第二章 その2
その日の午後である。昼食を終え、それでもペットボトルのお茶で食後感にまだ浸っている時間だった。輪島はスマホをいじり、須田は坂口安吾の未発表原稿をまとめた新刊を読み進めていた。生徒会室のドアがノックされた。
「どうぞぉ」
生徒会担当の教員・小野田ならばこんな丁寧なノックオンはしない。不躾にも容赦なくえらい勢いでドアを開ける。ということは、他の教員かもしれないので、輪島は割かし丁寧な作った声で促した。
「あのー、すいません。生徒会って夏休みもやってるんですよ、ね?」
慎重というか、恐る恐るドアを開けたのは女子生徒だった。それでは入室できないと言うほど、ほんの十数センチだけ開けて覗き込むようにして問いかけてきた。
「ええ、どうぞ。入ってらして」
作っているには作っているが、教員向けではなく単に丁寧な音調で輪島はその女子生徒を生徒会室へ招いた。女子生徒はそれでもドアを自分の体がギリギリ入るくらいにしか開けなかった。嘗め回すように生徒会室を見ている。遊園地かアミューズメント施設くらいの興味のようだ。好奇心ではない。どちらかと言えば、言い方は悪いが覗き見趣味みたいな感じだった。
「私、こういう場所とは縁遠いもんで」
どうやらその印象は当たらずとも遠からずだったようだ。
と、彼女は物珍しく言うもののそれほど豪華な部屋ではない。来客用のテーブルソファセットなどあるわけはないし、そんなスペースはそもそもない。とはいえ、教室で使う机と椅子が二席向かい合わせで端の方に置かれていた。それこそ来客用なのだ。そこへ、会長自ら促した。女子生徒は相変わらず初めて来た友人の部屋をくまなく見渡す様子で着席をした。真向いに輪島が腰下ろした。とたん、女子生徒は急に居住まいをただした。生徒会長が目の前にいるので改めて緊張したのでもあろうか。
「飛び込みですいません。予約とかすれば良かったですか?」
手を膝に乗せたまま頭を低くして女子生徒は小さな声で言った。ちらりと見た視線の先は、パソコンのキーボードを叩き続けている副会長の背があった。
「ああ。大丈夫、大丈夫。生徒会は生徒たちの万相談所でもあるわけだから」
「はあ」
会長のフォローの意味がよく分からないという様子だった。とはいえ、邪険にされてないというのは理解できたようで、
「あの、一年の速水さほりと言います」
自己紹介から始めた。二・三年には彼女のようなみずみずしさは声に出ない。若々しさがないというわけではない。それでも上級生たちにはこの高校に通った短くない時間がある。その馴染み感は落ち着きと惰性と言ってしまえなくもない。だから、その口調からでも彼女が下級生なのは誰にも分るのだ。だから、会長は急かせるような合いの手も仕草もしなかった。
「えっと」
速水は一瞬前までの勢いが嘘のように急に落ち着きをなくした。体を揺さぶり、視線を泳がせ始めた。逡巡というよりはためらいだった。どのように言ったら分かってもらえるのだろうかという。
「私は陽キャじゃないです」
簡易短文にした割には、会長はキョトンとしているし、副会長のキーボードを叩くスピードが鈍化した。
「ああ、あの、そのですね、とはいっても陰キャっていうのも否定しているんですけど」
慌てて追加説明をするものの、やはり輪島の眉はひそみ、須田の手はすっかり止まってしまった。
沈黙。正確に刻まれる数秒が十数分の体感。アインシュタイン先生の相対性理論のおかげで、須田はハタとしてキーボードを叩くと、
「会長、これを」
ラップトップを輪島の前に置いた。
「ああ、なるほど」
輪島はすぐに納得した様子で、速水を見直した。射貫かれたように姿勢を直す速水は一つ唾をのんだ。
「交遊に関する条項にわだかまりがあると言うことね」
「わだかまり、かどうかは知りませんが、要望と言うか相談と言うか愚痴と言うか。普段の学校だと他に人がたくさんいるから出入りを見つかったら面倒だしと思って一学期過ごして周りも結構まとまるとことはまとまってるから、かといって私みたいなのはそう前向きになれないって言うか、交遊を義務にされてもそんな気が起こるようなそんな男子見当たらないし」
徐々に声が小さくなっていく。というよりどこかとげとげしくなっていった。体がすでにまた揺れていた。
「そういう意見、少なくないわ。生徒からも教員からも、それに保護者からも。でもね、不純異性交遊の禁止が実施されておきながら隠れて交際していた、ってのはすでに校則ひいては法を逸脱しているわけ。そういう精神を今のうちから容認されるから後々までこれくらいならっていう身勝手な妥協点の先延ばしを繰り返すわけ。だったら、違法の精神を育まないようにしなければならないってのが趣旨の一つなの。ね、そうよね。友和」
急にパスを回され、輪島の横に立っていた須田は眼鏡をクイと上げて、「ええ」と短く相槌をするだけだった。
「いや、理想は分かりましたよ。でも、それを押し付けられてもって話なんです。恋愛とはそういう気にならないって言うか、こういう余計なストレスかけてほしくないって言うか」
「さっきから聞いていると、クレームを吐きに来たとしか聞こえんのだが」
体をゆすっていた速水は文字通り上から目線で正論を突き付けてきた須田を睨もうとした。視線が合った。すぐにため息をついて上がろうとしていた目じりを下げた。
「分っかないんですよねえ、こういう気持ち。もう相手がいる人は」
「は? 何を言い出す」
速水の他意のないボヤキなのに、須田ときたら急に狼狽した。
「だって、会長と副会長って付き合ってるんじゃないですか? さっきだって私のこと阿吽の呼吸で見抜いてたみたいだし」
「な、何を言う。わた……いや、そうではない。会長には別の男子がいる」
早口で説明をしながら、言い切った割にまさにブームランが鎖鎌となってその刃先が胸に突き刺さってきて、今にもどうにか体を支えたいのだが、それを必死にこらえる理由は副会長としての体面を保持しなければならないと意地になっていたからである。
「え、そうなんですか」
今度は爛々として会長を凝視し始める一年生に、
「そうよ」
会長はあくまで先輩としての余裕の体を崩さなかった。
「誰、誰なんで? 会長を落としたって男子。あ、でも名前言われても私分かんないかも。いや、いいや。何年なんです、会長」
矢継ぎ早な早口は自分のことを棚に上げてを体現しており、輪島にとっては有難迷惑以外の何物ではなかった。
「いい加減にしなさい。会長が迷惑しているだろう。詮索よりも君自身のことが主題だろう」
須田にたしなめられたのが気に食わないが、かといって的外れに論破されたわけでもない。速水とて打開しないと気が済まない、そんな気になったからこそこうして生徒会室に乗り込んできたのだ。とはいえ、癪に障るものは障るのだ。
「会長には謝ります。すいませんでした」
副会長をアウトオブ眼中にするくらいしか反抗は無理だった。口が達者なわけではないのだ。ましてや、この上級生に及ぶほど学力が優秀であるとの自負があるわけではなかった。二人が学年トップクラスなのは一年といえども数か月通っていれば聞き及ぶのだ。
須田を見上げる輪島は、クスっとして口元を抑えた。
「ごめん、友和。でも、なんて顔してるの」
須田としては下級生にあしらわれたごときで気分を損ねるはずはないのだが、思いのほか顔にでも出ていたようだ。それもかなりむっすりしていたらしい。言われて頬がひきつり始めた実感が出てきていた。両手で両頬を叩いた。
「副会長、ウケる」
若干赤くなった頬を指さして速水もケタケタと笑い出した。いたたまれないのは須田である。が、逃げ出してしまえばプライドを傷つけられた副会長なんていう望まないレッテルを張られ、今後の活動に後ろ指さされかねない。となれば、職務をつつがなく執行なければならない。
「それで君は具体的に何を希望しているのだ」
振り出しに戻すことにした。これ以上愚痴られないためにも解決のベクトルを向ける必要がある。
「うーん、具体的にって言われると」
祭りの騒ぎは突如神妙に腕組みをし出した。策は成功のようである。
「交際したいと思うような男子はいないわけね」
「はい、クラスには。他のクラスの男子はそんなに知っているわけでもないし、ましてや先輩はそんなに」
須田を見上げる。副会長が開いた画面には、速水が部活動にも委員会にも入っていないデータが書かれてあった。つまりは彼女には速攻で使えるネットワークが手近にないのである。どこかに入部を進めるにしても、夏休みである。今更感は否めない。急がなければ夏休み明けに集団へと提案してみることができる。が、それならば彼女が今の時期に来る必然性がなくなってしまう。少なからず速水という女子は夏休みという期間が気になるからわざわざ来たはずだ。
「友和、案はいくつ出来た?」
副会長をおちょくる女子の目に不安の影がちらつくのを、会長は見逃さなかった。
「二つです」
「え?」
須田を見上げる輪島の目にはどこか血色ばんでいた。
「はい。一つ、彼女のタイプを聞いてデータベースから該当する男子を選ぶ。二つ、夏休み明けに部活または委員会へ推薦する」
「それだけ?」
「あの、会長?」
一年生が血相を欠くくらいに輪島の声は怒気をはらんでいた。
「はい、以上です」
須田は平然と答えた。輪島が考えたのは三つだった。須田が残り一つを考えないわけがない。それなのに、須田はもう案はないと返答をした。それが輪島には腹の虫がおさまらない気持ちにさせた。
(いや、非難しても)
難しい顔をしてから輪島は、
「速水さん、夏休みのご予定は?」
あまりにも作った笑顔をした。一年生がドン引きするほど。
「え、あ、はい……、えっと、……特にこれっていうのは。友人からお誘いがあればどっか行くかもしれませんが。あと、宿題ですかね。早く片付けようとも終わりごろいっぺんに仕上げようとも思ってなくて、朝起きた時のその日の気分次第かなと」
「分かったわ。その気分とやらで気乗りしたら、また来てくれるかしら、ここに」
「邪魔、じゃないですか?」
「最初にも言ったけれど、生徒の相談には極力乗るのが生徒会だから。そうよね、友和」
名の呼び方が実に鋭利だ。先輩をおちょくっていた女子も視線をやたらに会長と副会長とに行ったり来たりさせる始末。
「その通りです、会長」
腑に落ちないながら、輪島に同意する。
「速水さん、あなたが次回に来るまでにこちらでも具体案を練っておくから」
輪島は早くに言うと席を立ち会長の席のパソコンの電源を落とすと鞄を持って「お先に」と生徒会室を出て行った。
「あの……」
間をどう繕っていいのか見当がつかないのは一年生である。明らかに不機嫌になった生徒会長はもういない。先ほどまでいがみ合っていた副会長も困り顔で頭を抱えている。
「ああ、すまない。今日はこれで仕舞にしてくれないか」
懇願であった。
「いや、それはいいんですけど。解決なんて想定してなかったんで。それより、大丈夫なんですか? 会長、えらいお冠でしたけど」
「君が気に病む必要はない」
須田は副会長の席に戻って行ってしまった。
「えっと、じゃあ。失礼しました」
もう速水は退出するしかなかった。
一人になった生徒会室。速水さほりからの相談を作業日誌ファイルへキーボードを叩いていく。書き込んで行き、途中で手を止めた。鞄からスマホを取り出して、LINEグループを開いた。が、すぐに閉じ、メール新規作成をし始めた。「会長、先ほどの件ですが」そこまでタップして指が止まった。
「あれはいかんやつだな、久しぶりに」
スマホを閉じた。体を反らすように頭を背もたれへともたげた。天井が見えた。冷え切った氷の壁に見えてしかたない。輪島がキレたことをこれまで二回見たことがある。これで三回目だ。輪島との接触の延長上知り合った先輩から聞かされたことがある。幼馴染の彼女でさえ一度しか見たことがないとのこと。となれば、須田は稀有な状況を目の当たりにしていることになる。原因はすべて自分にある自覚がある。これまでの経験上、こちら側から問うのは火に油を注ぐことになる。過去二回は他にも人がいた。しかも、馴染みのある交友関係。うまいことなしてくれたのだ。今回は違う。一年生などしかも初対面の下級生がいたところでどうにもならない。つまりは須田自身でどうにかしなければならないのだ。
「つってもなあ」
持たれた姿勢のままスマホを持ち上げる。画面をタップする。アドレスから何人かの名前が3Dの凸になって目に入って来る。三年生の男子や女子、同学年の女子。輪島ととりわけ距離感が良い感じの生徒だった。もちろん、輪島の幼馴染の名前もある。別の高校だが、同じ中学のよしみで連絡先は教えられていた。
(いや、状況的に説明が難しい。それよりも)
心当たりがないわけではない。だからこそ、これは自分で解決するしかない。それに、この件で詳細に簡明にフォローを求めたとしたら、そのこと自体が輪島をさらに激怒させかねない。
重い息を鼻から吐いて姿勢を直した。気を取り直して業務日誌の続きを打ち込もうとすると、スマホが鳴った。メールだった。動悸が落ち着かなくなった。部屋をあちこちあてどもなく彷徨しながら読んで気を抑えたいくらいだった。輪島からのメール。もう一度深い呼吸をしてから、開いた。
「ああ、どうすっかなあ」
ボヤキながら「分かりました」とだけ返信をした。輪島のメールにはこう書いてあった。「私にも考えがあるから」
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