第二章 その1

 夏休み初日。輪島はため息をついた。午前十時に生徒会室に入ると、

「寝なって言ったよね」

 後輩の副会長が自席で業務に勤しんでいた。

「おはようございます」

 一瞬だけキーボードを叩く手を止めて顔を向けた。

「ちょっと、隈ひどくなってない?」

 覗き込むようにしてくるものだから、慌ててパソコン画面を見直した。

「あきれるわね」

 会長席に腰を掛けて、パソコンの電源を入れる。起動するまでに出た言葉がそれである。須田に返答はない。

「ま、予想外というわけでもなかったのだけれども」

 もはや諦念と大差ない。返答は乾いた笑いだけである。

 生徒会長、副会長が各々の業務を自席で整えてしばらくして、

「ところで、友和」

 手を止めさせた声は職務執行のそれと同じだった。平素と変わらぬそれには、気づまりな雰囲気を打開させようとするコント的間合いや恋バナに興じる思春期真っ盛りな好奇心などはまるでなかった。だから、須田はいつもと同じようにどんな業務が割り当てられるのだろうと顔を向けると、

「あなたは誰と交際するつもりなの?」

 屈託のない問いだった。頭が真っ白になったなんてことは、須田にとって物心ついて以来、初めての経験となった。

「一通り業務がすんだらかと思っていますが」

「一通りって。いつなのよ、それ」

「それは……」

 言葉を失う、という通過儀礼経験も今済ませてしまった。

「それこそ猶予期間ということで。先生方にも納得していただける資料を作成した後にでも」

「秋過ぎるんじゃない? そんなことしていたら」

 生徒会が取り仕切らなければならないことは、当然新規の制度ばかりではない。すでに体育祭は終了しているがその準備はまさに目が回るほどだった。秋には文化祭がある。生徒会活動ではないが、二年の須田には修学旅行もある。浮足立つというか行事目白押しで多忙は確実なのだ。その間にもあの条文に関する風紀がつつがないと報告しなければならない。若人の交際にお墨付きを与えてしまった改正校則にいまだ不安や懸念を抱く教員はいるのだ。手抜かりはあってはならない。となれば、この改正を主導していた本人がそれから零れ落ちるなど本末転倒と輪島があきれる訳である。

「隗より始めよ、じゃないの、こういうの」

「はあ……」

 まさにその通りなのだ。なのだが、隗より始める前にすでにイカのようにフニャッとするほど玉砕しているのであるから、始めようない、とは口にできない。よって、曖昧な相槌にしかならないのも致し方ない。ないのだが、システムがすでに稼働している以上まさに率先する生徒会が反故にしてもならない。会長はおろか、すでに会計も書記もこの新規条文を遵守しているのである。いつまでも副会長だけが実務を言い訳としておろそかにしていい改正ではないのだ。須田の決断は諦念の裏返しだった。

「分かりました。新学期開始時に生徒会役員が制度の鏡となっておりましょう」

「猶予期間の前倒しってことね。まあ、それこそ夏休みなんだから登校ないから生徒たちの模範もへったくれもないからね」

「そういうことです」

「でも、友和。夏休み中にってのも結構制限かけちゃったね、私が催促したんだけども」

 自身の言葉がブーメランとなって帰って来るので輪島は肩をすくませた。発破をかけた割に、まさに夏休み中というのは校内での接触が限りなく限られてしまう。部活や委員会の掛け持ちをせず、副会長の業務に専念する須田にとっては学級委員に伝達する時とかにしか他の生徒との接触はない。新制度に則って交際を報告しに来る生徒はまさに交際始めたので出会いには入らない。では須田のクラスメートという基本的テリトリーに焦点を当ててみれば、彼以外はすでに手続きを終えている。高二にもなれば人間関係の手触りを一年間すでに過ごしており、その交友関係のネットワークを駆使する知恵の一つや二つは持っている。だから、これも予想していたことではあるが、二年生と三年生の申請は割かし早く、一時期にそのスピードは鈍化したものの一年生と比較すれば順調と言って良かった。結果、その作業に人一倍従事していた須田は余り者となったのである。その状態で夏休みの期間で、というのは実はハードルがそう低いわけではなかった。一言でまとめれば、出会いがない、ということである。とはいえ、中学以来のこの後輩が何の展望もなく期間を自ら変更するなんてことはありえないことで、その策が何なのか見当もつかないため、

「先輩としては力不足を感じるよ」

 陳謝の色を滲ませて頭を下げた。

「そんなことおっしゃらないでください。むしろ……」

「ん?」

 言葉が続かないので確かめるように後輩の顔をうかがう。が、彼はパソコン画面よりもずっと遠くを見つめているような、それでいて何も見えてないような視線だったので、それ以上問うことはできなかった。

「会長にご心配おかけしました。すいません」

 ブラックホールから我に返ったような感じで、須田は輪島へ向き直って頭を下げた。

「うん」

 否定はできなかった。フォローもできなかった。ただ須田からの謝罪を承る、そんなことしかできなかった。

 生徒会室にはしばらくの間エアコンの冷房の音だけが鳴っていた。

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