父は英雄、母は精霊、娘の私は転生者。/松浦


  <初めての人間界とエレンの旅>



 父が人間界の英雄・ロヴェル、母が精霊界の女王・オリジンという類い稀な両親から生まれたエレンは、少し昔の事を思い出していた。

 自分は転生し、エレンと名付けられたのだと。そうおぼろ気ながらに理解したのは二歳の時。その頃はまだ、状況を理解して納得するのにも一苦労だったのを覚えている。

 おとぎ話の夢を見続けているにしては、添い寝をする母のあたたかさと、父の頼もしい腕の中がたまらなく心地良い。

 二人が愛おしそうにこちらを見ては、指でちょんちょんと頬をくすぐってくる。こそばゆくて思わず笑ってしまうと、釣られたように一緒に笑ってくれて、大きな手で頭を撫でてくれるのが嬉しかった。

 背中をぽんぽんと優しく叩かれれば眠気に誘われる。そんな日々を過ごす内に、エレンは自分が生まれ変わったのだとおぼろげながら理解していった。


 生まれてすぐのぼんやりとしていた視界では、よく顔を覗き込んでくる両親と乳母であるメイドの顔くらいしか分からなかった。

 二年ほど経って、ようやく霧が晴れたかのように視界が開けた。目に飛び込んできた世界は言い表せ無いほどに衝撃的だったのを覚えている。

(歩き出した子が色々なものに興味を持つのって、こんな感じなんだ!)

 見るもの全てが新しい。危ないものかどうか理解するには、触るか口にするかしか判断できる方法がないのだと自覚する。

 遠くを見ることにも慣れ、初めてパノラマで見た世界は中世の西洋風だった。さらに自分が住んでいるのはどこかの城だと分かって、前世が重度の城マニアだったエレンのテンションは上がった。

(何これ何これ! 探検したい!)

 抱っこしてくれているメイドの腕の中であうあうと暴れては、「エレン様、ダメですよ」と注意される日々。

 さらによくよく目をこらせば、ここで働いているメイド達は右から左へと空を飛びながら移動していた。

 眼鏡をかけた男性もよく見かける。彼は宰相でヴィントという名らしい。母であるオリジンを女王と呼び、頭を垂れるその姿に、エレンは心底驚いた。

(みんな空を飛んでるー! っていうか、この人、今どこから来たんだろう?)

 エレンはどうして皆が飛べるのかとロヴェル達を質問攻めにした。

 自分達は転移と浮遊という移動手段を持つ「精霊」という種族であると分かったエレンは、高揚した気分のまま叫んだ。


「わたちもとぶーっ!」


 そう期待して言ってみれば、「もう少し大きくなったら教えてあげるよ」と、ロヴェル達から言われてしまう。

(それはちゃんと教えてもらえるの……?)

 なまじ大人の感覚が残っているだけに、はぐらかされているような気がする。

 それとも自然と飛べるようになるのだろうか? 意味が分からず、エレンが困った顔をして首をこてんと傾げてみせれば、ロヴェルは「可愛い!」と叫んで頬ずりをしてきた。


「そんなに気にしなくてもエレンちゃんはすぐに飛べるようになるわよ。だってわたくしの娘だもの」


 確かにオリジンはいつもふわふわと宙に浮かんでいる。その娘なのだからイコールで飛べるというのは分かるが、そもそもどうやって飛んでいるのか仕組みが少しも分からない。

 エレンは姿見の前で飛ぶ練習をしてみるが、飛んでいるつもりでも実はただのジャンプをしているだけで、ぴょんぴょんと跳ねているだけで終わってしまった。

(これって雛が飛ぶ練習しているみたいな……?)

 まだ羽も生えそろっていない雛が、親鳥の真似をして空を飛ぼうとしているような錯覚を起こす。

 試行錯誤をしているエレンの後ろで、こっそりと覗いているロヴェル達が微笑ましそうにしているのにも気付かず、エレンは懸命に飛び跳ね続けているしかなかった。

(どうやって飛ぶのか分からないよ~!)

 疲れたエレンは、ふわふわのカーペットが敷かれている床に足を投げ出して座り込む。ふて腐れて、ぷうっと頬を膨らませていると、そんなエレンも可愛いとロヴェルが抱きしめてきて、頬をすりすりと擦り付けてくる。

 しかし、それも度を超すとうっとうしくなるのは仕方ない。


「やー!」


 転生して小さくなって、エレンが一番困惑していたのは自分の感情だった。

 制御できない感情は、時折爆発して大泣きしてしまう。まだ生まれて二年の小さな子供なのだから仕方がないと頭では分かっているものの、大人であった記憶があるせいで上手く制御できない自分がもどかしい。

 身体の大きさに引きずられて感情的になってしまっている自分は落ち着こうとしているのに、ロヴェルは構わずちょっかいをかけてくる。

 苛立っている最中、身体を摑まれていては逃げるに逃げられない。いやいやをしている間に思考がそれ一色になってしまい、またもや感情が爆発してしまった。

 こんな時こそ「転移」ができたらいいのに! と強く思った瞬間、尻から床に、ぽすんと着地した感覚があった。


「あれ?」

「エッ、エレン……!?」


 少し離れた所で、ロヴェルが驚愕の目でこちらを見ていた。

(もしかして……私、今転移した!?)

 近くでも良いから離れたいと強く願った事が良かったのかもしれない。

(そっか、私はまだ小さいから、遠くまで飛べないんだ!)

 想像していた転移というものは、一瞬で城の外へと出るような長距離のものだった。

 まだ二歳ということもあって、外に出ることすらも許されていないエレンは、庭でもいいから出てみたいと思っていたのだ。

(庭から城の全体図を眺めてみたい!)


「エ、エレン、転移したのかい!?」


 ロヴェルがこちらへ両手を伸ばしてやってくる。このままではまた捕まってしまうとエレンは慌てた。


「やっ!」


 ひゅん、とゆっくりではあるが、ロヴェルから少しずつ距離を取るように転移してみせるエレンにロヴェルがショックを受ける。


「エレンが俺から逃げる!?」

「エレンちゃん、もう転移ができるようになったの!?」


 喜ぶオリジンと落ち込むロヴェルをちらりと見ながら、エレンはまた転移で逃げ出そうとした。

 しかし、まだ二歳のエレンに力が続くはずもなく、転移した直後にこてんと床に転がってしまった。


「エレンーーーー!?」


 慌ててエレンを抱えたロヴェルは顔を覗き込む。エレンは気絶するかのようにすやすやと眠っていた。


「寝てるだけか……驚いた」

「力を使い果たしてしまったのよ。それにしても二歳で転移できちゃうなんて凄いわぁ~!」

「俺は何だか複雑なんだが……」

「ロヴェルの抱っこが嫌で転移を覚えるなんて!」


 大笑いしているオリジンにトドメを刺されたロヴェルは、ず~んと落ち込んだ。


          *


 その後、長い眠りから覚めたエレンはすっきりした顔をして、コツを摑んだとばかりにふわふわと飛んで見せては皆を驚かせた。

 そしてついに事件を起こす。自分が元素を操る精霊だと知った瞬間、目を輝かせたエレンは力を暴発させてしまい、大きな爆発音と共に自室の壁を吹き飛ばしてしまったのだ。


「うわああああ! エレーーン!! 無事か!?」

「けふっ、けふっ」


 後に知ったのだが、魔素が満ちたこの精霊界では力の使い方を誤ると簡単に暴発してしまうらしい。

 エレンの小さな力であったとしても魔素の影響で過剰に力が加えられ、爆発が起きてしまったのだった。

 部屋を半壊させてしまったエレンはロヴェルにしこたま怒られて大泣きした。


「もうロヴェル、エレンちゃんも無事だったんだからそれくらいにしてあげて」

「何を言っているんだ! 命に関わることなんだぞッ!」

「エレンちゃんはまだ二歳よ。力に目覚めたばかりで、まだ加減が分からないのだから暴発してしまうのは仕方がないわ。それにそんなに怒って怖がってしまったら後が大変よ~」

「ぐっ、それはそうだがだな……!」

「ふえっ、ふえええん」


 オリジンに抱きかかえられ、しゃくり上げながらぐずぐずに泣いているエレンを見て、ロヴェルはハッとする。

 目元が真っ赤になるまで大泣きをするエレンを見たのは久しぶりだった。

 二歳ということを忘れてしまうほどにエレンは賢く、大人を唸らせるほどだった。成長するにつれて泣く事もほとんどなくなってしまっていたエレンが、ロヴェルに怒られて大泣きしている。


「う……」


 怒りすぎだと言われて罪悪感が出てきたロヴェルは、怒りの気持ちがしぼんでいくのを自覚した。


「エレン、力を勝手に使うのはもうしないな?」


 ひっくひっくとしゃくり上げながらも、エレンはこくんと頷いた。

 ロヴェルは大きな溜息一つを吐いて、エレンの頭をくしゃりと撫でる。


「エレンちゃんもビックリしたわよね。だからちゃんとわたくし達がいる時に練習しましょうね」


 オリジンの言葉にもこっくりと頷くエレンは、まだ大きな目に涙をこれでもかとためていた。

 少しずつしゃくり上げていく声が小さくなって、泣き疲れて眠ってしまう。それを見届けた二人は、エレンのおでこにキスをした。


「エレンちゃんはわたくし達の娘なのだから、精霊達よりも力を持っているのは最初から分かっていた事だったわ。まだ先でしょうと油断していたのはわたくし達の方よ。その事を忘れて頭ごなしに怒ってはダメ」

「ああ、確かにそうだ。俺達が悪かったんだ……」

「ロヴェルの怒りはエレンちゃんの事を愛しているから仕方がないの。でも失敗を繰り返して成長していくのを恐れてはいけないわ。わたくし達も親になってまだ二年だもの。失敗しちゃうわよね」


 ふふふ、と腕の中のエレンとロヴェルを愛おしそうに見るオリジンに、ロヴェルは頭が上がらない。


「確かにそうだな……」

「エレンちゃんはとても賢い子だから、手がかからないとわたくし達も慢心していたのだわ。明日から気をつけましょう?」

「そうだな。気をつけるよ」


 子供から学ぶというのはこういう事なのだろう。そんな会話をしていたロヴェル達だったが、エレンにとってはこの出来事がかなり後を引いてしまった。

 ロヴェルに怒られたことがよほどショックだったのか、しばらくエレンが塞ぎ込んでしまったのだ。


「どうしましょう……」

「困ったな……」


 そんな時に宰相のヴィントが連れてきたのは白虎の姿をしたヴァンという精霊だった。


「遊び相手がいれば気も紛れましょう」


 ヴィントがそう言いながら、エレンに「お嬢様、ヴァンたんでしゅよー」とヴァンを紹介した。

 エレンの二倍ほどの大きさがあるヴァンだったが、それでもまだまだ子供だ。もこもこの大きな手足。ちょこんと丸い耳にふわふわの毛並み。

 ヴァンの柔らかい毛に埋もれるのに虜になったエレンは、ヴァンのお腹に顔を埋めるのが日課になった。

 日に日に笑顔も増え、すっかりエレンは元気を取り戻す。


「今日も探検しましょー!」

「ぎょい~」


 さらにエレンは前世の頃からの城好きが高じて、毎日が冒険である。

 ヴァンと一緒に探検に乗り出しては迷子になり、両親に探されるという日々を過ごしていたある日、八歳になったばかりのエレンにオリジンが言った。


「エレンちゃん、そろそろ人間界に行った方が良いと思うの」

「人間界……ですか?」


 エレンが住んでいる世界は「精霊界」と呼ばれる世界だった。オリジンが管理しているこの世界には二つの界があり、もう一つが「人間界」と呼ばれている。


「行っても良いんですか?」

「だってエレンちゃん、このままだと冒険するとか言いだして勝手に行っちゃいそうなんだもの」

「うっ……否定できない!」


 それを聞いてオリジンはあきれ顔になり、その隣にいるロヴェルにいたってはジト目でエレンを見つめていた。

 居心地の悪さを感じてエレンは縮こまる。


「人間界はね、精霊界と違って、わたくし達の力の源でもある魔素の濃度がそもそも違うのよ」

「濃度ですか?」

「精霊は人間界ではあまり力が出せなくなるの。大精霊だとその身に宿る力がたくさんあるから関係ないのだけど、小さな精霊達は満足に力が出せないせいで、直接お話しすることも転移も難しいわ」

「そうなんですか」


 人間界に行けば、自分も話せなくなったりするという事だろうか?

(……酸欠みたいな状態になるとか?)

 まだ「魔素」というものがよく分からないエレンは、どういう理屈でそうなるのか理解できていなかった。


「エレンちゃんはこちらでしか過ごした事がないでしょう? 急に向こうに行くことになって、いざ力が使えないじゃ困っちゃうし、それにロヴェルも影響を受けているのよ」

「とーさまもですか?」

「俺は人間から半精霊となってしまったからか、力が上手く制御できなくなってしまったんだ」

「じゃあ、そのまま人間界へ行ったら、私と一緒であまり力が出せないという事ですか?」

「オーリと契約して使えるようになった精霊魔法はそのままだが、半精霊になったら精霊としての力が新たに生まれてな。それが人間界だと上手く制御できなくなっていたんだ。まあ、単にまだ慣れなくて勝手が違うというだけなんだが」

「ということは、力が出ないのは私だけですか?」

「うん。まあそうだね。でも、その辺にいる精霊とエレンを比べるのが間違っているからね?」


 人間界にいる精霊は、基本的に転移ができない。転移ができるほどの力を持つのはやはり大精霊クラスにならないと無理なので、すでに転移ができるエレンの方が規格外だった。


「二歳で転移を覚えてしまうエレンの方が、その辺の大精霊よりも強いと思うよ?」

「私はまだ、練習すらさせてもらえないのですが……」


 二歳でやらかして力を使うのに制限をかけられ、座学が始まってしまったのは痛い思い出だ。

 エレンはまだ八歳。その辺にいる大精霊達だけじゃなく、メイド達も数百歳は年上だ。

 エレンの方が上だというのは親の欲目だろうとエレンはジト目で見ているが、親ばかなロヴェル達には通じない。


「エレンちゃんがこっちで力を使うのはまだ難しいでしょう? だからエレンちゃんとロヴェルは先に人間界に行って、修行してきてほしいの!」

「修行!」

「日帰りの修行よ。お泊まりはダメよ~~!」


 城の庭ですら厳重に管理されていたのに、急に人間界で修行とはどういう意味があるのかとエレンは疑り深くなってしまっていた。

 それはエレンの冒険という名の脱走癖によって、ただ単に見張られていただけだというのだがエレンは気付かない。


「……魔法の練習をしたいとお願いしてもダメって言ってたのに、どうして人間界で先に修行なんですか? それなら精霊界から始めてもよくないですか?」


 思わずムッとしてしまうエレンに、オリジンはたじたじとなる。


「我が娘ながら鋭いな」

「うう……八歳の質問とは思えなくってよ」


 観念したかのようにオリジンが言った。


「エレンちゃんは転移や浮遊を簡単に覚えてしまったでしょう? 最近は特に転移で飛べる距離も増えてきたわ。でもね、精霊界と人間界では魔素の濃度のせいで、力の出方がそもそも違うのよ」

「二歳の時に大変な事になったのを覚えているかい? 精霊界だと魔素が満ちているから、威力が増して出てしまうんだ。エレンも俺もまだ力に慣れていないだろう? エレンも力の使い方をちゃんと覚えたがっているし、暴走して大変なことになる前に、人間界で先に加減を覚えさせようという話になったんだよ」

「人間界に行ったらロヴェルと一緒に練習して、日が暮れる前に帰ってきたらいいわ」


 エレンは確かに魔法の練習がしたかったし、人間界にも行ってみたかった。

 精霊として転生してから、ロヴェルからしか人間についての話を聞いたことがない。というよりも、精霊達はあまり人間をよく思っていないようで、人間の話をしたがらなかった。


「あ、エレン。でも人がいる所には行かないからね」

「えっ」

「エレンの容姿は人離れしているからね。何かあったら大変だ」


 エレンは鏡で見た自分の容姿を思い出して青ざめた。白銀の髪にミスティックトパーズに似た瞳。まだこの世界の人間を目にしたこともないものの、精霊からも珍しがられるのだから、人間界ではより顕著だろう。

 物珍しさに誘拐なんて事になってしまえば迷惑にしかならない。人間界で力が出にくいならば、転移で逃げることもままならないだろう。

(確かに、こんな虹色みたいな目をした人なんていないよね……)

 エレンがしゅんと落ち込んでいると、ロヴェル達が慌てた。


「ロヴェルが一緒だから安心して!」

「そうだぞ!」


 いつもなら「とーさまがいるなら大丈夫なんですよね!」と、揚げ足を取ってしまうのだが、普段の精霊達の人間に対するやり取りを思い出し、エレンはわがままを言うのを止めた。


「とーさまの側から離れません」

「うっ……娘が可愛い! 大丈夫、俺もエレンを離さないからね!」

「それはちょっと遠慮します」

「なんで遠慮するのっ!?」


 抱っこして頬ずりしてくるロヴェルの顔を、エレンは両手で突っ張って拒否をする。

 そんな何気ない日常のやり取りはいつもの事だったが、エレンが心なしか落ち込んでいるのに気付いたロヴェルとオリジンは顔を見合わせた。

(ちょっとだけ、人の友達ができたらいいなって思ってたけど……)

 エレンには同年代の友達と呼べるような存在はヴァン以外いない。もう少し同年代の子どもと遊んでみたいと思っていたエレンは落ち込んでいた。

(でも、人間界ってどんな世界だろう……)

 新しい世界に想いを馳せれば、エレンはその日が段々と楽しみになってきた。

「とーさまがいた世界、楽しみです!」

 気を取り直すようにそう言うと、ロヴェルとオリジンはどこかホッとした表情を見せて微笑んだ。


          *


 そしていざ、始めて人間界に足を踏み入れる日。お試しに昼を過ぎた頃に出かけることになった。

 エレンはロヴェルに抱えられ、オリジン達に見送りを受けていた。

 オリジンの背後にはあまり顔を見たことがない大精霊達まで列をなしていた。こちらが手を振ると、一斉に頭を垂れて送り出してくれる。


「行ってきます~!」

「頑張ってねぇ」


 オリジンがヒラヒラと手を振った。しゅんっとロヴェルが転移をすると、一瞬で世界が変わる。

 真下に一面緑の山々。遠目に海。真っ青な青空に、まぶしいくらいの太陽の光が頭上からさんさんと降り注いでいる。

 上空千キロもありそうな場所に、ふわふわと浮いている事に気付いたエレンは思わず目をぎゅっと閉じてロヴェルの首にしがみついた。


「ひゃーー! 高いよ~~~~!」

「あっ、ごめんよ。場所を間違えた」


 ロヴェルはまたすぐに転移をして、開けた丘に着地した。


「エレン、もう大丈夫だよ」

「うう~~もう! とーさま!」

「ごめんごめん」


 エレンが恐る恐る目を開けてみると、そこに広がっていたのはどこか懐かしい光景だった。

 イギリスのコッツウォルズ地方に似ている。はちみつ色のレンガ家の屋根が一列になっている場所が所々に見え、さらに遠くには四角く区切られた畑の端に木が等間隔に植えられていた。

 自分達がいるなだらかな坂には羊が放し飼いにされていて、まるで絵画のようだ。

 エレンは周囲をきょろきょろと見回して、自分達が人が住む場所から少し離れた場所に転移したのだと知る。

(精霊界とは違う……人が住む世界)

 精霊界はどこかおとぎ話そのもののような世界で、濃い魔素の影響なのか空気中にふわふわと光が舞っていたりする。幻想的な世界で、月も二つある影響なのか夜も明るい。

 世界が違うと見えるものも違うのだと、どこか放心した心で思った。


「どうだい? 精霊界とはずいぶん世界が違うだろう?」

「はい……」


 ロヴェルの方も見ず、ゆっくりと視界を左から右へと動かしていくエレンに、ロヴェルは微笑ましく笑っていた。


「ごらん、あっちに塔のような建物がうっすら見えるだろう?」

「はい」


 ロヴェルが指さした場所には、確かに塔の天辺に旗を立てる棒のようなものが見えた。城好きであるエレンの興味を引くかと思ったようだ。


「あの塔からずーっと向こう側に、とーさまが住んでいた領土があるよ」

「そうなんですか?」


 ということは、あれはただの塔ではなく監視塔なのかもしれない。


「とーさまはヴァンクライフト領って所で生まれたんだけどね、ここはそこの隣の、そのまた隣のケンプフ領っていう所なんだ」

「う~ん。どれぐらい遠いかよく分かりません!」

「あはははは、確かにそうだね!」


 羊を特産としている領土で、そこから因んだ名前なのだそうだ。


「ここで練習すると羊を驚かせてしまうから、もう少し奥で練習しようか」


 ロヴェルがそう言って、また一気に転移する。先ほどの丘からさらに山の天辺に近い眺めの良い場所に転移したようだ。そこは人の気配もまったく無く、思う存分魔法の練習ができると思った。


「先ほどの所は一面草が生えてましたけど……ここは砂利が多いんですね」


 少し遠くには大きな岩も所々見える。宙に浮いたままではあるが、足下には背の低い草がうっすらと覆い茂っている程度で、砂利が多かった。

 比較的歩きやすい遊歩道のような場所ではあるが、標高が高いためか人の気配はない。

 どうしてこんな場所なのだと疑問に思っていると、ここでロヴェルの結界の練習をするのだという。


「俺の魔法は結界だからね。エレンがケガをしないように……こう!」


 ロヴェルから魔法の気配がした。すると、ロヴェルとエレンを包み込むように、魔法の壁が現れた。

 ぱっと見では結界があるようには分からないが、よくよく見るとシャボン玉のような薄膜で覆われているのが分かる。


「シャボン玉の中にいるみたい!」


 エレンが目を輝かせているのとは反対に、ロヴェルは自分の結界を見て唸っている。


「う~ん。まだまだだな」


 ロヴェルは自分の結界を内側から指でノックするようにコンコンと叩く。強度はあるようだが、自分の思う結果ではないらしい。


「とーさまも修行ですね!」

「ふふふ、そうだね。じゃあ一緒に頑張ろうか」

「はい!」


 手始めに浮遊の練習をすることになった。ロヴェルに両手を摑まれながら、エレンは「うんしょ、うんしょ」と少しずつ高い所へと目指していく。


「エレンのかけ声は可愛いなぁ~」


 両手を握ってくれているロヴェルがデレッとした顔をしていた。エレンは必死に集中しているが、これはどこか昔体験したものに思えてしかたがない。

(これはあれだ……小さい子に始めて水泳を教える時の格好……)

 両手を持ってもらいながらバタ足と息継ぎの練習をするという、そのままの姿を空中でやっている。

 そんな事を思い出してしまっていたせいか、集中力が切れてカクンッと下に落ちそうになった。


「わっ」

「おっと」


 摑まれた両腕を上げたまま、ぷら~んとロヴェルにぶら下がってしまうかと思いきや、足に何やら床のような感触を受けてトンッと何かの上に降り立った。


「え?」


 よく見れば、ロヴェルの結界が二人を縁取るような形で作用している事に気付いた。エレンが少し落ちても、すぐに結界に足がつくようになっていたらしい。


「とーさまの結界だ! しゅごい!」


 感動しすぎて思わず舌を噛んでしまったが、ロヴェルは手放しで褒められて嬉しそうにはにかんだ。


「ふふふ、エレンにこんなに喜んでもらえるなんて、うれしい修行だな」

 二人でにっこり笑い合い、エレンはもう一度気合いを入れた。

「も一回頑張りますっ!」

「よし!」


 よそ見していたとエレンは自分を叱責し、もう一度少しずつ浮いていく。ロヴェルもそれに合わせて結界を維持しながら浮いてくれた。

 ある一定の高さになった時、エレンはぷるぷると震え出した。

(うう~~これ以上は力が入らない~~)

 懸命に力を出そうとするが、どうにもこれ以上の力が上手く出ないようだった。精霊界とは勝手が違うとはこの事かと頭を悩ませる。


「この辺が限界かな? よし、一度降りて休憩しようか」

「ふああぁ~い……」


 一気に脱力すると、エレンの身体がカクンと落ち始める。すかさずロヴェルがエレンをだき抱え、ゆっくりと地面に降り立った。


「力が出ないぃ~~……」


 精霊界ではもっと上まで余裕で飛べていた。それがいつもの半分にも満たないために、エレンはショックが隠せない。


「そうだろう? これが人間界なんだ。無理して力を使ってしまうと倒れてしまうから気を付けようね」

「はい……」

「これでも山の上だから、魔素は濃い方だよ」

「ええ~~!?」


 驚いたエレンにロヴェルが笑いながら説明してくれた。


「この人間界は、精霊界に比べてとても広大で、住んでいる人間達の他にも動物が沢山いるんだ」

「はい」

「魔素とは全ての根源。この山だけじゃなく、大地や海、木々や人間や動物、植物なんかもこの魔素からできている」


 オリジンはこの魔素という力を使って、両世界を創造した。魔素はその核のような役割を持ち、さらにエネルギーとしての役割もあった。


「人間界では、精霊に使われるよりも人間や動物、植物に力が使われて循環している。だから……」

「濃度が薄いんですね!」

「その通り」


 なるほど、そういう事かとエレンは納得する。

(魔素って酸素みたいなものかな?)

 大分違うのが、例えると大方そんな感じで間違いはないだろう。

(しかし、山の上は酸素濃度が低いと思うのだけど、上の方が濃いってどういうことなんだろう?)

 そういう意味では酸素とは全く別物だと分かるけれど、いまいち謎が多い。


「じゃあ慣れてきたら、どんどん下の方へ行くんですか?」


 エレンがきらきらした目でロヴェルを見ると、ロヴェルは苦渋の顔をして「うん……まあ、そうだね……?」と誤魔化そうとした。

 それに気付いたエレンは、心の中でにやりと笑う。


「人間界に来たのは修行なんですからっ! 慣れてきたら下山して練習しましょう!」

「ぐっ……! いや、でもね? 人間は危ないからね……?」

「人が危険だというのは分かりますが……どう危険なのか、またそうなった場合どうやって回避しなければいけないのか学習しなければいけないと思います」

「ううっ」

「それらは魔素濃度の低い、下山した場所で試さなくてはいけないと思うのです」


 ロヴェルが眉を寄せながらう~ん、う~んと言い訳を考えているが、エレンの言葉に一理あると思ってしまうのか悩んでいるようだった。

 そして、トドメだとばかりにエレンはにっこりと笑って言った。


「それに、とーさまが守ってくれるって信じてますからっ!」

「うわあああ! なぜなんだ! 断りづらい!!」


 でもうれしい……とロヴェルはエレンに頬ずりをする。純粋にエレンから頼られて嬉しかったようである。


「確かに下山した場所でエレンがちゃんと魔法が使えるか試さないといけないのは分かっているんだが……それよりも本当に何か起きたらと思うと心配なんだよ」

「仕方ありません。だって私、まだ八歳ですもん!」

「そんな堂々と言う八歳なんていないと思わない?」

「そうですか?」

「そうですよー」


 お互いのおでこを合わせて、首を左右に振りながらぐりぐりと擦りつけてくるロヴェルをエレンは両手を突っ張って押しのける。


「でもこの調子だとまだまだな気がします……」

「俺としてはこのままでいいと思ってるよ?」

「早く人間界から精霊界までの転移を覚えますっ!」

「最善の逃げ方がもう分かってるんだもんなぁ……」


 ロヴェルはどこか遠い目をしながらも、エレンに練習再開しようかと促した。


「はいっ!」


 エレンは元気よく返事をして、また何度も飛ぶ練習を繰り返す。

 ゆっくりではあるが、エレンが自己記録を超える高さまで飛べた瞬間、ロヴェルが見てご覧と遠くを見るように促した。


「え?」


 飛ぶことに集中していたエレンは、周囲に気を配ることができなかった。

 お昼を過ぎてから人間界へとやってきたが、どうやら日が沈もうとしているほどには時間が経ってしまっていたらしい。

 ロヴェルが促した先には、地平線の先が夕焼けに染まり、青い空とのグラデーションに染まった空だった。

 山の上で空気が澄み切っているせいなのか、それとも空に近い位置だからか、鮮やかさが際立っている。


「すっごーーい!」


 夕焼け一色に染まっていく丘では、牧羊犬に追い立てられている大きな羊の群れが分かった。日が暮れてきて、顔を出した月も見えている。


「人間界も綺麗だろう?」

「はい! お月様が一個しかありませんね」

「そうそう。不思議だよね」


 二人でしばらく夕日に見入っていると、エレンはふとロヴェルを見上げた。ロヴェルは夕日ではなく、日の沈む方向の下界を眺めているようだった。

 黙って黄昏れている姿は、どこか寂しそうである。


「……とーさま?」

「ん? どうしたんだい?」


 エレンが声をかけるといつもの笑顔を向けてくるが、先ほどの寂しさを滲ませたロヴェルの表情は、エレンが知っているロヴェルとはどこか違っていた。

 城にいる精霊達は人間に対して思うところがあるらしく、人間界の話をしてくれない。

 精霊王であるオリジンの夫として半精霊になったというロヴェルは、そのせいで人間界に帰って来れなくなった理由でもあるのだろうかと考えてしまった。


「とーさまは人間界に時折帰ったりしているんですか?」

「俺? 俺は帰らないよ」

「えっ、どうしてですか?」

「だって、精霊界には素敵な妻と可愛い娘がいるからね!」


 エレンをぎゅっと抱き寄せてくれるが、エレンにはそれがごまかしだと分かってしまった。

 思わず「むうう」と頬を膨らませていると、それを見たロヴェルが慌てる。


「えっ、なんでご機嫌斜め!?」

「私達を理由にして帰らないなんて……」

「えええ、そこ!? なんでダメなの!?」

「嘘ですね! 過去に何か問題があったのか、帰りたくない理由が他にあると推測します!」

「推測なんて言葉どこで覚えてきたの!」


 うちの娘えらい! と褒めてくれるが、エレンはここまで自分で言ってしまって反省してしまった。

 本当に帰りたくない理由があったとしたら、エレンが触れていいことではない気がしたからだ。

(とーさまが精霊界に来てからまだ十年くらいだと聞いた事があるから、ご家族の方はまだご健在のはず……)

 エレンはこの世界に転生してしまったので、元の世界には帰れない。昔の家族に会いたいという気持ちもあるが、それがもう二度と叶わないのだと分かっているだけに、ロヴェルに諦めて欲しくないと思ってしまう。

 それがエレンのわがままでお節介だとしても、存命している今しかないのだと強く思うのだ。


「…………」

「エレン? どうしたんだい?」

「なんでもありません」


 思わずにっこりと笑って誤魔化すと、ロヴェルが苦笑した。


「私もちょっと黄昏れちゃいました」

「本当、どこでそんな言葉を覚えてくるの……?」


 人の思い出をくすぐる夕日の魔力に、エレンは逃れようと声を張り上げた。


「とーさま、帰りましょう! そろそろ、かーさまがぷんぷんしそうです!」

「そうだね、怒られる前に帰ろうか」

「はい!」


 そうして、二人は転移で夕日から逃れ、人間界を後にするのだった。


          *


 精霊城に帰ってきた二人を今か今かと待っていたオリジン達は、ロヴェル達の姿を目にした瞬間、「おめでとう~~!」と叫んで拍手をした。

 大勢に出迎えられて、二人は何事かと目をぱちくりとさせる。


「おかえりなさ~い!」

「た、ただいまです……」

「ただいま、オーリ。これはどうしたんだい?」


 帰ってすぐのオリジンへのハグと頬へのキスを済ますと、皆の顔を一巡する。


「あら、人間界では初めてのことってお祝いするんでしょう?」

「え?」

「エレンちゃん、初めての人間界どうだった?」

「とーさまの世界は、とっても綺麗でした!」

「あら、じゃあこっちは?」

「かーさまの世界は幻想的で素敵ですっ!」

「あらあら。嬉しいわね」


 オリジンからお礼のキスをおでこにもらって、エレンもくすぐったそうに笑う。


「エレンちゃんはわたくしと一緒に人間界を管理するのだから、今の内から色々な事に慣れておいて欲しいのよね」

「うう……やっぱり俺は反対だよ……」

「あら、何を言うの。あれだけ話し合ったのにロヴェルってば我儘さんね」


 ロヴェルの鼻の頭をちょんと人差し指でつつくオリジンの指を、ロヴェルがわざとガオ~~と噛もうする。

 オリジンが指をひょいっと離しては、また突くという攻防戦を繰り広げている内に、どうやら二人の世界に入ってしまったようだ。

(相変わらずだな~~)

 仲が良すぎる二人に砂を吐くことも多いが、そんな時にはサッとメイド達がエレンを構ってくれるのだった。


「姫様、お祝いの果物がたくさん届いておりますよ。冷やした物をお持ちしましょう」

「本当ですかっ!? 実はお腹が空いていたんですっ」


 喜ぶエレンに、ロヴェルがそういえばと教えてくれた。


「人間界では魔素が薄いからか、腹が空くんだよな~」

「ふふふ。ロヴェル達は確かにそうね」


 そんな賑やかな会話をしながら部屋へと移動する。すれ違いざまにエレンは沢山の大精霊達からお祝いの言葉をもらった。

 エレンもお礼を言いながら、ふと考える。この世界に生まれ、そして女王の娘としての責務の大きさをこうやって知っていくのかもしれない。

(大変だとは思うけど……)

 どこか、ゆるゆるなオリジンと心配性のロヴェルを見ていると、大丈夫と思えるエレンがいた。

 そして昔いた世界と似た人間界に、エレンは嬉しさもあった。

(修行、頑張るぞ~~!)

 心の中で決意を上げながら、エレンはメイド達から差し出されたブドウを一粒もぎり、口に入れた。


 その後、人間界ですぐに力の扱い方を覚え、転移して帰ってくるまでになったエレンはロヴェルと共に人里へと下りていく。

 その間際にオリジンからロヴェルが精霊界に来た経緯や、頑なに人間界に帰りたがらないという話を聞いた。


「たまに帰るくらい、どうってことないと思わない?」

「かーさまがそう思っていたことに驚きです……」


 エレンを人間に見せたくないという理由以前に、何か理由があるのかもしれない。だが、ロヴェルは頑なに口にしなかった。

(何があるんだろう……?)

 エレンは首を傾げるしかなかったのである。


 そして、どういうわけか立ち寄った街でロヴェルを知っている者に出くわし、ロヴェルが探されていたと知ったエレンは、ロヴェルを家族に会わせたいと思った。

(生きている今しか、時間はないんですよ……)

 思わずお節介をしてしまったが、エレンは後悔していない。



 その後、ロヴェルが頑なに帰りたがらなかった理由が、巷で「英雄」だと呼ばれていたからだと知ってエレンは呆れるのだった。

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