をするんじゃねえ」


「それは無理なお願いだ。我々は今すぐにでもお前たち『悪魔』を討伐しなければならない」


「はっ。やれるんならやってみろよ! やれるもんならなあ!」


 白黒の少年が啖呵を切ると同時にドラゴンの体が動き始める。

 危険を察したアルヒは勇者の背後から飛び退き、母の服の布を引っ張って後ろに下げさせる。

 尻餅をつきながら勇者の背中を見ると、勇者はアルヒたちの顔も見ずに、


「君たちは逃げなさい」


 その合図とともに、アルヒは跳ねるように立ち上がり、左手に母の手を握った。右手には、ベンリの入ったバスケットがある。

 妹を抱きなおした母は、アルヒに戸惑いの視線を送ってきた。

 アルヒはなるべく頼もしく見えるように、目だけで意思を伝える。


 母は、優しい人だ。だから、どんなに強い『勇者』であろうとも見捨てることができない。

 アルヒも本当はこの場に止まって、自分が力になれることがあるならそうしたい。だが、『勇者』は逃げろと言った。

 アルヒは何より母と妹の方が大事だ。だから、この場は逃げる。

 母の手を引きながら、アルヒは走り出す。


「おいおい。そんな人間なんかほっといて、自分の命を心配しろよ。なんだ? 騎士サマは自分なんかより他人の方が大事ってか? けっ、くだんね」


 振り向くと、ドラゴンの体が一回転し、大きな尾が『勇者』の体へと迫るところだった。

 『勇者』はその場で大きく跳躍すると、ドラゴンの尾の上に乗る。超人的な動きで尾の上を走り、一気に『勇者』は悪魔に肉薄した。


「ちぃっ」


 悪魔の舌打ちが鳴り、ドラゴンが翼を動かし始めた。背に乗る『勇者』は足元が危うくなり、バランスを崩す。

 悪魔はその隙をついて、自分に斬りかかろうとしていた『勇者』の腹を足で蹴る。

 たまらず『勇者』はドラゴンの背から足が離れ、地面に落下しそうになる。と、すんでのところで『勇者』はドラゴンの皮膚の突起を掴み、落下を逃れた。

 しかし間もなく翼を動かしていたドラゴンが空へと浮かびあがり始め、『勇者』は掴んだまま宙ぶらりんの状態になる。


「──『勇者』さま!」


 アルヒは思わず足を止め、悲鳴を上げる。

 どうかそのままでいてくれというアルヒの願いも虚しく、『勇者』は体を震わすドラゴンに振り落とされてしまった。


「っ──!」


 ──ダメ。逃げないと。

 アルヒは溜まった涙を散らしながら走る。


「わかった。お前だろ?」


「──?」


 振り仰げば、獰猛な眼光を向けるドラゴンの顔があった。アルヒは呆気に取られ、走っていた足が止まる。


「はははっ。まさか、こんなガキが『持ってる』とはなあ? 俺たちも思いもしなかったぜ! なあ、『半魔』がよぉ!」


 飛んでいたドラゴンの右腕がアルヒの体に向かって振られ、咄嗟にアルヒは飛び退く。

 無事に避けられはしたが、着地の時に足首を捻ってしまい尻餅をついた。

 アルヒが体制を立て直そうとする間に、またもドラゴンは腕を振り上げアルヒを叩き殺そうとする。


 鋭い鉤爪がアルヒの体に突き刺さらんとした、まさにその瞬間。

 何者かがアルヒとドラゴンの間に割り込んだ。

 アルヒにはまったく似ていない、スカーレット色の長い髪。華奢な体には、使い古して黄ばんだエプロンが着けられている。


 ──母だ。

 そう認識した途端、母の細くなおやかな体はドラゴンの鉤爪に鈍い音を伴って吹き飛ばされた。

 アルヒを守っていた母の体は消え、またもやアルヒはドラゴンと向き合う。

 しかしそうしているのも、一瞬だけだった。


「かあさま!」


 アルヒは一目散に──持っていたバスケットも放り出して──遠い地面に落下した母の体に駆け寄り、血に塗れたその体を掻き抱く。

 力の抜けた母の体は重く、複数の箇所から溢れ出した真っ赤な血が、アルヒの体を濡らした。

 ──まだ息はある。

 アルヒは必死に母の体を揺すり、大声で喚く。


「かあさま、かあさま──!」


 その声が届いたのか、母はうっすらと下ろしていた瞼を上げた。


「アル、ヒ……」


「──母さま、死なないで!」


 アルヒはどうにかして母の命をつなぎ止めようと、意識を薄れさせつつある母に呼びかけ続ける。

 母はだらんと垂れ下げていた白い腕をゆっくりと上げ、アルヒの目に溜まった涙を優しく拭った。

 そして母は瞳を潤わせて、力なく微笑む。


「かあ、さま?」


「ごめ、んね。アルヒ。どうか、生きて──」


 母の冷たい指は頬を伝い、アルヒにささやかな痛みを与えて落ちた。


 喧騒のなか、少年の慟哭が響いた。

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