節制は技を拒絶する
冬の朝は白く、空はまだ青ざめていない。
普段であったら鳥のさえずりのひとつでも耳に入るというのに、その日に限っては異様なほどに静けさを誇っていた。
「なるほどなるほど……強きをくじき、弱きを助ける……上等な倫理観をお持ちなことで」
あからさまに嘲りをまぶしながら、男は大きな黒い翼をバサリと羽ばたかせながら飛んでいた。真っ白なドレスコートに真っ黒な翼。異様な組み合わせであった。
本来、【世界】のゾーンは強固であり、もしそれを砕けばたちどころに本人に反動が返り、その分侵入者の存在を知らせて臨戦態勢に入るというのに。【世界】のゾーンは「溶けて」いた。
羽ばたく男が飛び立った先には、学園アルカナの貯水槽があった。
「……戦争ごっこのため、偉大なる五貴人様は、弱きを守るために正面、後方、避難場所に布陣を施したということか……本当に立派なもんだな」
男は自身のカードフォルダーを取り出した。
【技】と書かれたそれに触れると、カードから壺が出てくる。ちょうど【節制】の持つエリクシールを含んだ壺のようなそれを、貯水槽に傾けた。
「楽なもんだな。これで学園アルカナにいる人間は全滅。責任問題は学園運営サイドに、【世界】にほっかぶせられると」
「……ええ、あなたのことですから、そんなことだと思っておりました。お兄様」
「おう?」
パサリ……と羽ばたきの音が響いた。男のものではない。
真っ白な天使を思わせる羽で飛び交ってきたのは、アセルスであった。彼女は自身のカードフォルダーに触れ、カードから壺を取り出すと、それを貯水槽に傾ける。
「あなたのことですから、学園全域を毒で鎮めようとすると、そう思っておりました。わたくしがわたくしたちのリーダーに進言しましたの。毒の対策はわたくしに任せて欲しいと」
「ほう? プレセペ財団の分家のお嬢ちゃんが、本家の私に指図すると?」
「馬鹿にしないでくださいましっ。あなたがとっくの昔に廃嫡されていることは知っていましてよ!」
普段であったら、アセルスはおっとりとした口調で話すが、男に向けてはあからさまに口調に嫌悪が入り交じっていた。
男が壺から出したものは、毒であった。
同じエリクシールでありながら、強く濃くなればそれは毒になりえる。
アセルスの持つ壺からエリクシールで毒を相殺しなければ、それを飲んだ人間は体内の魔力に変調をきたし、たちどころに死に至っていただろう。
心優しいアセルスは、自身のアルカナから得られるエリクシールを、本当に困っている人がいたら無償で振る舞う。
だが、【節制】から魔力の続く限りに無限に生成できるエリクシールは、行使者によっては莫大が財と虚栄心を与え、自分自身がその欲に溺れないように心がけなければ、たちまち破滅する諸刃の剣であった。
アセルスは分家の娘でありながら、プレセペ財団の精神であるノブリス・オブリージュ……眉ひとつ動かさず貴族として当然の行いをなすこと……を心がけていたが、この本家の男は違う。
アセルスの言葉に、男はあからさまに機嫌の悪い顔をし、貯水槽に傾けていた壺を傾けるのをやめると、その壺でよりによって彼女の頭を思いっきり殴り飛ばしたのだ。途端に彼女は平衡感覚を失い、その場に崩れ落ちる。
男は彼女に馬乗りになると、なおも壺を振りかぶって、彼女を殴り続ける。
聞こえてはいけない音。衝撃。アセルスの美しいかんばせは血に塗れはじめた。
「本当に心からのいい子ちゃんだなあ、アセルス? このアートお兄様によくもまあ、そんな口が聞けたなあ? ああ?」
「ぐっ……ううっ……うっ……」
鼻の奥が折れたのか、血が流れて止まらず、彼女はなんとか起き上がって貯水槽にエリクシールを流し込もうとするが、なおもアートの暴力を受ける。
「五貴人はいいよなあ……もう誰もあれを崩そうなんて愚か者はいやしねえほどに高みにいるのだから、いくらでも綺麗事が言える……皆仲良くしましょう、皆隣人には優しくしましょう、強きをくじき弱きを助ける人でありましょう……くっだらねえなあ!?」
血塗れのアセルスの前髪を、頭皮が引きちぎれんばかりに掴むと、アートは彼女に吐き捨てる。
同じ赤い髪、オパール色の瞳にもかかわらず、アセルスの浮かべる表情は苦悶で歪み、対するアートの浮かべる表情は狂気でねじ曲がっていた。
「強いものがいくらでも強くでなにが悪い!? 弱いものは淘汰されるためにいるんだよっ! 弱かったら死ぬし、それが自然界じゃあ当たり前だろうが! 私が力を得て、それを力持つ者として使って、それのなにがいけなかった!? なあ、言ってみろよ……!!」
「……お兄様……わたくし、その考えには……賛同できません……うう……ぐぅ……」
痛みで顔を引きつらせながらも、アセルスは必死に否定する。
「お兄様が廃嫡されたのは……お兄様の売り払うエリクシールが違法だったからですわ……お兄様のつくるエリクシールは……濃過ぎる……あんなもの、飲んだら死んでしまいますもの……」
「知ったような口を!」
アートはアセルスの前髪を離すと、床に叩き付ける。アセルスは痛みで再び悲鳴を上げる。
「ああ、そうだ。私は選ばれた人間だった! 選ばれた人間が下々を踏みつけてなにがいけない!? プレセペ財団だって、この国に金の管理のための機構だ! それらから搾取してどうしていけない!? この国は変わらないといけないんだよ! 黄金の夜明けのためになあ……!?」
「……くだらぬことを言うでない。持てるものが義務を背負わず、なにをほざくと言うのか」
「はあ!?」
貯水槽には、もうひとりいた。
アセルスは鼻からも口からもダラダラと血を流しながら、声の主のほうを見た。
「……アルさん」
「しゃべるでない。我らが仲間、返してもらうぞ」
「なんだ? 五貴人の先兵か?」
「……ふん。くだらぬ。肩書きばかり偉くて、口先だけで権利を主張するたわけに語る肩書きなどある訳なかろうよ」
アルは淡々と毒を吐きながら、自身のカソックの上着を脱ぐと、血塗れのアセルスに被せた。
「今は止血できぬ。それでも被って下がっておれ」
「……アルさん、わたくしは」
「あまりしゃべるな。下手に血が固まれば気道が詰まるぞ」
ピシャリとした物言いでアセルスを黙らせると、アルはカードフォルダーを取り出した。
「ふん……ここに君が来るとは、預言にも出てなかったんだがなあ」
「残念よな。こちらには預言に精密予知できる機能が備わっておるし、預言だけで感情は読み解けまいよ」
「たわけたことを……!」
アートは壺の水を噴き出した。
アルは目を細めて、カードフォルダーを構える。途端にアートの水はピシャンと床に流れた。アートは戸惑った顔で自身の壺を眺めた。
「おい……なにをした?」
「【技】が【節制】とアルカナの力がほぼ同等だと、既に知っておる。ならば力を止めればよかろうよ」
「……そこまで読んでおきながら、どうして私とアセルスを放置した?」
「あれが従兄と話をしたいのならば、時間を与えるのが仲間であろうよ。こちらとて、大切な者をむざむざ殺されるつもりはなかったがのう」
アルは黙ってカードフォルダーに触れ、カードから鎌を取り出して構えた。
「……少々お痛が過ぎたようだな。エリクシールだけにかまけていたのが、そちの敗因であろうよ」
アルは鎌をブンッと一閃させると、アートの黒い羽の風切羽を切り落とした……風切羽を切られてしまったら、もう飛ぶことができない。
「まっ、待て! 【黄金の夜明け団】の話をするから……だから、見逃して……」
「ならぬものはならぬ」
日頃、カウスの傍で嫌みな言動をし、心底五貴人に皮肉を込めた口調でしゃべる彼とは思えないほど、きっぱりとした言動だった。
鎌はアートに一閃した。
「アルさ……駄目!」
「殺してはおらぬよ。我はそちの嫌がることはせぬ」
アルは淡々とした表情で振り返る。
アートは斬られると思ったショックで気絶をし、真っ白なドレスコートは、彼のアルカナカードの水以外のもので濡れていた。
「従兄と話がしたかったから、カウスに言ったのであろう? あれと話をさせてくれと」
「ええ……全然駄目でしたが。話が平行線のままで」
「驕った人間は、そうなるだろうがな……まさか、五貴人の連中のほうがまだマシだと思う日が来るとは思わなんだが」
「ですけど、アルさんも今は五貴人でしょう?」
「我はただ、現状の空白を埋めてるに過ぎんよ。我は既にお払い箱ゆえな」
アルは黙って屈むと、アセルスに肩を貸した。彼女はアルの上着を着直しながら、大人しく彼の肩を借りる。ヒョコリヒョコリと歩きがおぼつかないのは、何度も頭を殴られたせいで、未だに平衡感覚が麻痺しているからだろう。
「時期にここに生徒会執行部が来る……他も戦場になるゆえ、治療はしばらくはお預けだがな。今は【審判】も留守ゆえな」
「仕方がありませんよ……皆さんお忙しいですし。わたくしが皆さんにエリクシールを配れないのが申し訳ありませんが」
「なに、気にするな。今回はそちの力は借りなくてもよい……きゃつらは充分強い」
既に馴染んだ空気であった。
革命の最中、互いに出会い、互いに命を賭けた。
アートの言うほど、革命ごっとなんて生半可なものではなかった。少しでも力を抜けば、誰かが死んでいた……それこそ、死ぬのは自分だったかもしれない。あの革命に関わった者たちがひとりも死ななかったのは、ただ運がよかっただけだ。
ただ知識で自身の立場と権利を主張する者と、学園内で起こったとはいえど既に革命の重みを知っている者。
既に命の重さを知っている者たちが勝った、それだけの話だ。
****
【技】
・壺の召喚。その壺を満たしている水はエリクシールであり、飲めば体力魔力が回復する
・水の使役
・背中に黒い羽を生やして空を飛ぶことができる
*ほぼ【節制】とアルカナの内容は変わらない
*アートの創り出すエリクシールは濃過ぎて、麻薬と変わらなかった。それを売って財を得た結果、プレセペ財団の本家を怒らせて廃嫡となった。
*彼が【黄金の夜明け団】に寄付していたのは、彼のつくったほとんど麻薬のエリクシールで得た金
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