舟を手繰る

美崎あらた

第1話

 たとえば学校に通うような少年少女に「将来の夢は?」というアンケートを取って、裕太の職業を書く子どもはいないだろう。しかし裕太自身は自分の仕事を存外気に入っていた。

 暗闇の中をただ黙って進む。洞窟の中には湖があって、裕太はお客さんを乗せた舟を操るのだ。舟を操ると言っても、オールでこぐわけでもなく、舵を切ることもない。洞窟内の通るべきルートにはロープが張り巡らされている。裕太はただ小さな舟の先に立ち、そのロープを手繰って舟を引くのである。

 勤務中はほとんどしゃべる必要がない。というより、声を発してはいけないというのが正しい。洞窟にはグロウワームという光を放つ虫がいる。お客さんというのはそれを見に来る観光客のことだ。この輝きを放つ虫は、それなりに繊細で、物音がすると光ることをやめる。だから船頭には声を発さないことが求められる。

裕太にとって無言を貫くことは苦痛ではない。むしろ好都合であった。昔から、話すことが得意ではなかった。子供の頃は、ほとんど母親が代わりにしゃべってしまって自分の出る幕はなかったし、特に発言を求められることもなかった。母親が中学校の先生や塾の先生と話して決定した大学附属の高校を受験し、そこへ予定通り進学した。おおむね、母の敷いたレールに沿って人生を安全運転しているはずだった……。

「ユータ、交代だ」

 洞窟から出て、ガイドに連れられた観光客グループを舟から降ろしたところで、声をかけられた。昼食の時間だ。観光客用に整備された道から逸れて、シダ類の茂みを抜ける。ここのスタッフだけが通る細い道が現れる。休憩所の入り口のところで、グレッグが煙草を吸っていた。

「やぁ、元気?」

 彼は七人いる船頭の中ではいちばん年上で、国籍の違う裕太にも気兼ねなく話しかけてくれる。

「ハイ、いつも通りさ」

「ま、そうだろうな」

 グレッグはため息といっしょに大きく煙を吐いた。

「いつも通り。それがいちばんだ。お前はとてもよくやっているよ。嫌な顔もせずにさ」

「僕は、望んでここに来たから」

「そうだったな。わざわざこんな田舎に。変わりもんだよ」

「そうかな」

「そうさ。俺なんかはもう、うんざりしちまうよ。毎日毎日、同じことを暗闇の中で繰り返すんだ。気が滅入るよ」

 なんだか面倒なことになりそうだったので、裕太は腹が減ってたまらない、というジェスチャーをして見せ、休憩所の中に引っ込んだ。ロッカーの中に、今朝スーパーで買ったサンドイッチとリンゴが入っている。ドアの向こうでは、グレッグが二本目の煙草に火をつけたようだった。しばらくは一人にしてくれそうだ。

 グレッグの家系は、ずっと昔からこのあたりに住んでいた。それこそまだ土着の神様がいたころからだ。つい二〇〇年前は、こちらの丘から向こうの丘が見えないほどにシダ植物のジャングルが広がっていたそうだが、外から来た者によって丸裸にされ、牧草の種がまかれた。グレッグのご先祖様は、この洞窟には神様がいると信じていた。ジャングルの中、ぽっかり口を開けて、鍾乳石の牙をのぞかせているそれは、たしかに畏怖の対象となりうる。

 それが今や、世界中の小金持ちがやって来てはお金を落としていく立派な観光地となっている。好き放題探検されてしまうよりは、観光地として国に管理された方が罰も当たるまい、ということらしい。

「なぁユータよ、俺のやっていることに意味はあるのかね?」

 サンドイッチを食べ終わり、リンゴにはじめの一かじりを加えたところで、グレッグが入ってきた。丸太の椅子にどっかり座る。室内で見ると、外で寂しげに煙草を吸っているときよりは随分と大きく見える。

「なぜそう思う? 君は立派にご家族の土地を守っているように思うけれど」

「そこなんだよ。その実感が俺にはない。いっそわかりやすい侵略者が来てくれて、戦っていたら気が楽なのかもしれない……。ところが、やってくるのは平和な顔をした観光客ばかり。おとなしくガイドの言うことを聞いて黙って舟に乗り込む」

「血気盛んだね」

「いや、別に戦いたいわけじゃないんだ。ただ、何というか、生きている実感がほしいというか」

 グレッグは中年と言っていい年齢だが、時々思春期の少年のようなことを言う。

「意味がほしいんだ?」

「そう、意味だ。お前のやっていることはとっても意味があることなんだって言ってほしいのかもしれない。いや、言われるだけじゃだめさ。俺が、俺自身が実感したいんだ」

「痛みを伴ってでも?」

「時にはそうだろうね」

 裕太はリンゴの芯をサンドイッチの入っていた紙袋に突っ込み、くしゃくしゃに小さくして、部屋の脇にあるゴミ箱へ捨てた。自分の生きている意味なんてことをくよくよ考えているのは人間くらいのもので、たとえばこの捨てられたリンゴもニュートンが見ていたリンゴも等価値だ。意味を付けるのはいつだって人間で、いつだって後出しなのだ。

「なぁユータ、お前はなんでこっちに来たんだ? 生まれた場所から飛び出すっていうのは、いったいどんな気分なんだろう」

「僕のことは、残念だけど参考にはならないよ」

 腕時計に視線を送って、そろそろ休憩時間は終わりだっていうことをアピールする。グレッグは肩をすくめて立ち上がり、そそくさと持ち場へ戻った。

 裕太が生まれ育った島国を離れて、地球の反対側にあるこちらの島国に渡ったのは、五年ほど前のことだった。その渡航には、それこそ意味は無かった。極力遠いところであればどこでもよかった。

 洞窟の出口から少し隠れたところに、小舟がつないである。ぐっと地面をけって推進力を得る。するすると出口から音もなく洞穴に入っていき、観光客たちの待つ乗り場へ向かう。

 午後一番の客は、日本人のグループだった。若い女性がガイドを務めている。慣れた様子で洞窟とグロウワームについて説明をしている声が、小さく響いてくる。

「グロウワームと私たちが呼んでいるのは、ヒカリキノコバエの幼虫のことで、彼らは洞窟の天井にあけた小さな穴から粘液の糸を垂らしています。光っているのは、エサとなる小さな虫をおびき寄せるためなんです。虫が粘液に絡まると、それを手繰り寄せて食べちゃいます。遠くから見ている分にはきれいですけど、近くで見ると結構グロテスクなんですよ」

 船着き場の手前には少し開けたところがあって、そこでガイドたちは説明を終える。そしてささやかなクルージングに出かけるツアー客に、グロウワームは繊細だから、舟に乗っている間は声を上げないように注意する。おかげで裕太たちは営業のあいさつをする必要もなく、黙ってどこに座るべきか指示すればいい。

 八名の日本人観光客を乗せて、舟を進める。洞窟内に張り巡らされたロープを手繰り、いつもと寸分たがわぬルートを進める。やがて幻想的な星空が現れる。グロウワームがエサをおびき寄せるための青白い光が天井から降り注ぐ。暗い水面に反射する。裕太にとっては見慣れたそれも、多くの観光客たちにとっては、人生初めての光景であるはずだ。だから、彼らは一人残らず天井を見上げているはずで、舟の先で綱をたぐる男になど興味はないはずだった。しかしその時、裕太は後頭部に視線を感じた。八人のうちの誰かが、船頭のようすを観察している。暗闇で、輪郭をなぞるように、子細に。手のひらに嫌な汗がにじむ。

 内心にいささかの居心地の悪さを感じながらも、肉体はいつも通りの動きを忠実に再現する。ゆっくりと進むところ、スムーズに進行するところ、方向転換するところ、すべていつも通り。

 随分と長い航海をしていたように感じられた。日の光のもとに出て、腕時計を確認すればしかしいつもと同じ時間だった。まるで機械のように、きっちり十五分でツアーを終える。そしていつものように無言で乗客を岸に上げると、方向転換をしてしばらく停止。次に出てくる舟を待つ。タイミングを合わせないと、行きの舟と帰りの舟が暗闇で衝突してしまいかねない。

 日本人観光客たちがガイドに引き連れられてその場を去ると、まとわりついていた視線も消えた。裕太と同郷の者がここに来ること自体は、たいして珍しいことではない。においや言葉の訛りなんかになつかしさめいたものを感じないわけではなかったが、たいていは無感動に、特におしゃべりをするでもなくやりすごすのが常であった。向こうは向こうで、同じ日本人がこんな世界の裏側で、しかも街から離れた洞窟の中で来る日も来る日も舟を漕いでいるなんて想像もしていないから、裕太のことなど気にも留めない。ちょっと細めの現地人だと思っている。

 裕太がそれだけ居心地の悪さを感じたのは、その視線がどこか、母が自分を見つめる視線と似ていたからかもしれない。


    ◇


 父親の方はあまり家に寄り付かない人で、裕太が義務教育を終える頃に母と離婚した。そのことについて、特に大きな心の動きみたいなものはなかった。予感というか伏線のようなものは中学生の裕太にもはっきりとわかっていて、驚きもしなかったからだ。

「この子はきちんと大学に通って、有名な会社に就職するのよ」

「お前には聞いていないじゃないか」

 小学生の頃、『将来の夢』という題で作文を書く宿題が出た。裕太はそれを白紙で提出し、それが両親に伝わって、ちょっとした口論になった。口論をしていたのは父と母で、当の裕太は黙っていたのだが。

 将来に対する不安のようなものを感じたことはなく、しかし将来に対する希望みたいなものも特に湧いてくることはなかった。母親の描くビジョンが特に間違っているとは思わなかったし、それを上回る何か、それを押しのけてまで通したいものも見つからなかった。だから正直に白紙で提出したのだ。

 父はよく、「お前からはやる気が感じられない」と言った。なんでも素直に言うことを聞くし、勉強もできるし宿題をサボったこともない。学校もほとんど休まなかった。世間には優等生ということで通っている。それでも父は、何も自発的に行動しようとしない裕太にいらだちを感じているようだった。

 母親自身は高校を出てからすぐに東京に出てきて結婚し、働いた経験はほとんどなかった。そんな母にとっては、「きちんと大学に通って、有名な会社に就職する」ことだけが幸せであり、それ以外には考えられないのだった。高校受験に際しても、行かせたい高校は決まっていて(それは彼女の父親――つまり裕太の祖父だが――の母校だった)、そこに向けて裕太は勉強した。私立高受験専門の塾に通い、自宅で学習する際には常に母の監視があった。一方の父親は口を出さず、裕太の通う塾の名前すら知らなかった。

 進路に関しては概ね予定通りに進んでいて、模擬試験の成績はいつもA判定だった。しかし一度だけB判定を取ったことがあった。少し肌寒い十一月ごろのことだった。その時は母親がヒステリーを起こして塾にクレームの電話を入れ、講師の先生がわざわざ家に謝罪に来るというさわぎがあった。父親は会社からすぐに帰宅して、その謝罪する講師に謝罪した。裕太はその一部始終をリビングの片隅でじっと小さくなってやり過ごした。塾の先生が帰って母が落ち着きを取り戻したところで、父親は大きなため息をついた。本当にうんざりだ、というように。

 母の中には常に選択肢が一つしかなくて、そこから一歩でも外れようものなら、極度の不安に陥る。おそらく分析してみれば何かしら精神的な病の名前がつくのだろうが、誰もそれを口にはしなかった。彼女の夫は説得も話し合いも治療もあきらめて、離婚という形で縁を切ることにしたのだ。

 東京の井の頭公園の近くに、その私立高校はあった。裕太はそこで系列の大学に進学するためだけの三年間を送り、特に何の苦労もなく基準をクリアして大学に進学した。学費は家を出ていった父親が払い、母はパートで生活費を稼いでいた。大学は神田川のそばにあって、入学式の時期には桜が川の淵を彩っていたのを覚えている。


     ◇


 十七時には仕事が終わる。あたりは暗くなるし、暗くなってしまうといよいよ何もなくなってしまう田舎にその洞窟はあるのだ。

「ねぇ、ちょっと乗せていってくれない?」

 中古のランドクルーザーの後部座席にリュックを放り込んで、運転席に回り込んだところで、声をかけられた。ギョッとして振り返ると、そこには黒髪の日本人女性が立っていた。歳は裕太より少し下くらいと思われた。

「ちょっとトラブっちゃってさ。ホテルまで帰る足がないんだ」

 チェックのシャツにデニム地のショートパンツ、足元はナイキのスニーカーで、活発な印象を与える。持物は使い古したリュックサック一つ。こんな街はずれで移動手段をなくしてしまうことを「ちょっとトラブっちゃってさ」で済ませてしまうあたり、海外旅行には慣れているのかもしれない。

「どこまで行くの?」

 彼女が答えた地名は、裕太の住む街からそれほど遠くないところだった。裕太は承諾し、助手席を示した。

「いやー、助かっちゃったわ。まさかこんなところに日本人のお兄さんがいるなんてね」

 彼女はメイと名乗った。どのような漢字を書くのか、あるいは五月生まれなのか? というようなことは聞かなかった。ただ、外国人にも親しみやすい名前だね、とだけ感想を述べた。

「お兄さんは、どうしてこんなところで働いているの?」

「話せば長くなる。だから話さない」

「そっか」

 裕太が自分のことを話さないので、車内ではメイが一方的に話し続けた。大学を中退して世界中を飛び回っている。適当な国を決めて数か月滞在し、また日本に戻ってバイトでお金を貯める。貯まったらまた次の国へ飛び立って資金が尽きるまで放浪する。父親も母親も地に足付けて働くように(あるいは結婚でもするように)言ってくるが、そんなのは気にしない。誰かの敷いたレールの上を行くなんてイヤ。あたしは自由な渡り鳥。

 丘の向こうに太陽が沈み、道路を照らすのは車のヘッドライトだけになった。メイは話し疲れていつしか眠っていた。車の揺れに合わせて、彼女の頭は出来の悪い人形のようにグラグラと揺れる。シャンプーのにおいと汗のにおいが混じって車内に漂う。メイを起こさないよう、運転席側の窓を少しだけ開けた。

 夜風が舞い込んで草木のにおいが混じる。丘を迂回する大きなカーブで、彼女の膝上にあったリュックがドサッと足元に落ちる。緩んでいたバッグの口が開き、中から古い文庫本がスルスルと滑り出した。

「あらら」

 欠伸交じりの呆けた声を出して、メイが目を覚ます。リュックをもう一度膝の上に抱き、文庫本を手に取った。

「これ、森鴎外の『舞姫』。意外かもしれないけれど」

「たしかに、あまり現代文の教科書に載っているような小説をまじめに読んでいるタイプには見えなかったな」

 メイは何がうれしいのか、へへと笑った。

「読むのはたぶんすごくトロいんだけど、旅しているときはどうせ何冊も持ち歩けないし。一つの国を旅している間に、丁寧に一冊の本を読みこむの」

「どうして?」

「どうしてって言われても……なんとなく? 日本語が恋しくなるのかもしれない。飛行機に乗る前日に、神保町の古書店街をウロウロするの。それでビビッと来たやつを買ってみて、旅行用のリュックに入れちゃうわけ。今回はたまたま『舞姫』だった。別に古書店じゃなくてもどこでも売っているようなもんだけど」

「そうだね。それに、ドイツに行くときの方が持っていく本としては良かったかもしれない」

「そういうのって、あんまり気にしないな。だいたいこっちに着いて本を開いてみるまで、舞台がドイツってことも知らなかったし」

「そっか」

「そう」

 何もない平坦な直線に入って、お互いに無言の時間が続いた。

「あのさ」

 メイが重心をぐっと後ろに寄せてシートに沈み込むのがわかった。

「何?」

 横目に見ながら返事をする。

「もう一眠りしていいかな? なんだか自分が思っているより、疲れちゃったみたい」

「さっきは断りなく寝ていたじゃないか」

「ま、そうなんだけど」

「好きなだけ眠るといいさ。いささか不用心だとは思うけれど」

「不用心?」

「異国の地で、さっき会ったばかりの男の車に乗っている」

「あたしが眠っている間に、どこか人目に付かないところに行くの?」

「行かないけどさ」

「暗がりで襲ってそのまま捨てて帰る?」

「そんなことしないよ」

「じゃあいいじゃない」

「あるいは交通事故で死ぬかもしれないよ」

「交通事故を起こそうにも、しばらくぶつかるものも見えないけど」

 たしかに今この中古車は何もない牧草地をひた走っている。

「羊か何かとぶつかるかも」

「やだ、羊の話なんかされると余計に眠くなっちゃう」

 メイは冗談めかした調子で言ったが、実際すぐに眠ってしまった。

 羊とぶつからないよう気を付けて運転をしながら、裕太は森鴎外と舞姫と、神保町の古書店街に思いをはせた。神保町は当時通っていた大学からほど近いところにあったが、実際に足を運んだのは大学生活が二年目に入ってからだった。


     ◇


 母が交通事故で死んでしまって、裕太はまず自分の心配をした。居眠り運転のトラック運転手に対する怒りでもなく、肉親を失った悲しみでもなく、純粋に自分の身の上に関する不安で胸がいっぱいになった。法的な手続きとか経済的な問題とか、そういったことは裕太にとってあまり問題ではなかった。実際のところ、別居していた父親がさまざまな処理をしてくれたので問題にはならなかったのだ。

 普通の人間ならばとっくに三回は直面しているであろう将来に対するぼんやりとした不安みたいなものを、裕太は二〇歳にしてはじめて感じた。思考や判断といったものを外部に任せてしまっていた脳は、それを失って軽いパニックを起こした。

 どこかで誰かが指示を出してくれることに期待したが、それは得られなかった。せめて人生の指針めいたものが降ってこないだろうかと希望を込めて無意味に天井を見上げていたが小さな埃くらいしか降ってこなかった。

 やがて父の提案によって母と二人で暮らしていたアパートを引き払うことになった。そのアパートは、大学生が一人暮らしをするにはやや持て余すし、家賃がかかりすぎる。裕太が大学を卒業するまでの資金は父が出してくれるということだったが、「お前ももう大人だからわかってくれると思うが、俺にも新しい家族と生活があるんだ」とのことで、より安価な学生寮に転居することになった。

 母は本も読まなかったしテレビも見なかったので、荷物の整理はあっけなく終わった。死んだ後に何も残らないというのは、潔く自然の摂理に従っているとも言えるが、やはり悲しいものだと裕太は思った。母にとっての関心ごとの全てはもはやひとりの息子のことになっていて、それ以外にはほんの痕跡も残らない。当の裕太自身も、いったい母がどういう人物だったのか自信を持った説明はできなかった。好きな音楽も知らないし、感動した物語も知らない。

 ここではないどこか。とにかくどこか遠くへ行ってみよう。

 唐突に、裕太はそのように考えた。母親の敷いたレールから自由になって、自らの思考を手に入れようと思った。そのためには、どこか遠くへ行ってしまうことが必要だ。精神あるいは魂のようなものがあるとして、それをどこか遠くへ連れて行ってくれるのは物語だと考えた。ドイツのとある王様はワーグナーの描く世界に夢中になって現実と非現実の区別がつかなくなったと聞く。結構なことではないか。それほど何かに夢中になってみたい。

 裕太は小さなころから、必要以上の物語に触れることはなかった。『エルマーの冒険』も教科書に出てくる部分しか知らなかったから、彼が何故冒険することになったのか知りえなかったし、続編があることも知らなかった。文字列を読むという行為は勉強であり、知識の習得ということ以外の意味を持たなかった。

 母が亡くなってから三カ月ほど、裕太は大学へ行くこともせず、こぎれいな学生寮の一室に閉じこもって古今東西の小説・伝記を読み漁った。とにかく手あたり次第といった風で、神保町へ歩いて行って、何か目に留まった本を買ってくる。読む。読み終わる。また古書店へ繰り出す。これを繰り返した。ホールデン君の悪態に嫌気がさせばモモとともに時間どろぼうたちと対決し、あるいは英雄ラーマとなってシータを助けに行ったり、鴎外とともにミュンヘンへ足を運んだりした。

 人間関係が希薄だったおかげで、大学へ行かなくなっても、とくに誰にも文句を言われなかった。それはつまり心配されることもなかったということだが、この時ばかりは好都合だった。学校というものに行かなくても平気だということに、裕太は後になって気が付いた。裕太にとって、毎日朝決まった時刻に起きて決まった電車に乗り学校へ行く、一週間単位でだいたい同じ授業を受ける、ということはさして苦痛なことではなかった。特に心許しあえる知人、友人、師と巡り会えたわけではない。ただ毎日やるべきことが決まっているという事実が裕太を勇気づけてくれた。安心を与えてくれた。

 その安心を捨てて読書に没頭したのち、裕太は綺麗に髭をそって今度はアルバイトに励んだ。朝昼晩と数時間ずつ、大学の学生食堂で注文を聞いてご飯をよそったり、すでに出来上がっている料理をあたためたり、決まった量を測り取って皿にのせる仕事だ。その合間には、寮から少し離れたところにある小さな名もなき出版社で校閲のお手伝いみたいなことをして過ごした。

 そうしてある程度の資金が溜まったところで部屋に大きな世界地図を広げ、大きめの画鋲で作った即席ダーツの矢で打ち抜いたのが、南半球にある自然豊かなこの島国だった。今度は物理的に、ここではないどこか遠くへ行くことにしたのだった。


   ◇


「ホテルの名前は?」

 町に着いたので裕太は隣で眠るメイに話しかけた。彼女は目を開けないままホテルの名前らしきものをぼそぼそとつぶやいた。明瞭には聞き取れなかったが、幸いその名前はすぐに見つかった。家族経営の安宿といった風だった。ただ観光資源が近くにある田舎町なので、そこそこ広くてきれいにしてあるようだった。

「お嬢さん、着きましたよ」

 駐車場にランドクルーザーを停める。しかしメイは目を覚まさない。

「ねぇ、着いたよ。僕だって自分の家に帰りたいんだから、降りてくれよ」

 裕太はややためらいつつ、メイの肩をゆすってみる。しかし彼女はまるで動じない。日に焼けた黒い髪がハラハラと胸元にかかる。

「やれやれ」

 腕時計に目をやる。時刻は十九時前。普段なら家に帰って夕食を終えているところだ。苛立ちつつ、彼女のバッグに手を伸ばす。さきほどの『舞姫』とともに手帳が出てきて、そこにホテルの予約表が挟まっていることを発見する。

「ほら、行くぞ」

 運転席から助手席側にまわり、ドアを開けて彼女を引きずり出す。意識があるのかないのか、メイはふらふらとさまよい出て裕太の肩のあたりにすがりついた。裕太はそれを支えながらもう一方の手で彼女のリュックを持ってホテルへ入った。フロントで彼女の予約表を見せてカギを受け取る。自分は単なる運転手なのだが、彼女がどうしても起きてくれなくて困っている。彼女を部屋に届けたらすぐに帰るつもりだ、という旨を極力平静に伝えた。客観的には意識のない女をホテルの一室に連れ込む途中ということになるわけだが。

「スリーピングビューティってことね」

 フロントの老女は冗談なのか皮肉なのか、あるいは何かの呪文なのかわからないが、そのようなことを言った。眠れる森の美女。眠り姫。あるいは茨姫。グリム童話の一つだ。悪い魔女だか妖精だかの呪いにかかって、紡錘が指に刺さって、覚めない眠りについてしまう。

 大きな荷物を両腕に抱えたままどうにか目的の部屋にたどり着く。ドアを開けてベッドにメイとそのリュックを横たえる。ベッドに沈み込んだ彼女は相変わらず静かな寝息を立てている。体調が悪いようには見えないし、どうして急に目覚めなくなってしまったのか見当もつかない。あるいは誘われているのかもしれないと思ってみたが、それもどうやら違うらしい。演技でもなんでもなく、本当にぐっすり眠っているのだ。

 あたりを見回すと、化粧台の上に煙草の箱とマッチが置いてある。メイが起きる様子はないし、このまますぐ車に戻るにはいささか疲れていたので、一本だけ頂戴することにした。これだけ働かされたのだから、煙草の一本で文句を言われることもあるまい。

 窓を開けるとバルコニーに出られるようになっていた。部屋にあった安っぽい金属製の灰皿を持って夜風にあたる。そこでマッチを擦り、火をつける。ほとんど煙草を吸ったことはなかったが、夕闇の中で火や煙を見ていると自然と落ち着くような気がした。煙はミントの味がして、さほどおいしくはなかった。その一本を丁寧に吸っている間だけ、他のことは考えないように努めた。しかし考えないようにすればするほど考えてしまう。随分遠いところまで来たものだ。そんな感慨にふけってしまう。本来の望み通り、遠くまで来られたのだ。随分と遠くまで来て、今はなぜか一人の若い女性と同じホテルの一室にいる。

 彼女が目を覚ますまで待ってみようか? 暗闇に消えていく煙の白い線を目で追いながら、そんなことを考えた。彼女も自分のことが気に入ったから声をかけてきたのではないか? まんざらでもないかもしれないではないか。

 煙草の火を消してしまうと、少しだけ闇が濃くなった気がした。しかしそこで裕太は固まってしまう。視線を感じた。今日の昼間、舟の上で感じたものと同じ、母の視線を思い出させるもの。

 恐る恐る振り返ると、部屋の中、ベッドの上でメイが起き上がって座っているのが見えた。しかし彼女はまだ目を開けていなかった。自らの意思で起き上がって座っているようには見えない。どこか不自然だ。マリオネットが操られているかのようなぎこちなさ。裕太は今も視線を感じている。彼女の視線ではない。ねっとり絡みつくような、細部まで観察する目。

 窓を開けて部屋の中に戻ると、異変に気が付いた。天井に先ほどまでは無かった小さな黒い穴が開いていて、そこから粘着質の糸が垂れ下がっている。その糸の先はメイの頭の上に降りかかり、今まさに、ねっとりと顔面を覆いつくそうとしている。

 ほとんど反射的に体が動いていた。彼女の体を押し倒し、顔に着いた糸を剥がしにかかる。べとべとの糸が今度は裕太の手にまとわりついた。引っ張られるような感覚を覚え、思わず引っ張り返す。ずるずるずる。何かが穴の奥底で胎動する気配があった。突如天井に空いた穴は、黒々として奥が見えなかった。しかし確かに何かがその奥にはいるのだった。裕太の感じる視線の主はその先にいる。

 舟の上でロープを手繰るのと同じように、裕太はその粘ついた糸を引いた。ずるずる。グロウワームの幼虫が光るのは、エサを誘き寄せるため。糸に引っかかった間抜けな虫を引き上げて食べてしまう。裕太は何度も聞いたガイドの説明を思い出す。毎日何種類もの言語でその説明を聞いているのに、裕太はグロウワームの幼虫がどんな姿をしているのか知らなかった。インターネットで調べてみることもしなかったし、グレッグに頼んで見せてもらうこともしなかった。興味もなかったし、きっと見ない方がいいと皆が言うのだった。

 裕太はその糸の先に、グロウワームの幼虫を想像した。身体はまだ柔らかくうごめいていて、幼い足がたくさん生えている。暗闇で必要とされない目は退化してしまっている。しかし口元だけは成熟しきっていて、硬いはさみみたいな牙を持っている。それで獲物をしっかりと捕らえて離さず、毒を流してゆっくり溶かしながら咀嚼していくのだ。

 ずるずるずるずる。

 ずるずる、ずる。

 ずる。

 いますぐ一切合切を放り出して車に取って返し、何も見なかったことにして帰ってしまいたい衝動もあった。しかしそれはどうやらできない。ここで決着をつけていかなければ、この糸はずっと付き纏ってくるように思えた。

 どろり。

 最後にちょっとした手ごたえがあって、それは意外にあっけなくベッドの上に転がり落ちた。想像していたグロテスクな幼虫の姿はなく、そこには一つの眼球があって、にごった黒い目をこちらに向けていた。

「もういいんだ」

 気が付いたらつぶやいていて、その眼球を蹴飛ばして固い床の上に落とす。そのまま膝をついて、部屋に入るときに放り出してしまった灰皿を手にもった。それを振りかぶって一度、その眼球に振り下ろす。意外に頑丈で弾力があり、一度ではつぶれなかった。二度、三度と灰皿をたたきつける。やがて生々しい手ごたえは消え、いつのまにか裕太の手は灰皿で床をカンカンと叩いていた。


     ◇


暗闇の中をただ黙って進む。洞窟の中には湖があって、裕太はお客さんを乗せた舟を操るのだ。舟を操ると言っても、オールでこぐわけでもなく、舵を切ることもない。洞窟内の通るべきルートにはロープが張り巡らされている。裕太はただ小さな舟の先に立ち、そのロープを手繰って舟を引くのである。

裕太にとって無言を貫くことは苦痛ではない。むしろ好都合であった。昔から、話すことが得意ではなかった。子供の頃は、ほとんど母親が代わりにしゃべってしまって自分の出る幕はなかったし、特に発言を求められることもなかった。母親が中学校の先生や塾の先生と話して決定した大学附属の高校を受験し、そこへ予定通り進学した。おおむね、母の敷いたレールに沿って人生を安全運転しているはずだった……。

 しかし今日は、決められたルートを戻らず、そっとロープを放してみようと思った。乗客はすべて降ろした後だった。すっかり仕事は放棄してしまって、舟の中に身を横たえて洞窟の天井を見上げた。洞窟内の湖には緩やかな流れがあるようだった。ちゃぷちゃぷという音が耳元から聞こえてきて、母親の腹の中はこんなだろう、と裕太は思った。

 自分があらゆる思考を放棄してここまで何となく生きてきたのは、あるいは思考を代行していた母親のせいかもしれないが、結局のところその母と対話しようとしなかった自分のせいなのだろうと思われた。だから母が死んで自分の好きにできるようになっても、そしてこれだけ海を隔てて遠くへ来ても、結局何も考えなくていいところを選んで生きている。だから母はいつまでも子離れができない。


 昨日は悪い夢を見ていたようだった。

「お兄さん全然起きないんだもの。仕方がないからベッドを半分貸してあげたけど、結構ドキドキしちゃった」

 目が覚めるとたしかに、裕太はメイのとなりで眠っていた。粘っこい糸やつぶれた眼球なんかはどこにも見当たらなかった。

「もう朝だけど、これからやっちゃう?」

「いや、遠慮しとくよ。そういう気分じゃない」

「そっか。お兄さんならまぁいいかなと思ったんだけど」

 メイは旅を続けると言った。もうしばらくこの国をウロウロして、飽きたら一度日本へ戻る。お兄さんもその時日本に帰って来てたら連絡してよ。ということで手帳の隅に連絡先を走り書きして、破り取る。裕太はそれを受け取ってポケットに突っ込んだ。


 一度帰ってみるのもいいかもしれないな。グロウワームが輝く偽物の星空を見ながら、裕太はそう考えた。

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