the body

美崎あらた

第1話


     1


これでもかっていうくらい暑い日だった。中学三年生の夏休みで、休みって言っても受験勉強をしなくちゃいけなかった。ママが調べてきた高校の入試説明会だか学校見学会だか、なにかそんな感じのイベントに出かけて、午後からは塾に行かないとな……ってところだった。

 日野駅の改札から出て、長い坂をのぼっていた。アスファルトの照り返しがきつくって、視界がモヤモヤと揺らいでいた。キンキンに冷えたコカ・コーラが無性に飲みたかった。ドコモショップとセブンイレブンを道路の向こう側にとらえ、これから交差点を渡ろうというところで、道の脇の草むらにカラスの死骸を見つけた。

 車に轢かれてからしばらく引きずられでもしたのか、飛び出たはらわたがねじ切れたりぺしゃんこになったりしていた。ついさっきまで生きていたと見えて、生臭いにおいがあたりに充満していた。動物園のにおいよりはずっと死に近くって、魚をさばくときより無秩序なにおい。

 とにかくはじめて見たものだから、あたしはびっくりしてしまった。あらら……という感じで足を止めて、しばらく見入ってしまう。ずいぶん山寄りだけれども一応東京都の端っこに住んでいるわけだし、なかなか獣の死骸なんか見ないんだ。

 ハエが寄ってたかってブンブンうるさい。オエッと吐きそうになって、あわてて目をそらした。セブンイレブンに駆け込んで冷房の人工的な風にあたる。コンビニに入っちゃったものだから、とりあえず雑誌コーナーに突っ立ってみる。ファッション誌を手に取ってみるけど、全然画像が頭に入ってこないや。カラスの黒い影、ちっちゃい内臓が飛び出してハエがブンブン。そればっかりぐるぐる。

 涼しい空気をチャージして、あとは一気に帰路を急いだ。できるだけ道の脇は見ないようにした。今日はあちこちにカラスの死骸がばらまかれてんじゃないかっていう妄想にとらわれていた。あるいは、いつもそこにはカラスの死骸たちがいたんだけど、あたしがいつもそれに気が付かなかったんじゃないかって。みんなはそれに気が付いてるんだけど、誰もあたしに教えてくれない。それはあまりに当たり前すぎるからだ。

「マジで夢に出てきちゃいそう」

 家に着くなりママに一部始終を報告した。一部始終って言ったって、交差点の脇でカラスの死骸を見たってだけなんだけど。

「へぇー」

 ママの反応は薄い。なんなの、このショッキングな光景を共有してはくれないの? 一生懸命そのグロさを説明するんだけど、ママは聞いてんだか聞いてないんだか「へぇー」を繰り返す。あたしのボキャブラリーが足りないってわけ?

「カラスだって死ぬでしょ。生き物なんだから」

「そりゃそうだけどさ、とにかくグロかったんだって。ママ見たことある? ていうか見てきて! まだそこにあるから!」

「いやよ。あんたのお昼ごはんのケンタッキーフライドチキンだって、もとは生きてたんだから、そんなイチイチ取り乱すことないでしょう?」

 ママはカーネルおじさんの微笑みがプリントアウトされた紙の箱を取り出す。

「うっそ、マジかよ。今はどう考えてもチキンなんて食べれないっしょ」

「あらそう。でもあなたが昼はケンタッキーにしようって、つい三〇分前ラインしてきたんだからね?」

 そりゃそうなんだけど、それはカラスの死骸とご対面する前の時間軸の話だ。その時とは事情が違うっていうか、その時のあたしとは見えてる世界が違うっていうか。

「ごめんマジ無理。ポテトだけ食べる」

 あたしはフライドポテトの包みだけ持ってドタドタ階段を上り、部屋に引きこもった。正直吐きそうだったけど、ポテトへの礼儀として、まだ温かいうちに食した。濃い味のフライドポテトはいつも通りであたしを安心させてくれる。マックポテトの次に好き。食ってばかりじゃ太るよってパパには言われるけど、まだ大丈夫だと思ってる。そんなのは中年のおばさんになってから気にすればいいんだ。バスケ部を辞めちゃってからあんまり運動はしてないけど、義務教育の中には体育もあるわけだし、最低限の運動はしてるはずだ。たぶん。

 ウェットティッシュでお手々を拭いてから、ゴロンと二段ベッドの下段に横たわる。本来そこはお姉ちゃんの場所だが、今彼女はいない。年上の彼氏といっしょにどこか旅行に出かけちゃった。お姉ちゃんは中高一貫の私立に通っていて、今は高校二年生。大学生の男と付き合ってる。それにしても、女子高生に手を出す大学生って変態に決まってる。もうちょっと待てばいいのに。でもお姉ちゃんからすると、年上の彼氏が車で迎えに来てくれるのがうれしくってたまらないらしい。優越感? 友達に見せびらかして自慢するんだ。年上の彼氏もファッションの一部。その車だって実家の車でしょ? 別にうらやましくもなんともないけど。だってあちらさんはどう考えたってヤルのが目的なわけだから、ファッションのために身体ゆだねちゃうなんて信じらんない。けーべつしちゃう。

 いやいやいや、頭を振って雑念を追い払う。もうちょっとでお姉ちゃんと年上彼氏とのセックスを想像しちゃうところだった。それこそゲロ出ちゃう。

 スマホを枕元の充電器にさす。グーグル先生に聞いてみたいことを思いついたんだった。

 カラススペース死骸スペース見ない、で検索。そうするとたくさん検索結果が出てきて、あたしだけじゃないんだって、孤独感が和らぐ。世界とつながってる~って感じがする。日本語のサイトしか見ないけどさ。

 で、胡散臭いやつから比較的まともそうなやつまで、いくつかのサイトを見た結果、都会でカラスの死骸を見ないのは、カラスが共食いをするからだってことがわかった。わかったっていうか、ネット上の多数決ではその票が多かったってだけだけど。

 考えてみればそりゃそうかって思う。死んだ後、身体をこの世から消滅させようと思ったら喰われるしかないんだ。そういえばこの前、理科の授業でやったじゃん。食物連鎖、弱肉強食。生産者、消費者、分解者。死んだら喰われるか、菌とか細菌とかに分解されて無に還るか……。死んだら水と二酸化炭素まで分解されて、また植物に使われるんだって学校の先生が言ってた。勉強はあんまり得意じゃないっていうかやりたくないんだけど、その話はなぜだかはっきり覚えていた。ふーん、ぐるぐる回ってるんだね~って妙に感心したんだ。

 あたしはあのカラスが別のカラスたちについばまれながらこの世から消滅していくところを想像した。想像せざるを得なかった。それからついでに、今まさに階下でママがあたしの分のケンタッキーフライドチキンをむさぼっているところも想像した。外はパリッと中はしっとりジューシー。骨から肉を引きはがしながら食べるむさぼる。

 ちょっとおなか減ってきたな、なんていまさら言えないから、塾に行くって言って家を出た。


     2


 これは夢だなってわかってるんだけど、どうしようもできないってことがある。これはまさにそういうやつだった。

 グーグルマップの衛星写真みたいに、あたしはこの町を見下ろしていた。ギューンとズームして交差点に急降下。セブンイレブンとドコモショップ。でも今のあたしはカラスだから、文字を認識しない。ガラスの向こう側で人間たちがスマホをかかげたり、雑誌をめくったり……。

 車が来ていないことはきちんと確認していたはずだった。カラスって結構頭がいい。固い木の実を道路に置いて通りすがりの車に割らせるカラスもいるらしい。そんなあいまいな知識が映像となってよぎる。

 でもその日のあたしは木の実を加えてたわけじゃなくて、交差点の淵にボタッと落ちている人間の落とし物に狙いをつけていた。コンビニで売ってる脂っぽいチキン。いかにも人間に培養されたお肉って感じのそれが、道端に落ちている。ガキんちょが落っことしちゃってそのまんま。

 生ごみの日にゴミ捨て場を漁っていればこんなことにならなかったんだ。でも、お腹がすいてたまらなかったから、その大きな獲物に飛びついた。そしたらガンッと衝撃が走ってゲームオーバー。死にました。

 そこであたしは一回死んで、それで目が覚めたらよかったんだけど、そうはならずに、まだ夢の中で視点だけが変わる。今度は人間の視点。身長160センチにちょっと届かないくらい。いつものあたしの目線だ。それで、たった今車に轢かれたカラスの死体を見つめていた。飛び出したはらわためがけてハエがたかる。

 ホントはそこでセブンイレブンに逃げ込むんだけど、夢の中のあたしはまだじっとしていた。そうしたら、ハエの次にカァカァって仲間のカラスたちが集まってくる。やめてやめてやめてって思うんだけど、想像していた通りのことが起こる。

 カラスの死体を都会で見かけないのは、彼らが共食いをするからだ。

 集まってきたカラスたちは、死んだカラスの身体の上に群がり、各々好きなところからむしり取っていく。羽を引きちぎって肉をついばむ。小さめの骨ならそのままぐいっといってしまう。肉を得たカラスたちが飛び立つ。後には食べ残された骨と羽毛が散らばるが、それらもまもなくハエやその他小さな虫たちが食べるなり持ち帰るなり。さっきまであたしが入っていたカラスは世界から姿を消した。

 もう誰も思い出してくれないのかなってちょっと寂しくなる。あまりにあっけないじゃないか。あたしはもうちょっとこの世に痕跡を残せるだろうか。ねぇママ。ママなら悲しんでくれるよね。

 振り返るとそこにはママがいる。おいしそうにコンビニのフライドチキンを喰ってる。

「さっきそこで拾ったの。もったいないから」

 そんなことを言ってむしゃむしゃ。汚いからやめなさいって懸命に注意するんだけどママは聞いてくれない。

 言うことを聞かないママにあきれ返っていたら、さっきあたしを轢いていった車が戻ってくる。

 VとWを組み合わせたマークがついてる車で、そこからカップルが下りてくる。大学生風の若者と、あたしのお姉ちゃんだった。

「せっかく気分よくドライブしてたのに、そのカラスが飛び出てきたせいで、もうサイアク!」

「俺の車が汚れちゃったよ」

 なんかそんなことを言ってる。うるせぇ黙れってそんなことを言ってるあたしはどうやら死んだカラスの味方みたいだった。

 ……で、まったくキリはよくないんだけど、そこで目が覚めた。夏の暑さとはおそらくあんまり関係なく、じっとり嫌な汗をかいていた。


     3


 ベン、ベン、ベベベン、ベン、ベベベン、ベン、ベンベン、ベン、ベベベン、ベン、ベベベン、ベン、ベベベン、ベン、ベベベン、ベンッ

「ウェンダナイッ、ハズカム…………アンダランディズダーク……アンザムゥーンイッズィオゥンリィ、ライッウィイルスィー」

「ちょっと、熱唱するのやめてくんない?」

 アイミがあたしのヘッドホンをぶんどってそんなことを言った。あたし、熱唱してた? 実はこの後の歌詞は全然よくわかんないんだけど。ここからサビまでは鼻歌でごまかす作戦なのだ。

「熱唱は言い過ぎたけど、でもまぁ気が散るからやめて」

「ごめんごめん」

 ナントカシティっていう、別に町でもないのにシティって名前に付いた高層マンションの一室に、アイミの部屋はあった。アイミはお父さんお母さんといっしょに住んでいる。ちょっと前までは、少し年の離れたイケメン風のお兄ちゃんもいたんだけど、就職して都心の方に引っ越したらしい。

 あたしはアイミの部屋でベースの練習をしていた。アンプにヘッドホンをつないで、ベベベンと弦をはじく。特に目標があるわけでもないから、思いついたときにふらっと寄って、ベース入門にはこれって聞いた『スタンドバイミー』を奏でるのだ。

 そもそもベースに興味があったわけでもなかった。というか、ベースとギターの違いもよくわかってなかった。中二の夏ごろからアイミと仲良くなった。部屋に遊びに来て、軽音部のチャラそうな人がよく持ってるデカいケースを発見。ギターだと思っていじってたら、それはベースだってアイミが言う。お兄ちゃんが置いていったんだけど、私は弾けないし……ってことであたしがチャレンジすることに。女子高生になったら軽音部に入って青春っぽい青春を謳歌するのが夢なんだ。

 部屋にはベッドと勉強机、それから本棚。アイミは机で夏休みの宿題を真面目にやってる。あたしはベッドにあぐらをかいてベースを抱える。本棚にはお兄さんが置いていったという少年マンガとアイミ所有の少女マンガが混在している、少年マンガの方はあたしでも知ってるドメジャーなやつで、あんまり個性は感じられない。みんなが読んでるから読んでますよって感じ。少女マンガの方はちょっとクセが強くって、あんまり書店の正面にはこないような、今が旬の俳優女優出演で映画化したりしないようなものが並んでいる。あたしはアイミのそういうところが好きなんだけど、でも深く首を突っ込んだりはしない。アイミはそういうのをマジに嫌う。ひとの嫌がることをやっちゃダメだって幼稚園で習って、あたしはそれをきちんと実行してるんだ。

 あたしはしばらく黙ってベースの弦をはじいた。ヘッドホンを没収されちゃったから、たよりないペロンペロンの音だけが手元からこぼれる。

「よし、終わった」

 アイミがそう言ってノートをパタン、シャーペンころころ。宿題だか何だかわからないけれど、ひと段落ついたらしい。

「アイミはまじめちゃんだね」

「まじめっていうか、ひとつひとつ片付けてからじゃないと、次のことに取り組めないんだよね。未練みたいなものを残したくないし」

「未練は大げさだよ」

「そっかな……てか、なんか話があるの?」

 あたしは身を乗り出して、カラスの死骸を見た話をした。マジグロかったってことを、語彙力の限りを尽くして説明した。そのあと見たわけわかんねー夢の話まで、覚えているだけこと細かく説明した。アイミは特に口をはさむでもなく、ふむふむといった感じで聞いていた。

「でね、最終的には仲間に喰われて跡形もなく消えてしまうカラスの命に思いをはせたっていうか、そんな感じ」

「ふぅん」

 アイミの「ふぅん」は、ママの「へぇー」より幾分心地よく響いた。もうちょっと感情がこもってる。

「どうですか、アイミ先生」

「どうって何が? フロイトじゃないんだから、夢判断なんてできないけど」

「風呂糸?」

「いや、なんでもない」

「あ、今ちょっと馬鹿にしたっしょ」

「ごめんごめん」

 アイミは他の同級生と比べて、ちょっと大人っぽかった。大人っぽいっていうとセクシーみたいな感じになっちゃうけど、なんていうか、落ち着いてるっていうか。人付き合いが悪いって感じでは全然ないんだけど、一人で本を読んだりしている時間も意外に多くて、あたしの知らないところで、あたしよりずっとたくさんのことを知っている……みたいな。

 学校の勉強がメチャクチャできるってわけじゃないけど、結構頭は良かった。でも本人はそういうことに無関心らしくって、アイミの成績ならヨユーで合格しちゃうような総合高校を第一志望って言い張って親を困らせてるらしい。あたしからすると、なんじゃそりゃもったいねーって感じだけど。

「なんにせよ、カラスの死骸くらいでそれだけ心揺さぶられるっていうのは、感受性が豊かなのかもね。ちょっとうらやましいかも」

「へへへ」

 なんか褒められたっぽいので照れておく。

「たしかに私たちは普段、『死の気配』みたいなものから隔離されて生きているのかもしれないね」

「ん? どういうこと?」

「ケンタッキーの話もそうだけどさ、スーパーに行ったら、実は無数の動物の死体が陳列されているわけじゃん?」

「魚とか、豚とか牛とか鶏とか?」

「そう。解体された死体、あるいは原型をとどめないレベルまで加工された、死体だったもの」

「ウィンナーだ」

 いくら世間知らずのあたしでも、ウィンナーが腸にひき肉をぶち込んだものだってことは知ってる。

「どっか遠くで誰かがその命を殺してさばいて内臓ぶちまけて……っていうか内臓もきれいに処理して喰うんだろうけど……そうしてスーパーに並ぶわけじゃん? 死を代行する人がいるから、私たちはその気配に気が付けない」

 アイミは勉強机から離れてあたしの隣、ベッドに腰を下ろした。ぐああーっと伸びをしてベッドにあおむけに倒れる。そのはずみであたしとベースがボヨンボヨンはずむ。

「スーパーだけじゃないよね。私たちって、子どもだからっていう理由で死から遠ざけられてると思うよ。『子どもにはまだ早い』って言ってさ」

「あー、そうかも。ちっちゃいときは死んだらどうなっちゃうのか、すごい気になったな。パパに聞いたら、天国か地獄に行くって。生きてるうちに良いことしとけば天国、悪いことすると地獄。閻魔大王が裁判するんだって。今思うとすっげー子どもだましだけど。パパだって死んだことないんだから知ってるわけないし」

「死への不安は信仰によってしか解消されない。だからたくさんの宗教がこの世にはあるんだろうね」

「ほほう」

 アイミはムツカシイことを言う。

「そういえば、私たちが中一の時にさ、塾に河本先生っていたじゃん? 学生っぽい先生で、わりとかっこよかった……」

「いたいた!」

 若くて身長がめちゃ高い男の先生がいた。顔は可愛い系だったけど、背が180くらいあって、それで随分カッコよく見えたんだ。女子ウケは良かったし、フットサルが趣味って言ってて、運動部の男子からもそれなりに評判は良かった。

 一〇月っていう半端な時期に、その人はふといなくなったのだ。体調不良ってことで代わりの先生が来て、そのまま河本先生は自然に消えていった。大学の勉強が忙しくなったのか、就職活動か、なんかそんな感じの、『大人のじじょー』だと勝手に思い込んで一人で納得していたんだけど――

「あの人さ、バイク事故で死んだんだって」

「ガーン」

 効果音が口から出ていた。この衝撃を『ガーン』というマンガみたいな効果音でしかあらわせない自らの表現力に絶望しちゃうけど、マジでガーン。

「お兄ちゃんの友達が、あの先生の大学の後輩かなにかで、それでふとした時に聞いたんだ」

「えー、なんで今まで言わなかったの?」

「だって、私たちってそもそもそんなにカンケーないし。お葬式に呼ばれるほどの間柄ではもちろんないし、現に先生が途中から来なくなっても、その状態にスグ順応していったし……」

 言われてみればその通りで、高身長イケメンお兄さんの死自体にそれほど大きな悲しみはない。二年も経ってて時効ってのもあるけど……。どちらかというと、意外に身近なところに死が転がっていて、アイミの言う『死の気配』ってやつを感じてゾゾッとしたのだ。だって、おんなじ教室に、つまり同じ空間にいたんだよ? おそらくは死の数日前――あるいは数時間前に。

「ぐあー、マジかー」

 モヤモヤが鬱陶しくって、とりあえずベースをまたはじき始める。 ベン、ベン、ベベベン、ベン、ベベベン、ベン、ベンベン、ベン、ベベベン、ベン、ベベベン、ベン、ベベベン、ベン、ベベベン、ベンッ

「あのさ――」

 ウェンダナイッと歌い出す前に、アイミにさえぎられた。

「もしかしてだけど、『スタンドバイミー』観たことない?」

「観たことない……って、これ映画か何か?」

「映画だよ。スティーブン・キング原作の」

「へぇー、王様が書いてるんだ」

「はぁ……」

 アイミはあたしのムチムチの無知っぷりにため息をついた。

「『スタンドバイミー』ってのは映画だよ。アメリカの少年たちが、くそ暑い日に線路沿いに歩いていくんだ。死体を探してね――」

「ガーン」


     4


 そのあとで、アイミ先生の講義を受けた。スティーブン・キングっていうのは王様じゃないってことがわかった。『スタンドバイミー』というのは、映画のタイトルであって、原作の小説の方は”the body”となってる。辞書でbodyを調べてみると(さすがに『体』って意味は知ってんだけど)、割と早い段階で『死体』って意味が出てくる。はぁ~なるほど。

 本棚のマンガをかき分けて、アイミが一冊の文庫本をとり出す。背表紙が黒くって、ジャンルはホラーですよって雰囲気を出してる。

「この短編集に入ってるよ」

 表紙には『恐怖の四季―秋冬編―』。

「春夏編もあるの?」

「あるよ。そっちは『刑務所のリタ・ヘイワ―ス』が入ってるね。『ショーシャンクの空に』は見た?」

「いや、見てないっす」

 春夏編に言及したことを後悔しつつ、秋冬編を開いてみるけどイマイチ内容が頭に入ってこない。小説って、あんまり最後まで読めたことがない。結局読むのはあきらめて、おうちに帰って映画を見ることにした。


 一回立川に出て、レンタルビデオショップに立ち寄る。

「す、す、す……」

 ってバカみたいに頭文字を連呼しながら洋画コーナーをウロウロ。すぐ見つかった。やっぱ有名なんじゃん。ジャケットは見たことがあったような気がした。

 電車で一駅分揺られながら、なんで今電車に乗ってんだっけ? わからなくなる。橋を渡るところで視界がひらける。夕日が多摩川に反射してまぶしい。勉強したくないから……ってのもあるけど、カラスの夢のことをアイミに話したくって、マンションに行って話して、その流れからスタンドバイミー。整理してもやっぱよくわかんないや。でも意外にあたしはこの映画を見るのを楽しみにしている。

家に入ってリビングのいちばんいい席に陣取って、ディスクをセット。

「夏休みの宿題で、感想文書かないといけないから」

 と、適当なことを言って「受験生なのに……」っていうパパとママの小言を回避。

「美術の宿題? 学校の先生も何考えてんのかねー。今じゃなくてもいいのに」

 結局ママは小言を言うんだけど、簡単に騙されてしまう。チョロいもんだぜ。最近になってわかったんだけど、ママはやはりあたしのママで、あんまり勉強が得意じゃないっぽい。簡単に言ってしまえば頭がよくない。ていうか、あんまり自分の脳みそ使って考えてないみたいだ。最終決定はパパに任せちゃって、それに合わせて言うことをコロコロ変える。パパが勉強しなさいっていえばママもそう言うし、パパがたまには息抜きも必要だって言えばママもそう言う。自分も勉強してきてないから、どのくらいやればいいのかなんてわかってないのだ。

 困っちゃうのは、司令塔であるはずのパパもかなりいい加減ってことだ。お姉ちゃんが私立中に入学しちゃったものだから、お前は都立に行きなさいって言う。はぁ? お姉ちゃんばっかりずるくない? って言ったら、先に生まれてきたんだからしょうがないって言う。いやいや、そんなに年が離れてるわけじゃないんだから、妹のことも計算に入れてからお金を出せばどうなの? そんなことを口走ったら、お前はもう滑り止めの私立も受けさせんって言う。いやいやいや、都立落ちちゃったらどうすんの? 中学で留年はまずいって……まさか就職? イマドキ中卒を雇ってくれるとこなんてないって。

 てな感じで、今我が家では進路の話がアンタッチャブルな状態になってる。中三生の家庭環境としてはサイアクだと思うけど、どうなんだろ……っていう本人がこれからリビングで堂々と映画を見ようってんだからまぁ大した問題じゃないんだろうけど。

ムカついても自分の進路が不透明でも、とりあえずあたしはここにいるしかないんだから。

「ふーん、『スタンドバイミー』か、お前にしてはなかなかいいチョイスじゃないか」

 なんて、パパは言ってる。今日はビールを片手に上機嫌だ。もはや一緒に観賞しようとしてる。いやぁそれはウザいなーと内心思うけれども、なんか怒られても困るからノーリアクションで見て見ぬフリ。

 映画はおじさんの回想って形で始まる。そのおじさんのセリフによって、死体を探しに行く話だってことは、割と序盤で明かされる。映画といえば、頭空っぽでも見られるストーリーだいたいいっしょのアクション映画か、イケメンの俳優が出てる恋愛映画しか見ないあたしだけれど、まぁなんとかストーリーは追えた。

四人の少年がいかにもアメリカって感じの大地を、線路に沿って歩く。要所要所で各々の家庭の事情的なことが明らかになったりならなかったりで、男の子っていうのはこういう友情なんだふぅーん、それもいいかもね、なんて思ったりする。女の方はケッコー複雑だし。

 そもそも何を期待して見始めたんだったかわからなくなっていたが、いよいよ森の中で死体を見つけるシーンになって思い出した。あたしも死体を探していたんだった。あの日見たカラスの死骸がどうして夢にまで出てきてあたしを苦しめるのか。少年たちが死体を目にしたら、何かわかるんじゃないかと思ったけど、結局何もわからなかった。出てきた死体もあんまりグロくなくて、あたしが見たカラスの死骸の方がもっとグロかった。でも、そりゃそうか。映画の中の死体はメイクか作り物なんだし、昔の映画だからメイクの技術も今より劣るだろうし。

 見終わってから振り返ると、いつの間にかパパは寝室に撤退していた。ディスクを取り出してケースに戻しながら、ゆっくり映画を振り返ってみるんだけど、思っていたより死のテーマが重くのしかかってきたりはしなかった。ちょっとそれを期待していたのかもしれなかったけれど、そういう意味では期待は裏切られた。死と触れるシーンよりも、橋で汽車が迫ってくるシーン、パイ喰い競争の挿話、そしてヒルがかわいらしい顔した少年のアソコにくっついてるシーン……そんなのばかり思い出された。

「ダーリンダーリン、スタァンド……バァイミー」

 熱唱はせずに、小さい声で口ずさみながら寝室へ。

 でも、死体が割と綺麗でよかった。

 ふとそんなことを思った。少年四人のうちの誰か……たしか、太っちょの子だ。その子が死体の状態を気にするセリフを吐いていた気がする。汽車に轢かれたんだから、目ん玉飛び出てぐちゃぐちゃかもしれない。たしかにそうだ。それは映画の世界だからってこともあるんだろうけど、綺麗だった。

 リアルだったらもっと腐ってて蛆虫湧いてただろうか。なにしろあれだけ暑そうな夏の日だ。あるいはコヨーテか何かに食べられてしまって跡形もなくなってたかもしれない。うん。それがいちばんしっくりくる。カラスの死骸が他のカラスに食べられてしまうように、森で死んだら森の動物に喰われてしまうんだ。

 そんなことを考えながら眠りについた。どこかで犬の遠吠えが聞こえた気がした。


     5


 スタンドバイミーに影響されて、これでもかっていうくらいにグロテスクな夢を見るのかと思っていた。感性豊かってアイミに褒められたあたしだし。けれども全然関係ない夢を見た。

 ダムダムダム、リズムよく響く重低音。キュッキュッ、よく磨かれた体育館の床とシューズの底が奏でる摩擦の音。あたしはバスケットボールの試合をしていた。そういえばあたしはバスケ部だったんだ。

 やっぱり暑い日で、体育館の中は蒸し風呂状態だった。汗が乾かずそのまま滴り落ちる。夢の中のあたしには、その汗の一粒一粒がスローモーションのように見えていた。床に落ちてそれがはじけるところまで鮮明に見えている。

ダムダムキュッキュ。気持ちのいい音が重なる中、しかし違和感がある。人の声が全く聞こえない。まぁこれは夢だし。って誤魔化してもいいんだけど、これは結構現実に寄り添った夢だ。これに限りなく近い時間を実際に体験したことがあった。

チームメイトが全く言葉を交わさずにゲームが進行する。こんなのはおかしい。あたしは一人でも声を出そうとするが、出ない。夢の中って、そういうことあるじゃん? 怪獣に追いかけられて、もっとダッシュで逃げたいんだけど、全然スピードが出ない……みたいな。それと一緒だった。べつに喉が痛いとか息が切れてるとか、そういうことじゃない。とにかく理由もなしに声が出ない。

走り回って汗ばかり流れていくんだけど、実はゲーム開始からずっと、あたしはボールをさわっていないのだ。あたしはそこに存在しないかのように扱われている。ていうか、ホントに存在していないのかもしれない。ボールが全然パスされないことに気がついて、背筋に何か冷たいものが走って、でも体育館はバカみたいに蒸し暑くって、汗が止まらなくて、あたしは自分の汗のしずくを気づけば目で追っていたんだ。ボールを追ってもほとんど意味がないんだから。

カラスは死んだら土に還るっていうか、食べられるなりなんなりして消えゆくんだろうけれど、その時のあたしはそこに存在しているのに、生きたまま死んでいたのかもしれない。

 やばいやばい、こっから出なきゃ。あたしは焦り始める。その願いを誰かが聞いてくれたのか、唐突にブチッと電源が切れるみたいに夢が終わる。


     6


マジ油断してたけど、いきなりこんなのって反則だと思う。夢にルールなんてないんだろうけど、心の準備できてないわー。八月も中旬になって、夏休みの終わり――つまり新学期のはじまりが近づいてきたからだろうか。


 中学に上がって、小学校から知ってた子もいたんだけど、全体の人数は三倍くらいに増えて、でもあたしは持ち前の明るさですぐに友達一〇〇人作った。それは嘘だけど。それは嘘なんだけど、クラスの中心メンバーには入っていたんだと思う。それでとりあえず女子バスケットボール部に入った。そんなに興味はなかったけど、運動神経は良い方だったし、文化部に入るキャラじゃなかったし。

 でも始めてみると、結構真剣に打ち込んだ。ついさっきまで小学六年生やってたわけだから、体力的には結構きつかったんだけど、そんなに文句を言うでもなく、真面目に練習した。中一の二学期には中三の先輩が引退して、控えていた中二を差し置いてレギュラーメンバーに選ばれた。まぁそれはしょうがないじゃん。上下関係はわかるんだけど、スポーツは実力至上主義の世界だし? あたしのことを「調子に乗ってる」って思う先輩がいたことはもちろんわかってるんだけど、それが表に出てくることはなかったから、あんまり気にはしなかった。

 中二の夏休み。休みだからといって部活の方は休みにならない。むしろここぞとばかりに練習練習の日々。中学三年生は最後の試合を終えて引退。色紙にカンドーのメッセージを寄せ書きして送り出した。

 それで、残された中二の中から次の部長とキャプテンを決めようっていう時期だった。他の部活がどうなのか知らないけど、バスケ部において部長とキャプテンはノットイコールだ。部長は部の責任者だから、顧問の先生からの連絡を仲介したり、練習の号令をかけたり、練習メニューを考えたりするのが仕事で、キャプテンは試合の責任者。背番号4。

 あたしたちの中学のバスケ部では、部長もキャプテンも部員の投票によって決めることになっていた。三年生が引退して、投票期間があって、開票、発表。その間、ごく短い間だけれど、リーダー不在の期間がある。部長もキャプテンも決まってないけど、練習の時間は割り当てられて、体育館を使わないといけない。誰かがある程度、なんとなく仕切らないと、やっぱり中学一年生と二年生の集団だから、グダグダになっちゃう。ぶっちゃけ時間の無駄だ。

 んで、誰もやりたがらないから、あたしが仕切った。とりあえず前の部長がやっていたメニューで今日もやろう。はい、始め! それでその日は丸く収まって、あたしも気持ちよく汗を流した。

 部長はしっかり者のナナに決まって、キャプテンはあたしになった。一年の頃から試合に出てるんだから、当然と言えば当然かなと思ったけれど、あたしにできるかなぁ、でもがんばります。ウッス! って感じの演技をした。

 それから、あの夢に見たシーンに飛ぶ。たしか他校との練習試合だった。顧問の先生どうしが仲良しで、ちょくちょくどちらかの中学にお邪魔して試合をするのだった。その日はうちの中学に来てもらっていた。キャプテンの初仕事だったからそれなりに気合入れて臨んだ。でも練習試合だから、まぁ気楽にってことで審判も生徒が交代でこなして、先生たちはぶらぶらと体育館から出ていった。どっかで煙草でも吸いながら世間話をするのかもしれない。ともかくその隙に、アレが起こった。夢の中では声が出なかったが、現実のあたしは結構みっともなく声を荒げていた。でも誰も反応してはくれなかった。汗といっしょに涙も出ていたと思う。

 さすがにキツくって、退部することにした。顧問の先生に退部届を出す。

「どうして急に? キャプテンの仕事が大変か?」

 先生は的外れなことを言う。先生に相談しようかと思ったけど、それで解決されるとも思えなかったので何も言わなかった。みんなにガン無視されて泣いちゃいましたって言うのもダサかったし。代わりに「イッシンジョーの都合で」と覚えたての言葉を使う。

「そうか、まぁ色々あるんだろうなぁ」

 そ、いろいろあるんだ。別にそんな強豪チームじゃなかったし、先生もそんなに熱心なわけではなかったから、それでおしまい。

 次の日にアイミも退部届を出したって聞いた。アイミはあたしとは逆で、部内でもあんまり目立たないベンチメンバーだった。同じ部員として、そしてたまたま同じ塾に通ってたってことで、会えばあいさつくらい交わすけれど、当時はそんなに仲良しってわけじゃなかった。でも、中二の夏休みで部活を辞めちゃうと、とんでもなく暇で(ママはせっかく部活辞めたんだから勉強しろっていうけど)、ちょっとずつアイミとお近づきになった。

 すっかり仲良くなってから、アイミにあの事件の真相を聞いた。真相ってほどの真相はなかったんだけど。

 中三が引退してすぐ、あたしが部長でもキャプテンでもないのに仕切り出した。それに対して「あいつはキャプテンになりたいから良い子ぶって票を集めてるんだ」って言う噂が流れ始めた。自分で言うのも何だけど、あたしは見た目もよくて中一の終わりごろには彼氏もいたし、そういう関係ないとこでも勘違いされやすいっちゃされやすいのかもしれなかった。まぁしかし、一回キャプテンに選んでおいてから退部に追いやるこの仕打ちって、なかなかエグいよね。

「まぁしょうがないよね。パッと見、派手な顔してるし。私服もちょっと郊外の中学生にしてはおしゃれすぎるし」

 アイミはそのように分析した。アイミまで辞める必要なかったじゃん、って言ったら、

「ちょうど辞める理由探してたんだよね。実はあんまりバスケ好きじゃないんだ」

 ベッドの上で苦い思い出に浸ってたら、もう朝九時になってる。夏休みだからって寝すぎだってまた怒られちゃう。


     7


 八月二十五日。塾の夏期講習が終わって、明日から学校が再び始まる。イマドキどの中学にもエアコンはあるし、八月いっぱい休んでいる理由もないんだ。もっと昔は九月一日から二学期が始まってたらしいけど、羨んでもしゃーない。諦めのキョーチ。

去年の夏はマジに凹んでたけど、アイミっていう遊んでくれる友達もいたし、徐々に回復していった。今では普通に女バスメンバーともおしゃべりする。寛大なあたし様が許してやってるんだって心の中では上から目線で心の平静を保ってる。別にいじめられてるわけじゃないし、今年の夏休み明けはそんなに憂鬱ってわけでもないはずだった。

 学校の宿題はギリ終わりそうだし、さーて今日は何をしよっかなーなんてのんきなことを考えながら朝ごはんとしてのドーナツをかじる。あたしが食べたいって言ったらパパが買ってきてくれたポンデリング。デブの朝ごはんじゃん。

「昨日の夜、ナントカシティっていうマンションで飛び降り自殺があったんだって。中学三年生の女の子が……」

 テレビを見ていたママが言う。ぽろーんとドーナツがテーブルに落ちる。

「は? すぐ近くじゃん。しかも中三って――」

「怖いわね。あんたの知り合いじゃなけりゃいいけど」

 ママの無責任な言葉を聞きながら、あたしはすぐにアイミにラインをした。マンションで飛び降り自殺があったらしいけど……既読は付かない。電話もしてみる……不通。ネットニュースを検索……いくつかヒット。

 あたしは駆けだしていた。カラスを見つけた日みたいにクソ暑い中、歩いて二〇分くらいかかる道のりを、走る。多摩川の河川敷に出る。そこを走り抜けるのが近道だ。途中で気持ちが悪くなって草むらに吐いた。グチャグチャになったドーナツと胃液が散る。それからまた走る。

 見慣れたマンションが見えてくるけれど、いつもと様子が違う。ドラマでしか見たことない立ち入り禁止の黄色いテープが張られ、まわりに野次馬がもう集まっている。あらあらどうしたのって集まってくるじじいばばあ。関係ないだろ引っ込んでろよ。物珍しいものがあるとすぐにスマホで写真を撮る若者たち。ホントにどいてくれ。

 救急車はとっくに去ったあとで、モノ自体はもうそこにはなかった。落下地点と思われる場所にはビニールシートが張られていて……川沿いの強い風がそれを少しだけ持ち上げる。まだ拭き取られていない、赤黒い跡が見える。アスファルトにしみこんで、まだ乾ききっていない赤。これから洗い流されてしまうであろう赤が――

 そこで意識が途切れる。


     8


 目が覚めると知らない天井。やけに清潔感のある無味乾燥な白い天井、白いカーテン、白いベッド。慌ててあたしのあとを追いかけてきたパパとママは、熱中症だか脱水症状だかでぶっ倒れてるあたしを発見。ここは病院というわけだった。

 なんかもうぐったりしちゃってジタバタできないところに、情報だけがバラバラと入ってくる。

 飛び降り自殺をしたのはアイミだった。救急車で運ばれたけれども、発見されたときにはとっくに死んでいたようだ。地面に身体がたたきつけられて即死。屋上には遺書らしきものがあって、それで事故ではなくて自殺だってわかったらしい。遺書の内容はプライバシーの関係なのかなんなのか、ニュースにはなっていない。

 あたし自身の身体には何の異常もなくて、すぐに病院からは解放された。自宅に戻った頃、ワンテンポ遅れてクラスメイトや女バスの面々からラインの嵐。アイミといちばん仲が良いと思われていたのはあたしだから、仕方がない。心配を装った好奇の通知たち。黄色いテープの周りに溜まった野次馬たちを思い出して、スマホの電源を落とした。

 ママもパパも、旅行から帰ってきたお姉ちゃんも、あたしとどう接していいのかわからないようだった。あたし自身も、どう接してほしいのかわからない。何もせず転がっているうちに夜が来た。そしてアイミが死んだっていうのに、いつも通り夜が明ける。新学期がはじまる。

「しばらく休んだっていいのよ」

 とママは言った。でもこのまま何もせず転がっていたら、あたしの方が死んじゃいそうだったから、学校に行くことにした。そうすればもっといろいろなことがわかって、心の整理もできるかもしれない。

 しかしその考えは間違いだった。学校の前にはマスコミらしき大人の人たちがいて、登校する生徒を捕まえてはインタビューしていた。

「彼女とはお知り合いですか?」

「いじめとかはあったのかな?」

「三年生だし、進路の悩みとか?」

「相談できる相手はいなかったの?」

 聞こえてくる声を全て無視して校舎へ逃げ込む。始業式兼緊急集会がありますということで、クラスメイトと言葉を交わす間もなく体育館へ集められる。事情が事情だけに、重苦しい空気が漂い、いつものように無駄話をする生徒も少ない。

 校長先生が出てきて、皆さんすでにご存じでしょうけれど、悲しい事件がありました。っていう調子で始まる。私たちもまだ、詳しいことはあまりわかっていません。外にはマスコミの人たちがいたでしょうけれど、皆さんは無責任な発言を控えるようにしてください。要約するとだいたいそんな感じのことを言った。それで、おしまい。所要時間五分くらい。そのあとは淡々と、例年通りの始業式。

 嘘みたいだった。夢を見ているのかと思った。教室に戻ってホームルームが始まっても、誰も彼女の死に触れようとしなかった。担任の清水先生はわざと意識しないように、そして生徒たちの意識がそちらへ向かわないようにしているようだった。意識して、逆に不自然に、いつも通りを装う。

「私たちは普段、『死の気配』みたいなものから隔離されて生きているのかもしれないね」

アイミの言っていたことを思い出す。

「子どもにはまだ早い」

いやいや、その子どもが死んじゃってんじゃん。すぐそこで。

 学校という組織ぐるみで、彼女の死を無かったことにしようとしている気がした。最初から存在しなかったんだ。飛び降り自殺なんかなかったんですよー。こちら学校、異常ありません。

 怖くなって逃げだした。勝手に荷物をまとめてダッシュ。清水のセンコーが何か言ってたけど無視。教室はもちろんざわつくけどそれも知らない。校門前にはまだマスコミがいて「ちょっと君――」これは全力の無視。振り返らずに駆け抜ける。まだ午前中なのにどこかでカラスが鳴いた。あたしは巨大な黒い影に追いかけられている。こわいこわい、こっち来るな。


     9


 それから一日二日はテレビのニュースでも取り上げられていた。画面の向こうにいる神妙な顔をした大人たちは、断片的な情報から好き勝手妄想する。

「彼女は二年生の夏にバスケットボール部を辞めています。部内でトラブルやいじめがあったのでしょうか」

 アレをいじめっていうならむしろ被害者はあたしで、アイミはべつに加害者でもなく被害者でもない。

「中学三年生で受験勉強に追われ、神経がすり減っていたのかもしれません。進路についても悩みを抱えていたようです」

 悩みを抱えていた……のか? あたしなんかよりずっと頭はよくて、でも本人はそんなに高みを目指していなくて、たしかに塾の先生やアイミママはもっと上を目指したらどうだ? こんなに実力があるのにもったいない……みたいなことを話してはいた。話しては、いたけどさ。

 彼女はなぜ若くして命を絶ったのか? それっぽい理由はいくつも出てくるものの、それらはすべて的を外しているような気がした。もちろんあたしも正解は知らないけれど、そもそもなぜ死んだのかって、そんなに重要なの? みんなミステリーの読みすぎじゃないですか?

 校長先生にインタビューするニュースもウザいほど見た。顔は映らないけれど、震える声で、謝罪と今後このようなことが起こらないための対策を述べた。カウンセリングがどうのこうの、悩み相談室の設置を検討、月に一度のアンケートを実施云々……。これまたどれも的外れだと思ったが、ここまでくるともう校長がかわいそうだった。とにかく「長」が付く人って大変だ。ろくに話したこともないし、おそらく名前と顔も一致しない人間が死んで、でもその責任を取らなくっちゃいけないんだから。

 三日ほど経つと、世間はこのニュースを忘れた。もう校門前に好奇心旺盛なおじさんおばさん連中はいなかったし、テレビはどこか遠くの出来事を詳しく解説している。その間にお葬式とかお通夜とか、そういう諸々の儀式が彼女の親族たちの間で行われて、それからあたしの家に連絡があった。

 あたしは一人であの部屋に行った。アイミのお母さんが出迎えてくれる。あんまりまじまじと顔を見たことはなかったけれど、明らかにやつれているようだった。彼女はアイミの話をしてくれた。声はさすが大人という感じで、大変落ち着いていた。話の流れで遺書も見せてもらう。ごくシンプルな便せんに一行『次の世界に行きます。心配しないでください』いや意味わかんねーし。それじゃ何の救いにもならない。

 アイミは死後の世界に興味があったみたいなの。そういう本が、本棚のマンガの後ろからいろいろ出てきてね。私もそれではじめて知ったんだけど……。だから彼女は希望を持って飛んだのよ。何かが苦しかったとか、絶望したとか、そういうことじゃないの。

アイミのお母さんはそう言った。彼女はそれを救いとしているみたいだったから、あたしは黙って聞いていた。


     10


 夜中の一時を過ぎて、ふと家を抜け出す。お姉ちゃんは二段ベッドの下でぐっすり眠っている。一度眠るとなかなか起きない。玄関から靴を取って、あえてリビングの出窓から外へ脱出。

 ジャージにTシャツという寝間着スタイルのまま、最寄りの踏切へ。とっくに終電は過ぎていて、静寂に包まれている。あたりに人目がないことを確認してから、中央線の線路内に侵入する。

「ベン、ベン、ベベベン、ベン、ベベベン、ベン、ベンベン、ベン、ベベベン、ベン、ベベベン、ベン、ベベベン、ベン、ベベベン、ベンッ――ウェンダナイッ、ハズカム……アンダランディズダーク……アンザムゥーンイッズィオゥンリィ、ライッウィイルスィー……」

 ベースは今持っていないので全部ハミング。気分は一人でスタンドバイミー。ダーリンダーリンそばにいてくれよって思うけれど誰もいない。

 無人の日野駅を越えて多摩川にかかる鉄橋へ向かう。この辺りはもう家々の屋根より高いところにレールがあって、結構恐ろしい。でも空中散歩みたいで、恐ろしくも美しい。それこそ本当に、どこか別の世界に行けそうだ。遠くにあのマンションの明かりも見えた。女子中学生が一人死んだとしても、そこにはたくさんの人が住んでいる。

 ふいに足元が揺れた。地震かと思ったけどそうじゃない。レールが揺れてる。列車が来るんだ。スタンドバイミーにもこんなシーンがあったな、ってあたしは妙に落ち着いている。どんどん揺れは大きくなる。次の世界ってどんなだろうなって思いながら振り返る。ものすごい勢いで光が迫ってくる。

 いやいや次の世界とかマジ無理ぃ~って叫びながら(実際にはそんな長文叫ぶ間もなく)、線路わきの土手へダイブ。そのすぐあとに貨物列車が唸りを上げながら通過していった。ガガンガガン、ゴウンゴウン。草と土にまみれて、一人で大笑いした。なんじゃこりゃ、だっせぇ。死ぬの怖すぎだろ。よくアイミは飛んだよね。勇気あるわ。

 笑いながら、そこではじめて涙が出てきた。笑い終わってから泣いた。どうせ誰にも聞こえないから大いに泣き喚いた。あたしは勝手に、アイミに裏切られたような気がして悲しかった。あたしに何も言わず旅立ったのが許せなかった。ついでに訳知り顔で分析する大人にもムカついた。でもあたしも、アイミのことを理解できてはいなかった。それはたった今わかった。死後の世界とかマジ無理だったし。

 誰からも忘れられてしまうかもしれない。消えてなくなっちゃうかもしれない。何も残らないかもしれない。そう考えると、怖くて死ねない。もっと爪痕をガッツリ残していきたい。

 だから、さようなら。

 あたしは橋を渡るのはやめて、家へ引き返した。貨物列車に轢かれかけただけで、特にどこか遠くへ行ったわけでもなかったし、街が小さく見えたりはしなかった。

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the body 美崎あらた @misaki_arata

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