第二話 ある親友二人の夕暮れ時の一幕
「ありがとう、おばさん!」
少年──アルヒは手を振りながら、慣れ親しんだ大きな家を後にした。大事そうに握りしめる右手には、ベンリの入ったバスケットが提げられている。
アルヒは大好物のベンリを手に、母と妹が待つはずの我が家へと帰ろうとしていた。
自宅の近くにあるイヴォンおばさんの家は、貧民街の外にあってそれなりにお金のある家庭だった。
彼女はすでに夫を亡くしており、家族は成人して兵役についている息子が二人だけ。
そのためか、よく笑い優しい気性のアルヒのことは我が息子のように可愛がってくれていた。
「母さま、喜んでくれるかな」
広い庭の敷石を軽快に踏みながら、母の喜ぶ顔を想像する。
アルヒはひとりにやにやと笑い、あふれんばかりのベンリが入ったバスケットを揺すった。
「あ──」
バスケットの中身に気を取られていたところ、聞き覚えのある声がどこかで発せられた。
声の方向に目線を送り、その正体に気づく。
「バージル!」
アルヒはにこにこと満面の笑みを浮かべながら、生垣の向こうから顔を覗かせる青髪の少年に大きく手を振る。
少年はしばらくの間、出たくなさそうに渋い顔を浮かべていたが、アルヒはそれに気付かない。
手を振り続けるアルヒに少年は諦めた様子で生垣から出てくると、あからさまにため息をついた。
「どうしてお前は見て見ぬ振りができないかなあ」
「なんか悪いことしようとしてたの?」
「──」
アルヒの何気ない一言に、少年──バージルは呆れたように肩を下げた。
「別に、なんでもないよ」
目の前で座った目を向けるバージルは、アルヒの幼なじみでもあり、お隣さんでもあり、親友でもある。
母によると、アルヒが生まれていない時からの縁だとか。
アルヒが明るく活発的なのに対して、バージルはいささか落ち着いた子供だ。
いつでも冷静で、人ともあまり喋らない。でも優しくて芯が通っていて、たまにではあるもののアルヒといる時だけは一緒に馬鹿をする。
アルヒは、そんな彼が大好きだった。
「そうだ! バージル、おばさんからたくさんベンリをもらったんだ。母さまがジャムを作ってくれるはずだから、バージルも家(うち)に行こうよ」
「え? あー、おばさんに悪いから、いいよ。弟たちの世話もあるし。お前らだけで食べな」
「えー? 俺はバージルとも食べたいのに?」
アルヒは瞳を濡らしてバージルを上目遣いに見つめる。こうなると、アルヒのお願いを断る方法はない。
バージルはアルヒの得意技『泣き落とし』に負けた様子で、またため息をつきながら首を下に振った。
「やった! じゃ、行こ、バージル」
アルヒはバージルの右手をむんずと掴み、引っ張りながら駆け出した。
「ちょっ」
バージルは慌てて足を動かして、手を引かれるがままに走る。
「待てよっ。俺、いっかい家に帰らないと」
バージルが月白(げっぱく)色の頭に叫ぶと、アルヒは急ブレーキをかけた。アルヒの背中に追突してしまい、バージルは顔を歪ませる。
「いって──」
「……なんで?」
アルヒは紫色の瞳を丸々とさせながらそんなことを聞いてくる。
バージルはまた浅くため息をついて、
「なんでって弟たちが──」
「まって」
アルヒが突然表情を変え、緊迫した面持ちでバージルの口を塞いだ。
「ほぉ(ど)、ほぉうしはんはよ(どうしたんだよ)」
「しっ、静かに」
アルヒはまっすぐ立てた人差し指を口元に当て、キョロキョロと辺りを見回す。
「なんかやばいのが来てる気がする」
「ぷはっ。……やばいのって、なんだよ」
「──」
解放された口で深呼吸をしながら、バージルは厳しい表情をして黙るアルヒを眺める。
「きたっ──」
アルヒが短く息を吐いたのとほぼ同時に、二人の体を恐怖が襲った。
それだけではない。
アルヒたちのいる貧民街を、巨影が覆い隠した。
「なんだっ」
何が起こっているのかわからず焦燥するバージルの声に、アルヒは大きく息を吸って叫んだ。
「『悪魔』だ!」
「っ──!?」
バージルは瞳孔を開いて、アルヒの顔を見る。頬には、汗の筋が垂れていた。
「どういうことだよ! アルヒ! 悪魔って──!」
アルヒの肩に掴みかかり問い詰めようとすると、今度は腹の奥底まで響く轟音がすぐ近くの場所で鳴った。
振り向けば、跡形もなく潰れ去ったボロ家とそれを下敷きにする『異形』の姿があって──。
「──『ドラゴン』だ」
その感嘆のような声が、バージルから発せられたものだったのか、あるいはアルヒのものだったのかは分からなかった。
ただ、童話の中にしかいないものだと思っていたその存在が、バージルの思考を止めている。
「バージル!」
「っあ──」
アルヒに手を引かれたおかげで、バージルは思考を再開する。
そして、気づいた。
「……俺の、家が──」
にわかには信じられない光景が、バージルの目の前には広がっている。
それは、ドラゴンだけが原因ではない。
バージルが家族五人で過ごしていた家が、無残にもドラゴンの足に踏みつけにされていたのだ。
「バージル。大丈夫だよ。きっと、大丈夫だから」
「……」
何も、言葉にすることができなかった。
ただ無力な自分がやるせなくて、バージルは力なく膝をつく。
「俺は、家(うち)に帰って母さまとグレースに会いにいく。バージルは、どうする?」
バージルは荒い土の地面を見つめて、息を吐いた。
「家に帰る」
「……わかった。またあとで、会おう」
「うん」
バージルは頷きながら立ち上がり、力の入らない足に鞭を打って家族の待つはずの家へ向かう。
ドラゴンはまだ家の上を占拠している。ぺしゃんこにされた思い出の家に、バージルは目尻に涙を溜めた。
「母さま。グレース。どうか──」
そしてまたアルヒも自分の家へ走り、右手に握られたバスケットを強く握りしめた。
「はあ、はあ……」
家はすぐ近くのはずなのに、今日はなぜかとても遠くに感じられた。
アルヒは激しく腕を振り、涙を流しながら走る。
バスケットからいくつも落ちてしまったベンリを気にもせず、走る。
気がつけば、ドラゴンの姿は先程の場所から消えており、空中で影を作っている。
「おばさんたちが、無事でありますように──」
アルヒはバージルとその家族の無事を世界樹に祈る。
──大丈夫。きっと、大丈夫だ。
角を曲がれば、家はすぐそこ。
しかしまたしても、家が破壊され地面が割れるような音が鼓膜を破った。今度はすぐ近くだ。
アルヒは急速に背筋が凍るのを感じ、急いで角を曲がる。
そしてその先の自宅の有様を見て、あんぐりと口を開けた。
「ぁ──」
家があったはずの場所は瓦礫の山と化し、その上には『ドラゴン』が聳える。
ドラゴンは自らの前に弱々しく立つ人間に向かって、大きな鉤爪を振り上げて──。
「母さま!」
気づけば、アルヒは何も考えずに走り出していた。今に命を奪われようとしている母と妹を助けようと、駆け出していた。
実に短絡的で、感情的な行動だ。
アルヒは必死に体を動かし、母とドラゴンの間に立ちはだかろうとする。
母の体まであともう少し、といった時、アルヒは強く体を押され地面に倒れ込む。
聞いたことのある鉄と鉄が擦れ合う音とともに、突然アルヒの横で見知らぬ光が煌めいた。
光は弧を描きながらドラゴンへ伸び、醜い紫色の腕を弾く。
弾いたのは、美しい銀色の長剣。輝くはその美しい剣身。
それを持つは、黒いマントをはためかせ、勇敢な立ち姿の茶髪の男性。
アルヒが間近にしていたのは、『ドラゴン』とともに童話でよく語られる『勇者』の姿だった。
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