序章『終焉の到来』

第一話 ある家族の夕暮れ時の一幕

「母さま母さま!」


 穏やかな光の差し込む木造のリビングの小さなキッチンに、一人の少年がたくさんの小さな果実を抱えて走ってきた。

 キッチンに立っていた白いエプロンの女性は、持っていた包丁を置くと、


「なあに?」


 少年の目線に合わせるようにかがみ込み、幼い彼の月白げっぱく色の髪を撫でた。

 女性は慈愛に満ちた微笑みを顔に浮かべ、少年の頬にキスをする。


「──アルヒ」


 キスをされた少年は嬉しそうに飛びつこうとするが、胸に抱えている果実がそうさせない。

 無理にジャンプをしたせいで腕の中からぼとぼと、と果実が落ちた。


「あらあら」


 慌てて少年は拾おうとするが、また一個二個と落ちていってしまう。

 女性は少年の代わりに落ちたものを拾い、そばにあった机の上に乗せた。

 小さな紫色の果実だ。一つ一つが3センチにも満たない大きさで、表面はぶつぶつと丸い膨らみが埋め尽くす。


「いっぱい採ってきたわね」


 女性の優しい声に、アルヒと呼ばれた少年は満足気に首を振った。


「うん! イヴォンおばさんちにいっぱいなってたんだ!」


「ちゃんとおばさんには断ってきた?」


「えっと……。おばさん、お家にいなくて」


 アルヒは背中の後ろに腕を回して、もじもじとしながら唇を尖らせる。

 女性は穏やかな瞳を丸く大きくさせると、「だめじゃないの」と優しくも気迫のある声で少年を叱った。


「ほら、今すぐにでもおばさんにもらいましたって言ってきなさい」


「でも……」


 言い訳を続けようとする少年に、女性は一喝。


「うじうじしない! 何も言わなかったら、アルヒが盗んだことになっちゃうのよ。泥棒さんになりたいの?」


「い、いやだ!」


「だったら、母さんがお手紙渡すから、それを置いてきなさい」


「わかった!」


「でも、おばさんが帰ってきてたらちゃんと自分のお口で、もらいました、って言うのよ」


 少年は荒く鼻で息を吐きながら力強く首を縦に振る。


「よし、じゃあ母さんはお手紙書いてくるから、アルヒはベンリを洗っておいてね」


「うん!」


 少年はベンリと呼ばれた果実を机の上のものも合わせてキッチンへ持っていく。

 終始笑顔を絶やさない女性──少年の母親は楽しそうにベンリを洗う息子を横目に、キッチンを離れる。


「ジャムにしようかしら。でも、たまにはパイもいいわね。イヴォンさんには申し訳ないけれど、オーブンを貸してくださいと一筆添えておこうかしら」


 エプロンを外しながら、母親はキッチンのあるリビング以外にこの家で唯一部屋と言える寝室へと移動する。

 外したエプロンを小さなシングルベッドの上にふわりと置いて、横にある小さな小さな机に向かって座った。

 引き出しの中から残り少ない黄ばんだ紙を取り出し、羽ペンを手に取る。

 つらつら、と慣れた手つきで綺麗な手記を連ねていき、最後に「アルヒとリタ」と息子の名前と自分の名前を添えた。


「よし、これでいいかしらね」


 羽ペンを元に戻し、立ち上がる。

 日が落ちてきて薄暗い室内を、何にもぶつからずに足を進めていく。


「母さま! もう書き終わったの?」


「ええ」


 母親は字を記しただけの紙を折り曲げて何にも入れずに、濡れた手をズボンで拭く息子に手渡す。


「いい? おばさんに会ったら、ちゃんとありがとうございますと、勝手にもらってごめんなさいって言うのよ」


「……おばさん、怒らないかな?」


「怒らないわよ。だって母さんと一緒で、おばさんも優しい人だもの」


「ん! じゃあ、行ってくる!」


 手紙を片手に意気揚々と出かけた息子に手を振って、母親はキッチンの隣にあるドアの前で立ったままでいる。

 間も無くして、錆びた金具が軋む音と共に先程の少年とはまた違う幼子が入ってきた。


「ただいま!」


「おかえり、グレース」


 入ってきたのは、幼い少女だ。身長でいえば、先刻の少年と同じくらいか。

 母親は息子にしたのと同じように、グレースと呼んだ少女の下ろされた長いスカーレット色の髪の毛を撫でた。


「あらら。髪の毛、解けちゃったの?」


「うん! ケンカしてたら、スルッて抜けちゃった」


「母さんが結び直してあげようか」


「うん、おねがい」


 するする、と細い髪に指を入れ、纏めていく。


「またケンカしたの?」


 母親の質問に、少女は若干頭を横に傾けて、瞬きをした。


「うん」


「どうして?」


「だって、またアイツらが兄さまの悪口を言っていたから」


 少女から長いリボンを受け取り、丁寧に纏めた髪をきつくリボンで結ぶ。

 纏められた部分は、可愛らしい蝶々結びだ。


「よし、できたわ」


 少女の背中を軽く押し、膝を伸ばす。


「ありがとう、ママ」


 母親は少女──自分の娘の頭をそっと撫でてやり、諭すように優しく語りかける。


「グレース。母さん何度も、ケンカはしちゃダメって言ったでしょ?」


「でも──!」


 愛する母親に怒りの気色を悟ってもなお、少女は食い下がる。


「いい? グレース。どんな時でも、人を傷つけるのだけはだめよ。言いたいことがある時は、ちゃんと言葉で伝えるの。分かった?」


 少女は瞳を潤ませ頬を膨らめる。

 母親にもう一度撫でられると、不満を押し込み、こくりと頷いた。


「よし、じゃあ、お夕飯の準備しましょうか。グレースも手伝ってくれる?」


「うん! 今日のご飯はなあに?」


「今日はねえ──」


 母親が今日の献立を口にしようと息を吸った瞬間、地面を分かつほどの轟が空気を震えさせた。

 振動は木製の床だけでなく小さな家の窓から壁、ドアまでも軋ませ、母娘を怯えさせる。


「マ、ママっ──!」


 少女はぴったりと母の足にしがみつき、震える体を母に縋ることで止めようとする。


「大丈夫よ、大丈夫だから――」


「──きゃっ」


 二度目の轟音が地面を揺らし、母娘は立っていられずにその場で崩れるようにしゃがみこんだ。


「ママ、あれ……」


 少女は近くの窓を指さし、言葉を失う。

 娘の人差し指が示す方向に目を向けた母親は、穏やかな瞳に瞬時に緊迫の色を強めた。

 一体彼女たちは何に怯えているのか。

 答えは、窓の向こうの景色を覆う濃紫色の『異形』にあった。


「最近は来なかったじゃない──っ!」


 娘に聞こえないように極小の声で吐き出すと、母親は腰を抜かした娘を抱き抱えてすくっと立ち上がった。


「ママ──?」


「グレースは目を瞑っていなさい」


 娘の瞼を撫で、瞼が下ろされたのを確認してからドアを開ける。

 ドアの先には、普段とは全く違った景色が広がっていた。

 人々は発狂し、辺りを何かから逃げるように走り回っている。その中には、母娘の見知った姿も、普段家からあまり出てこない人の姿もあった。


「アルヒはどこなのっ──?」


 母親は焦燥を帯びた声で息子の名前を呼ぶ。

 周りを見渡すが、そこに愛する息子の姿はない。

 ドアを開けた手をドアノブから離し、家から出ようとした、その時。


 背後で、思い出がひとたまりもなく崩れ去る音が響いた。

 音は母親の胸の中で痛みをともなって反響する。


 振り向けば、それであったとわからないほどに潰された、母親と二人の子供の家があった。

 潰されたのは彼らの家だけではなく、隣の家その他大勢の家がただの瓦礫と化していた。


 母親は元凶、自宅があった場所を踏みつけにしている『異形』を睨みつけた。

 母親の何倍もある巨体で、四本の足と顔はあるが、人間のものとはかけ離れている。


 体全体をゴツゴツとした紫色の皮膚が覆い、巨大な足の先には人間の頭の大きさほどの鋭い鉤爪が生る。

 トカゲのような頭もまた人間を易々と呑み込めてしまうほど大きく、口からは霧のような瘴気を発している。

 おまけに背中には羽根のない翼が大きく存在感を示していた。


 まさしく、この世界で最も恐れられている『悪魔』である証拠。

 母親は震える足を奮い立たせ、巷では『ドラゴン』と呼ばれる『異形』の獰猛な紫色の双眸と対峙する。


「あれえ? この辺だと思ったんだけどなあ?」


 ドラゴンの背の上から、この状況にはそぐわない間の抜けた声が発せられた。

 同時に、右半分が黒で、左半分が白色の毛髪の幼い少年の顔が現れる。

 少年は赤紫色の瞳を母親に向けると、実に楽しそうな様子で八重歯を覗かせた。


「よお、人間。久しぶりだな」

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