自殺姫

鋼の翼

第1話

 蒼い空。翠の木々。勢いよく天に昇る風。無限に続くような時間。目下では紅蓮の大地が今か今かと開口し――――



 眼下に広がる褐色の大地。激しく髪を揺らす風。所々錆び付いた鉄柵がそれより先の緑が広がる外の世界への脱出を阻んでいる。

 その鉄柵に指をかけている女がいた。

 彼女は紺色のセーラー服を身に纏い、疲れたような瞳で外を見る彼女は学校一の美人とまで呼ばれる桐谷恵子だった。


 彼女は高校二年の春頃からよく屋上に一人で来るようになった。最初は寂しげな雰囲気を纏っていたが、次第にそれは消えていき、今では失望の色が色濃く出ている。


「自殺するのかい?」


 そんなある日のことだった。彼女にある青年が話しかけていた。彼女とは違う制服を着た、さわやかなイケメンだ。彼は驚いたようでも、焦ったようでもなく、静かに笑っていた。


「どこのだれか知らないけど、あんたには関係ないでしょ」


 恵子は彼の静止を無視し、ボロボロの柵の向こう側へと体を送る。柵とフェンスの僅かな隙間に白い上靴が微かにかかる。一陣の風が恵子の髪を揺らす。


「まあ待ちなって」


 青年が指を鳴らした瞬間、恵子の体は柵の内側、屋上へと足をつけていた。目の前の出来事に目を白黒させる恵子に彼は近づいていく。

 微かに震える恵子の背中。その服に隠された肌には周囲からの罵詈雑言、偶然を装った事故によっていくつもの傷がついていた。


「あんた、なんなの? 邪魔しないでくれる?」


 恵子は崩れた体を立て直し、再び柵に手をかけ登っていく。彼はそんな彼女の体を柵から引きずり下ろし、床に押し倒す。


「お前が死にたい理由はなんだ? 逃げたいからか? 意趣返しか? 自分かっこいいとか思ってるのか?」


 息のかかる距離で彼と恵子は向き合っていた。彼の黒瞳が煉獄を思わせる赫色に輝く。


「関係ないでしょ。こんな最悪な世界から逃げ出したいだけ」

「それならなおさら自殺するのは見逃せないな」


 目をそらし、彼の体の下から這い出ようともがく恵子だったが、彼の膂力に腕を押し付けられ、動けずにいた。突然彼の左手が恵子の顔を掴み、彼の顔と正面から向き合わせる。


「そうだね、特別に見せてあげるよ。自殺した者の末路を」


 悪魔のように彼は微笑んだ瞬間、彼と恵子の体が柵の向こうへ落ちていった。突然の出来事と迫りくる死の気配に恵子の瞳に絶望が宿る。『誘獄門』。静かに放たれた言葉に呼応し、二人と地面との間に眼が開く。紅蓮の大地を奥に住まわせるその眼の中へ二人は抵抗もなく落ちていく。


 門が閉じた先、二人の体が地上に落ちていた。二人は息をしておらず、脈も途絶え、完全に死んだ状態だった。窓際の生徒が焦ったように教師に窓の外を見せ、救急車のサイレンが煩く響き始めた頃、二人の体は地上から消え、彼らは何事もなかったかのように屋上で立ち上がった。しかし、恵子だけは有り得ないものでも見たかのように目をかっぴらき、唇を震わせていた。


「今見てきたのが自殺者の現在だよ」


 それでもまだその柵を登るかい? 彼の目はそう言っていた。その一瞬、恵子の瞳に反抗心が燃え上がり、彼女は鉄柵に手を伸ばす。しかし、その手は鉄柵に近づくごとに遅くなり、柵に彼女の手が触れることはなかった。


「死後の世界なんて考えもしなかっただろ。自殺する奴らはみんな今の環境からの脱却を願ってる。自分の世界が終わることをひたすらに望んでる。でもさ、いつ誰が『死が人生の終着点』って言ったんだ?」


 長い黒髪を屋上に垂らし、恵子は顔を俯かせている。彼の目は爛々と光り、恵子の僅かに覗く瞳をのぞき込んでいる。


「人は生きていくうえで必ず何かしらの罪を犯す。人に不幸や不快な思いをさせればそれは立派な罪。そして、現世で裁けない罪を裁くのが地獄。死は救済ではなく、現世への償いのスタートだ」


 彼は立ち上がり、指を鳴らした。途端、彼の背中から燃える翼が生え、彼の半身が炎上。それと同時、今まで何もなかった屋上に透明な人影がいくつも現れる。


「今ここにいる元自殺者は全員が全員、孤独な世界で罪の償い方すら忘れて彷徨っている。俺はお前に聞きたい。こいつらのようになりたいか?」


 恵子はゆっくりと辺りを見渡す。酷く歪んだ表情は見たくもないトラウマに向き合わされているようだった。本来見えるはずのない世界。見てはいけない世界。踏み越えてはいけない境界を恵子は彷徨わされている。


「自殺すれば転生すると思っていたか? 確かに転生はするが、あんな一瞬じゃない。神のミスによって死ぬ奴らは死んだ後の罪償いを多少軽くさせられるが、自殺であれば何万年かけても絶対に償いを終えることができない場合だってある。その場合はこいつらみたいに一生何の理由もなく彷徨うことしかできなくなる。

 友達と話すこともできず、誰にも気づいてもらえない。それでも気が狂うことは許されない。お前が行こうとしていた世界はそういった世界だぞ」


 恵子は彼の言葉に微かに首を横に振っている。目の前の現実を否定したいのか、彼の言葉を否定したいのか、それはわからない。

 その様子を彼は落ち着いた様子で見守っている。


「人間は弱いからさ、簡単な方に楽な方にって逃げるけど、どの世界にも絶対的に楽なことってないんだよ。相対的に楽かどうかを判断し、より楽な方に逃げていく。その先に待つ未来を考えずにね」


 突然無関係な話をし始めた彼に恵子の視線が向く。その恵子の拒絶の色が強い目を視界に収め、彼は再び指を鳴らした。途端、恵子から怯えた様子は消え、安堵が彼女の表情に現れる。


「さっきまでのお前も同じ。死ねば楽になる。そんな幻想を抱えてるからこの世界で生きることを諦める」


 何かを察したように恵子の瞳に微かな光が灯る。


「私は、あんな暗い世界で一生を生きたくない」

「だろ? ......それにしても、皮肉なもんだよな。世界から早く逃げ出そうとした奴ほど、この世界からは抜け出せないんだ」


 彼の視線は遠く陰りの見える空を捉えている。恵子の視線もまた遠くに見える暗い空を捉えている。二人はそれから何かを話すこともなく黙り込んだ。頭上にあった太陽は今や地平線の彼方へと沈もうとしている。

 二人して授業は無断欠席だね。恵子が舌を出して笑う。とても朝一に死のうとしていた彼女と同一人物とは思えなかった。


「私の話、聞いてくれる?」

「ああ」


 恵子はゆっくりと腰を下ろし、その場に体育座りをした。視線は沈む太陽に向けられたまま、恵子の口からこの日に至る過程が吐露される。


 高嶺の花。その言葉を体現していた彼女は彼氏はおろか友達もある一人を除いてできたことはなかった。そのある娘はクラスで言えばはみ出し者、敢えてクラスで格付けをするならば最下位争いをするようなそんな人物だった。でも恵子にとってそんな彼女はたった一つの生きがいでもあったと思う。

 けれども彼女は突然死んでしまった。ある日の授業中に一人で屋上から飛び降りた。それ以降、教師の恵子を見る目が変わった。次第にそれは生徒に伝播し、学校全てが恵子の敵になったのだ。


「だから生きる価値を見失い、自殺をしたかった、か」

「うん。君の言う通り、人間は弱いよ。群れて省いて自分の世界を創り、他の世界を犯す。私は、あの娘のことをよく理解できてなかったのかもしれない」


 烏が朱く染まった空を自由に羽ばたき、森の奥に消えていく。話すうちに俯いていた彼女の顔は、今や膝と膝の間に挟まれ、視界を完全に遮断している。頭にあるつむじの形は相も変わらず円形。髪も昔と変わらず艶々のまま。恵子は『私』がいなくなっても、変わっていなかった。


「そうか。でも、今なら理解できるんじゃないか?」

「うん。今ならたぶん、夏希に......」


 恵子のクリクリの黒目が『私』を見た。驚きと悲しみと、怒りと喜び、それらが内包された瞳を恵子は私に向けていた。本当に、何も変わっていないのだ。話せばただの女の子である所も、感情が溢れると何も言えずに頬を濡らすだけな所も。何もかも。


『あんたはこっち来ちゃダメだからね』


 髪と髪の分け目から覗く額を指の腹で押し、足先からとまることなく進行していく体の崩壊を受け入れる。


「なつき......なつき!」


 『この学校の地縛霊となって二年近く。私の目標は、ようやく達成できたのかな。消えているということはそういうことなんだろうけどね。

 ごめんね、恵子。』


「なつ、きぃ......」


 恵子は崩れていく私の体の欠片を集めようとしていた。いや、それだけではない。一度死にたくないと思ったはずなのに、もう一度鉄柵を昇り、飛び降りようとまでしていた。


「死にたくないんじゃなかったのか!?」

「離して! 夏希と一緒なら、どんな世界にいても楽しいから! 別にずっとこの世界にいてもいい!」


 嬉しい言葉だった。恵子に近づくなと言われ、虐めが始まった日から、本当は恵子は私といたくないのかもしれないと疑心暗鬼になっていた。でも、よかった。そんなことはなかった。


「桐谷恵子! 上原夏希がお前の死んでもいい理由だと言うのなら......俺が、生きる理由を教えてやる!」


 遠くに見える校舎で二人の姿が重なった。もう霊体の時のように自由に動けない。だから遠目にしか見ることはできない。それでもあれは、間違いなく――。



「命は、祖先が必死になって紡いできたものだ。戦争を乗り越え、貧困を乗り越え、現在(今)を創ってきた。お前らの命はお前らだけの命じゃないんだよ。お前の生誕に関わってきた全ての人の命と希望がお前一人に集約され、受け継がれていく」


 口を拭い、目を白黒させて座り込む恵子を見下ろし、地獄に生きる小田原悠は背を向けた。


「それに、人生は振り子と同じで幸不幸の波がある。不幸が大きければ、その分幸せもでかい。お前には絶対に幸せの絶頂を見せてやるからな覚悟しとけ」


 夕焼けに染まる屋上はかつてないほどに赤々と照らされていた。

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自殺姫 鋼の翼 @kaseteru2015

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