第三章 その11

 珍しく下校時に生徒会長にあった。速水は小走りで声をかけた。

「あら、一人?」

「会長こそ」

「ええ、何か用事があるとか」

「あの眼鏡もです」

「男子たちが男子らしい、私たちには理解できない青春ごっこでもしているのでしょう」

「男子ってなんでああなんですかね」

 アホたちがネタになれば話題が弾む。ひと段落つくと、速水は礼を言った。それから、詫びを入れようとした。

「私に言う必要はないわ」

 輪島は制した、遠慮こうむる体だったが、どこか咎めているようでもあった。それは速水にはちょっと分からぬ心持ちだったが、その疑問もそれ以上の言葉も出さないことにした。その間にいたたまれなさを感じたのは輪島の方である。引け目みたいな感情が早口にさせる。

「友和はどうかしら、優しく接している?」

「まあまあですね。せっかく交際するようになったんで、名前で呼んでもらうようにしたんです、いっつも速水君とか、あんたベテラン教授かよって呼び方するんで」

「聞いているだけで映像が浮かぶわ」

 それはあり得ない蜃気楼をちらつかせた。仮定はダメだ。輪島は堪えようと努めた。

「そしたら、さよりって、魚じゃないって。噛むにもほどがある。きょどり過ぎなんですよ、てか、何か誇大妄想とかしてるんですかね」

「なくはないわね。それなら、速水さんは友か、ああもう友和って呼ばない方が良いわね」

 いつも通り、いつも通り。できる、できるから、ちゃんと。自負と強情が純真を手なずける。

「いや、そこは変に変えられるとむず痒いって言うか、行列に割り込んじゃうみたいな感じなんで通常営業で。ってか、私なんかが言うのもおこがましいですよ。ああってか、ほんと会長が言いそうだったみたいに、私もと、と、トモカズとかって呼ばないとなんですよねえ、あの眼鏡に」

「散々な言いようね、でもそういうことよ、お付き合いって」

「いや、ならいいや。フクカイチョウっていうニックネームってことで現状維持にしますわ。ああ、気が楽になった」

「それはどうなのかしらね、……」

 あの時不安と不満をないまぜにしていた下級生が今やはつらつとしている。それは会長として喜ばしいことだ。ただ、と一つの保留が、行く道にできた水たまりのように現れる。きっと須田は横にいるのが自分であったとしたら、噛むとかきょどるとか誇大妄想とか、そんなことは決して言わないだろう、決して。言いよどむ彼がいたとして、どことなくかわいらしいとさえ思っている自分がいた。速水のようにはしゃぐ自分の姿は想像できなかった。(他人のことは言えないわね、アホは私もね、いいえ、私の方がずっと)。それは名村にも言われたことでもある。羨望、そんな高尚なものではない。うらやましい、それも言い過ぎだ。隣の畑は良く見える、ことわざが間違っているけれど、今はどうでもよかった。そんな簡単な程度でもなかった。痛い。痛むのは嘘である、嘘であらねばならない。あるいは痛みを甘受しなければならない。須田のためと言いつつ、結局は自分に自信がなかっただけ。それを体よく胡麻し続けていたのだ、腹をくくるとか覚悟とかまでいかなくとも、心に従う、そんなことでよかったはずなのに。仮定はしたくない方だ。したところで仮定は仮定でしかない。仮定に自ら距離を作っている、そのはずなのに。「もし」が頭の中を、胸の中を、心と呼ぶのだろうかその中を点在し点滅する。消えてくれない。「もし……たら」、痛みは感じることはなかったのだろうか。会長の自尊心は答える。「だからどうだと言うの」。それを大義名分、いや免罪符、違う、そんなありがたみのあるものではない。もっと生々しい、そう祀り上げられた信仰の位置に寄りかかるしかなかった。免罪符、そうだ、そうしたんだった。名村を選んだ理由。以前、そう中学の頃、輪島がもう卒業と言う頃である。目の上のたんこぶがいなくなってさぞかし羽を伸ばすことでしょう、と輪島が自虐的に冗談を言った流れで、後輩男子二人に彼女も作れるようになるしね、なんて展開があって、その延長線上、ふとした間合いで「名村なら会長にふさわしいのでは」と、須田が口走ったのである。流れ上、それは三人の中では冗談として、合いの手として、あくまで隠し味程度の調味料のはずだった。けれども、記憶は隠せなかった。須田も輪島も名村も記憶力が悪い方ではない。あの須田の言葉、それが免罪符だ、「言ったのは友和でしょ」。いや、免罪符というよりは、領収書か。いずれにせよ、もう済んでしまったのだ。

 よくしゃべる速水に相槌を打つたび、それは杭のように輪島の胸の内をうがった。

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