サイレント・ウィッチ 沈黙の魔女の隠しごと/依空まつり


  <最小の完全数>



 リディル王国でも屈指の名門校セレンディア学園は、主に貴族の子女達が通う学園だ。建物は城と見紛うほどで、柱や手すりの装飾一つとっても繊細で美しく、手がこんでいる。

 そんな煌びやかな学園の廊下を、背中を丸めてコソコソと歩く一人の少女がいた。


「うぅっ……怖いよぅ……帰りたいよぅ……」


 泣き言を口にしながら歩くのは、薄茶の髪を編んで一つにまとめた、地味で小柄な少女である。

 貴族の子女達が通うこの華やかな学園で、少女の冴えない容姿やオドオドした態度は酷く浮いていた。

 少女は周囲を警戒する小動物のようにキョロキョロと視線を彷徨わせては、人とすれ違う度にビクッと肩を震わせて立ち竦む。

 そんな不審な行動を数回繰り返したところで、少女は覚悟を決めたように顔を上げ……廊下を引き返し、人のいない踊り場に逃げ込んだ。

 そうしてその場にしゃがみ込み、一枚の書類を胸に抱いて項垂れる。


「……学年が違う階、怖い……ぜ、絶対、変な目で見られてる……でも、殿下を探さなきゃ…………あ」


 少女が立ち上がった拍子に窓から強い風が吹いて、手にしていた書類がヒラリと宙を舞う。

 少女は慌てて手を伸ばし、書類を掴もうとした。だが、書類は鈍臭い少女の指先をすり抜け、階段下にヒラヒラと落ちていく。


「ま、待ってぇぇぇぇっ」


 少女は周囲に人がいないことを確認すると、指をスイッと一振りした。

 ただそれだけで気紛れな風は少女の意のままに従い、書類はフワリと手元に戻る。

 風を操る魔術。それを詠唱も無しにやってのけたこの少女の正体は、この国の頂点に立つ魔術師、七賢人が一人〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレット。

 モニカはこの学園に通う第二王子フェリクス・アーク・リディルを秘密裏に護衛するため、正体を隠し、モニカ・ノートンを名乗って、この学園に生徒として通っているのだ。

 護衛対象の第二王子フェリクスは、この学園の生徒会長である。

 モニカは紆余曲折を経て、生徒会の会計に就任し、フェリクスと近づくことに成功した。護衛任務は順調と言っても良い。

 それでは、正体を隠して秘密裏に王子を護衛をしている人間が、どう見ても不審者にしか見えない態度で、廊下をウロウロしているのは何故か。

 ……事の発端は、少しばかり時刻を遡る。


       * * *


「二八、四九六、八一二八……」


 セレンディア学園の放課後の生徒会室にて、学園祭で使う資材の書類をまとめていたモニカは、表に記された数字に、うっとりとしていた。

 あぁ、まさかこんなに素敵な数字が、同じ書類に三つも揃っているなんて!


「……えへ……素敵」


 モニカは恋する乙女のように頬を上気させ、ほぅっと感嘆の吐息を溢す。

 そんなモニカを、向かいの席で作業していた銀髪の青年──生徒会副会長シリル・アシュリーが不気味なものを見るような目で見た。


「ノートン会計」


 シリルが声をかけるも、書類に夢中になっているモニカの耳には届かない。

 シリルはキリキリと眉を吊り上げ、声を張り上げた。


「ノートン会計! ……モニカ・ノートンっ!」

「ひゃ、ひゃいっ!」


 部屋中に響くようなシリルの大声に、モニカは肩を竦めて縮こまる。

 シリルは神経質そうに机を指で叩き、モニカとその手の中の書類を交互に見た。


「その書類は、搬入する木材のサイズと価格に関する物だったと記憶しているが……何をそんなに締まりのない顔をしている?」

「あっ、はいっ、そう、そうなんですっ! 見てください、この数字!」


 そう言ってモニカは書類に記された数字の内の三つを指で示す。

 二八、四九六、八一二八。その三つの数字に、シリルは青い目を細めた。


「……偶数であること以外、共通点があるとは思えないが」


 困惑顔のシリルに、モニカは書類を片手に身を乗り出す。

 そうして、いつもビクビクオドオドしている内気な少女は、人が変わったかのように活き活きと力説しだした。


「完全数ですっ! 完全数とは自分自身を除く正の約数の総和が、自分自身と等しくなる自然数のことを言うんですけど、まだそんなに多くは発見されていないんですっ、それが……それが、偶然にもこの書類一枚の中に三つも使われてるんですっ!」

「…………」

「ちなみにアシュリー様が仰っていた通り、完全数はまだ偶数しか発見されていなくてですね。奇数の完全数が満たさなくてはいけない条件は、わたしも見つけられたんですけど、存在の有無について言及できる結果はまだ見つかっていない未解決問題で……」

「ノートン会計、その書類だが」


 モニカが早口で語るのを遮り、シリルは無表情に書類の下部を指さした。


「あと一箇所、空欄があるだろう。そこの数字を殿下に確認して、今日中に搬入担当のペイル教諭に提出してくれ」


 殿下とは即ち、この国の第二王子にして、生徒会長でもある人物、フェリクス・アーク・リディルのことである。

 フェリクスは生徒会長なので、放課後であるこの時間、いつもなら生徒会室にいる。

 だが、今日に限って彼の執務机にその姿はなかった。

 モニカは嫌な予感を覚えて、恐る恐るシリルに訊ねる。


「そ、そういえば殿下は……あのぅ、どちらに?」

「今日は別件で、まだ教室に居られる。恐らく、生徒会室には来られないだろう」


 シリルの言葉にモニカは青ざめた。

 つまり、モニカはたった一人で三年生の──先輩の教室に赴き、フェリクスに書類の中身を確認してもらわなければならないのだ。

 極度の人見知りであるモニカにとって、先輩の教室に行くというのは極めて困難なことだった。それこそ、数学の未解決問題に匹敵する超難問である。

 モニカは書類を両手で握りしめ、全身から冷や汗をダラダラと流して硬直した。


       * * *


 三歩進んで二歩戻って、また三歩進んでスタート地点に戻るような動きで廊下を歩いていたモニカは、本来なら一分とかからない距離を、たっぷり十分以上かけて進み、ようやくフェリクスの教室に辿り着いた。


「や、やっと着いたぁ……」


 数多の試練を乗り越えてきたかのような顔で呟き、モニカは教室の扉の前で立ち尽くす。

 上級生の廊下、という試練を乗り越えたモニカの前に立ち塞がったのは、第二の試練。

 上級生の教室の扉を開けて、「殿下はいらっしゃいますか?」と声をかける──人見知りにとって過酷すぎる試練である。


(そ、それでも、やらなきゃ、今のわたしは、生徒会役員なんだから)


 モニカは扉を睨みながら、今から口にすべき台詞をブツブツと小声で繰り返す。


「失礼します、殿下はいらっしゃいますか。失礼します、殿下はいらっしゃいますか。失礼します、殿下はいらっしゃいますか……うん、よし」


 モニカはフンスと鼻から息を吐くと、思い切って扉を開ける。

 そして、虫の鳴き声のようにか細い声で言った。


「しっ、失礼しますっ……殿下は……いらっしゃい、ます、かぁ……」

「うん、君の後ろに」


 声はモニカの真後ろから聞こえた。

 モニカがぎこちなく振り返れば、すぐ真後ろには艶やかな金髪に碧い目の、長身の青年がモニカを見下ろしている。


「でっ!? でんっ、ででんっ、でででで、でんでん……っ、殿下ぁっ!」


 もはや何かの効果音か、はたまたリズムをとっているのかというほど長い「でんでん」からの殿下呼びに、この国の第二王子にして、セレンディア学園の生徒会長フェリクス・アーク・リディルはニコリと微笑んだ。


「うん、今日はいつもより、殿下呼びに時間がかかったね?」

「ひぅっ、すみませんっ……」

「少し席を外して戻ってきたら、君が教室の前にいるから驚いたよ」


 驚いたのは寧ろモニカの方である。というより、あのタイミングで声をかけたあたり、完全に揶揄われているとしか思えない。

 フェリクスは大抵の女性が見惚れそうな美しい顔に、優しげな笑みを浮かべている。

 そんな彼に、通りすがりの女子生徒はうっとりと頬を染めているが、モニカは今にも息絶えそうなほど青ざめ、震えていた。

 上級生の階の廊下を歩く、上級生の教室をノックして人を呼ぶ──という第一、第二の試練を乗り越えたモニカの前に立ちはだかるのは、最後の壁。

 即ち『学園中から注目されている王子様に、人前で話しかける』

 生徒会室で話しかけるのと、他の生徒がいる教室で話しかけるのとでは、難易度が段違いなのだ。

 今は放課後だが、教室にも廊下にも、それなりに人がいる。そして彼らは皆、さりげなく──あるいは露骨に、フェリクスとモニカの動向に注目していた。

 自分にチクチクと突き刺さる視線が痛い。特に女子生徒からの視線は、やっかみと嫉妬が絶妙に入り混じっている。怖い。


「それで、こんなところで何をしているんだい、ノートン嬢?」


 ありがたいことに、フェリクスの方から話を切り出してくれた。あとは、モニカが用件を言うだけだ。

 言うだけ……なのだが、周囲の視線とフェリクスの煌びやかな雰囲気に気圧され、モニカはモゴモゴと口ごもる。


(こ、怖い……帰りたい……)


 俯き指をこねていると、フェリクスが屈んでモニカの顔を覗きこんだ。


「私では、君の力になれないかな?」


 煌びやかなオーラ全開で顔を覗きこむのは、小心者をより追い詰めるだけなので、切実にやめてほしい。

 モニカはブルブルと震えながら、手元の書類に視線を落とした。

 二八、四九六、八一二八……美しい完全数を目にしたら、少しだけ心が落ち着いた。いける、今なら言える。

 モニカは勢いよく顔を上げ、口を開く。


「こっ、この表の! 最後の数字を、確認したいのでふがっ!」


 盛大に舌を噛んだモニカが真っ赤になって硬直していると、フェリクスはクスクスと笑いながら言った。


「その空欄の搬入数は、六だよ。これで、いいかな?」

「………………六?」


 その数字を耳にした瞬間、羞恥に強張っていたモニカの顔から表情が消える。


「六、ですか?」

「うん」


 フェリクスが頷くと、モニカはその数字を反芻するかのように「六……六……」と呟いた。

 その幼い顔が、みるみる喜色に彩られていく。


「すごい……すごいですっ!」

「うん、なにがすごいんだい?」


 穏やかな笑顔に困惑を滲ませるフェリクスに、モニカは目を輝かせて書類を突きつける。


「六は最小の完全数なんですっ! 完璧でとても素晴らしい数字なんですよ! 六の約数は一、二、三、六……このうち、自身の六を除いた数字を足すと、一+二+三で、ぴったり六になりますよね? これが完全数ですっ! わぁぁぁ、一枚の書類に完全数が四つも! えへ……すごい……」


 モニカはクフクフと笑みを溢し、うっとりと書類を見つめた。

 そんなモニカに、フェリクスが控えめに声をかける。


「ノートン嬢?」

「あっ、わたし、書類、提出してきますっ! ありがとうございましたっ!」


 そう言って、モニカは軽やかな足取りでその場を後にする。

 今のモニカには、フェリクスも周囲の視線も目に入らない。

 モニカの頭の中は、美しい数字の世界でいっぱいだったのである。


       * * *


 生徒会副会長シリル・アシュリーはソワソワしながら、三年の教室がある階へ向かっていた。

 モニカにフェリクスの教室に行くように指示を出したものの、モニカが無事に教室に辿り着けたか不安になったのだ。

 なお、これはモニカを心配してのことではない。モニカがフェリクスに迷惑をかけていないかが心配なのであって、決して決してモニカが心配なわけではない。ないったらない。


(ノートン会計のことだから、三歩進んで二歩下がってスタート地点に戻るのを延々繰り返しているのでは……)


 そんなことを考えつつ階段を上ったシリルは、信じ難いものを見た。

 あのモニカ・ノートンが──いつも俯いてオドオドしている少女が、満面の笑みで、死ぬほど下手くそなスキップをしながら、シリルの目の前を通り過ぎていったのである。


(それはスキップのつもりか、いやそれ以前に、セレンディア学園の生徒が人前でスキップなどという浮かれた真似をするなどけしからん、いやしかし、あれは本当にモニカ・ノートンか……?)


 シリルが目を擦っている間に、浮かれた足取りのモニカは廊下の角を曲がって見えなくなった。

 シリルは己の目頭を揉むと、早足で三年の教室に向かう。


「殿下っ! こちらに、ノートン会計が来ませんでしたか?」


 フェリクスの姿を見つけて声をかけると、フェリクスはほんの少しだけ眉を下げ、困惑顔でシリルを見た。


「やぁ、シリル。どうやら私は、魅力という点で、数字の六に負けたらしい」

「………………はい?」

「完璧で、とても素晴らしい数字なんだそうだよ」


 そう言って、誰からも完璧で素晴らしいと言われる王子様は苦く笑った。


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