第2回 嘘の書き方

 物書きは基本的に嘘つきです。

 でもそれは、人を幸せにする嘘です。

 当方は別の意味で嘘つきです。

 何故なら「何でやねん!」と突っ込んで欲しいからです。そう、関西人なのです。

 なので当方と会話をされる人は、関西圏以外だと高確率で気分を害されます。あるいはこちらが黙ってしまうので会話が薄くなります。そう、国見はコミュ症なのです。

 置いといて。

 そもそも嘘ってなんなんでしょう。

 架空であること?

 現実とはそぐわないこと?

 当方はあえてこう表現したいと思います。


 あなたにそぐわないこと。


 あなたがそれを嘘ではないと言えば嘘ではなく、それは嘘だと言えば嘘になりえます。

 そう、嘘はあなたが作るのです。

 となると、作家が提示するフィクションや他人が仕立て上げた虚構は、人によっては事実になるし、捉え方によっては事実こそフィクションになることもありえるかもしれません。

 それでいいと思います。

 目の前の事象が、それを見た人にとって信じる信じないを議論することの無意味さを、果たしてどれだけの人が無価値であると言いきってきたでしょうか。

 端的にいれば霊の存在がそれにあたるかもしれません。

 科学的根拠に基づいた霊の存在証明は、いまだに示されていません。少なくとも当方はそう思っています。

 でも、いると思った方が見識が広がるのは事実ですし、ほとんどの人たちが霊の存在を認識していないにも関わらず、霊があたかも存在しているかのように話をしても通じるのが大多数の意見です。

 一見するとおかしいように見えますが、これは我々が知的生命体であるために生まれた、精神的な安定を欲するバイアスがかかっているためだと思います。多くの別の人間と共に生きるために、あると証明されていなくてもあるという群衆グループに所属する必要がある、所属することで安心する、という意識の方向性がその存在の偽認識を可能にしているからと思っています。要は村八分になりたくない、的な。

 では、小説などの世界における嘘とは何でしょうか。

 もちろん、すべてがそうです。史実本や日記を除いて、多くの物語は嘘です。嘘なのに、誰も怒りませんし、むしろ楽しく読むことの方が多いです。

 でも読み手はそれを歓迎します。嘘であることが楽しいからです。嘘でよかったと胸をなでおろすからです。極悪な意思の矛先が自分でないことに安堵するからです。つまり、嘘を嘘だと読み手が受け入れているからです。

 もしも、嘘と現実の境目がまだ明確につけることができない(サンタさんはいるんだ! という純粋な心を持つ少年少女のころを思い出してください)時期に、人の心に存在する悪意がある日本当に世界を破滅に追いやる組織によって目覚めさせられ…… などの現実的な陰謀論をテーマにした本を読んで感化されたなら、本気にするかもしれません。

 本来はそう言うことがないように、読者に年齢制限を持たせたり、表現にいくらかセーフティをかけて濁したりするものですが、本当に面白い作品と言うのはえてしてそう言った安全装置なんか存在しません。読者にダイレクトに悪意を注ぎ込み、文章で傷口を抉り、脳を溶かし、場合によっては本編が終わってもなんら解決を提示しないなど、本当に読み手を不快にさせるものもあるでしょう。

 何故ですか?

 何故、嘘と分かっているのにそんなに心を動かされるのでしょう。

 嘘ですよ、それ。


 人間の脳は非常によくできており、単純な単語をそのまま理解するだけでなく過去の自分の経験などと紐つけることが多いそうです。

 例えば、リンゴ。

 そう聞いて、赤くて、丸くて、かじることができて、しかも味が美味い。中身は白くて、果汁が滴り、さらにかじると種が出る。

 リンゴ、という単語でここまで頭の中の引きだしから瞬時に呼び出されます。

 ですが、もしもかじったことのない人にとっては、またはリンゴを皮がある状態を知らない人にとって、いくつかその情報の共有がされない事象が発生します。

 さらに言うなら、赤くて丸くてかじると美味いものを手にしている…… などと書いたとして、引きだされた情報からリンゴを連想する人と、サクランボを連想する人と、その情報量が多いからこそ発生する齟齬もあり得るでしょう。

 つまり、文章から引きだされる認識情報は、人によって違うということです。

 例えば、あるキャラクタが主人公を裏切る展開の小説があったとします。

 ある人は、これをまた共闘する展開がある、と読み下します。また別の人はもうこのキャラクタは出ないな、と読み取る人もいるでしょう。これはどうしてなんでしょう。

 大きな理由として、それぞれが読んできた他の作品の傾向や、裏切る前の展開で似たようなものがあったりするでしょうが、恐らくその展開を予想した一番の理由は「自分がそうだと思った」からでしょう。

 この言葉を文面通りに読まないでください。

 つまり、読み手の過去の経験(現実・虚構関係なく)から、このキャラクターはこうなる、というのを感じているのです。読み手の脳が話の展開の先を読んでしまっているんです。

 ただ、ここまでは「ありえる話」なのです。まだ読み手の中では嘘であろうが本当であろうがどうでもいい展開なのですから。

 その先の展開は様々です。パターンも色々あるでしょう。その数だけの王道展開や別の方向性を模索し続けた作家の皆さんの苦労があるわけで。

 そして、その数だけ読み手が納得した物語や受け入れられずに叩かれた物語、果ては闇に葬られた物語があるのです。

 ただ、一番の問題があります。

 それらのフィクションを「嘘だと受け入れられなかった」読み手が生まれてしまう、ということです。


 さて。

 最近のラノベでは異世界ものが非常に多いです。

 別に最近でなくとも、異世界が登場する物語はとても多く、何より自分の存在する世界とは別の次元に世界がある、という考えは非常に興味深く、また科学的根拠もないのに思いを馳せるのは、人間ならではと言ったところでしょうか。

 ですが、当方はこれをただの妄想と片づけるのはもったいないと感じます。何故なら、とある有名なSF作家がとても興味深い一言を残しているからです。

「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」

 海底2万マイルなどを手掛けた、19世紀のSF作家ジュール・ヴェルヌが語ったと言われています。

 はたして、異世界に行くことはできるのか、はたまた、異世界は人の手で作られる別の楽園になりえるのか……

 今回はこの辺で。

 ありがとうございました。 

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