第三章 その3
見れば学生服だった。自転車をこいでいた。変速があるような、ロングライドに出るような自転車ではない。ママチャリでもない。シティサイクル、そうシティサイクル。買ってもらったのか、新しいのか乗り慣れているのか。はっきりしない。でもそれが自分の自転車で座り心地に違和感があるとかそういう気はなく、こいでいた。風が向かってくる。強くはない。弱くもない。春の匂いも夏の熱も、秋の涼やかさも冬の凍てつく感じもなかった。足が重くなった。スピードが遅くなる。風景を見ていなかったことに気づいた。街だった。車道を走っていた。信号はない。歩道には自分と同じくらいの年代の、そう学生服を着ているからきっと同じ年代の男女が連れ添って歩いていた。雰囲気が悪い男女はいなかった。不貞腐れている表情を見せる女子がいたが、男子が何やら詫びを示すジェスチャーをするとすぐに笑顔になっていた。誰かは知れない。クラスメートでも学校の上級生、下級生でも見たことはない。他の学校か、そうだろうな、制服が見たことがない。こぐ足が重いと言うのに周りの景色が気になって仕方ない。心地いい。そんな気分だった。足が重いのに。ふわっと風向きが一瞬変わった。気配なく一台の自転車がすうっと脇を通り越して行った。見たことのある制服だ。自分の高校の。スカートが愉快そうに揺れるのは、その女子のペダルが軽快に回っているせいだった。なぜか知っている女子の気がしてきた。追いかけようとした。ペダルが鈍い。足が重い。自転車に乗る女子はずんずん遠くなる。重い足を必死になって動かそうとする。もはや景色を見る余裕はない。ありもしない風で押し返されている、そんなクレームを叫びそうになる。待てと、待ってと大声で訴えたくなった。遠くなる、遠くなる。女子が遠くなる。ハンドルから片手を離して伸ばした。女子はもう見えなくなってしまった。彼は自転車を止めようと、ブレーキに指を伸ばした。が、ブレーキはなかった。急にハンドルさばきが危うくなる。足は重くはない。バランスを取り直す。景色が回復した。楽しそうな男女たち。あの女子を追いかけよう、そうペダルを踏もうとすると、またしてもすうと横に気配が来た。彼は勇んで横を見た。その自転車はさっきのと同じように彼を追い抜いていくところだった。彼女も軽快にペダルをこいでいた。彼女のことも知っている気がした。すれ違う時声をかけようとした。できなかった。彼女の方から声をかけられたからである。「あなたが取ったのよ。そして、取り付けられるのよ、ブレーキは」。彼女は振り返りもせず遠くなって行った。彼はその言葉をかみしめながら自転車をこぎ続けるしかできなかった。自転車の前輪の上に取り付けられているカゴに入れられた鞄に下敷きになった銀色の部品に彼は気づかずに走り続けた。
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