第三章 その5

 一人下校していた須田はある光景を目撃した。若い警察官が右側通行をしていた、自転車に乗って。そこへベテランの風格のある警察官が血相を欠いてこいでいた自転車を止めた。若い警察官も自転車を止めた。街の中にもかかわらず、えらい剣幕でベテラン警察官は若い警察官を叱責し出した。ベテランはハタと気づいてあたりを見渡し、通行人たちの目を確認したのだろう、慌てて取り繕った笑顔をして二度三度軽く頭を下げると、若い警察官を引き連れて自転車をこいで行った、左側通行で。どこぞから通報でもあったのだろうか。このご時世である。通報なしに、動画を撮ってインターネット上にアップでもしたら、ベテランどころか、お偉いさん方が深々と頭を垂れる結果になる。いや、この段階ですでに動画が撮られているかもしれない。それをもとに脅迫、ドラマか! なんてことを須田はその光景から考えた。そこは交通量は多くはなかった、街とは言え。片側一車線でバイパスや高速道路への抜け道でもなかった。とはいえ、である。一般市民でチャリの右側通行している人は少なくない。でも、それは違反である、正確を期するならば。チャリは歩道を走ってはいけない、基本的には。チャリくらいならいいだろ、気を付けているからいいだろ、と思う人は少なくないだろう。けれど、チャリは車道を左側通行である、基本的には。それこそそうしていれば警察官に注意されるようなこともなければ、その可能性すらない。生真面目だなと揶揄されるかもしれない。赤信号でも往来する車がなかったから横断歩道を走って渡った、なんてことは指の数では足りない、そういう人は少なくないだろう。青信号を待っているのを律儀だと皮肉がられるかもしれない。生真面目も律儀も悪くはないのに、そう言われると悪いような気がしてくる。それは良いも悪いもない、あくまでニュートラルな性質のはずなのに。

 翻って。新しく実施している純粋異性交遊に関する校則に則って申請手続きしている生徒たちに生真面目とか律儀とか言うだろうか。言わない。言っている生徒はいない。教師にも揶揄や皮肉を言う人はいない。この制度は教師間にも適用されるのかと深刻な顔で尋ねてきた教師がいる。四十になる男性教諭である。即答はできなかった。生徒会一同、生徒会顧問を交えての問答、さらには教頭を交えても問答の時間を換算すると、四時間である。教頭からひと言。「生徒を困らせるものではない」。一喝を入れられた男性教諭は背中を押されたような顔になった。その一週間後くらいである。その教諭と、同世代の女性教諭が交際を始めたとの報を耳にした。肩の荷が下りたと言うか、肩透かしな気分と言うか、生徒会役員全員がそんな杞憂からの解放に胸をなでおろし、盛大な差し入れをその教諭に申し出たのは無理からぬことである、冗談交じりだったが。

 法の目をかいくぐって、というのはニュースでもドラマでも聞いたことがある。誰の目もなければチャリで右側通行もするし、信号無視もする。裁判にかけられたわけでもないから、罪悪感はない。

「それでも」

 須田は嘆くように一言だけ呟いてから目撃で止めていた足を動かした。あの夢でもあるまいに、なんだか足が重たいような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る