ep.2 夕焼け色の海



「よし、それでは作業開始!」


 チェック柄のベストを着た大柄の男が、一際大きな声で言った。彼のまわりに集まっていたものたちは、それぞれの持ち場へと向かい歩き出した。ついにこの時が来たか。

 時刻は午前八時半。図書館が開館するにしてはまだ早く、館内を動き回る職員たちも不必要に多い。おそらく現在、建物の入り口には、休館中の張り紙が掲示されているはずだ。


「田中、ここに置いてあったバーコードスキャナーはどこだ?」


 小太りの男が、眉間にうっすらしわをよせながら振り返った。その声に、近くの本棚の前で身体を屈めていた細身の男が小さく肩を震わせる。


「え、昨日の夜は、たしかにそこにあったんですけど……」


 おどおどした細身の彼——田中の口調に、小太りの男の眉尻がぐぐっと吊り上がる。

「『昨日は』だろ?でも、見ろ。今は、その影も形もないじゃないか」


 鋭い眼差しを突きつけられた田中は、口をへの字に折り曲げてスキャナーを探しに行った。小太りの男は「フン」と鼻を鳴らし、小脇に抱えていた紙の束へと視線を落とした。


 弱気な田中を、小太りの男——本田という——彼がいびるという見慣れた構図

だ。どうしても本田が嫌なやつに見えてしまうが、ずぼらな田中にも相応の非がある。

 むこうのほうから、白い棒状の機械を抱えた田中がよたよたと戻ってきた。本田はそれを雑に受け取り、本棚へと向き直ってスキャナーの先端から赤い光の照射を開始した。ピッ。ピッ。と、耳障りな機械音が鳴り響く。


 現在、この図書館は年に一度の蔵書整理真っ只中である。二週間ほどの時間をかけて、棚に仕舞ってあるすべての書物を点検する期間だ。積もったほこりを箒で払い、背中のバーコードを読み取り、実際とデータ上との齟齬をチェックする。これらの作業を行うために、図書館には一定期間、利用者は訪れることが出来なくなるのだ。


 本田は、私がここに居付きはじめてからまもなくやって来た。彼もその頃は小柄で幼い顔つきをした青年だったが、今ではシャツの腹回りにしわが入る立派な中年になってしまった。

 人当たりは、決していいとはいえないが、仕事に対する熱意はたしかだった。勤務に遅刻したことは一度もない。まわりで人が見ていなくとも、仕事に手を抜かない、そういう男だった。ちなみに、まだ、独身のようだが。


 ピッ。

 ピッ。


 さんざん耳にした電子音が、徐々にこちらへ近づいて来る。本田が数歩、横にずれる。手元のリストを眺める。


 ピッ。

 ピッ。


 本田がやって来てから二十数年。私は、この図書館から一度も外に出たことがない。ただの一度も。

 そういう奴がどのような運命を辿るのか。ここに長く居れば、その答えは自ずとわかってくる。


 手に持ったはたきで、本田が私の頭を軽くなぞった。一年分のほこりが宙を舞って、空気中に霧散していく。マスク姿の本田は、再びスキャナーを握る。


 ピッ。

 ピッ。


 真っ赤なライトが降り注ぐ。一定のリズムで繰り返される、乾いた響き。

 本田は、私の手前で、スキャンの手を止めた。

 再びリストを確認する本田。こちらに視線を戻すと、色白い手を伸ばして、私を棚から引き抜いた。床に置かれていた黄色にプラスティックのかごに、私をそっと移す。


「除籍本」


 そう赤い字で書かれた紙が、かごには貼り付けられていた。




     ◇◇◇




 その後、同じように黄色いかごの中へ入れられてしまったあわれな書物たちとともに、私はダンボールに詰められた。蓋が閉じられると、中は真っ暗になった。数日の間、そのまま放置され、そして今朝、外のようすが慌ただしくなった。いよいよだ。


 何人もの手を渡り、私たちは長い距離を移動したようだった。箱の中が何度も揺れて、ようやく落ち着いたと思ったら、今度は地響きに似た轟音が聞こえて来た。この音を耳にするのは、いつ以来だろうか。私はトラックに乗り、このまま焼却場へと運ばれていく。クラクションが短く鳴り、重力に身体が引っ張られる感じがした。車が動き出したようだ。終わりの刻を実感して、私は私のことを考え始めた。私が、何者だったのかを。


 自己紹介が済んでいなかった。私の名前は『おまぬけ殺人課長』だ。もう何年も前に非常にマイナーな出版社から刊行された、まったく売れないミステリ作家の処女作だ。私自身、私を読み応えのある作品だと思ったことは一度もない。これは決して謙遜ではない。


 私がいた図書館には、私の兄弟と呼べるものたちが十冊ほど住んでいた。あの作家の作品が十冊も集まるようなところは、世界中を探してもおそらくあそこくらいのものだろう。とはいえ、およそ二年に一人やって来る同胞の存在は、何物にも代え難いものだった。


 しかし。

 数年前から、新たな仲間が訪れてくることはぱったりとなくなった。

 一年前。仲間たちの半数が図書館からいなくなった。私は悟った。そのような現象には、見覚えがあったからだ。同じようにして図書館から消えていったmkのたちは少なくなかった。

 私は、自身の生みの親の死を、確信せざるを得なかった。


 私たちの身体に利用者の手が触れることは全くなかった。そんな書籍は、常に司書が持つ除籍リストの筆頭だ。作者が死ねば、私たちの存在が日の目を浴びる可能性は、ほぼ潰える。誰にも読まれない本を、いったい誰が残しておくというのか。

 死は連鎖した。仲間の数はどんどん減っていき、そしてとうとう、私だけになってしまった。平井次郎による『おまぬけ』シリーズ。彼の処女作であるという情けで、私だけが生き残った。幸い、一人きりでいる時間は、短く済んだが。


「次は古本だ。重いから気をつけろよ」


 突然天井が開いた。全身が光を浴びる。外は騒がしく、頭上をさまざまな物音が飛び交った。

 まばゆい光の中から、ごつごつとした手がにゅっと伸びてきた。手は私の左隣で震えていた図鑑を容赦なく鷲掴みにし。乱暴に引っこ抜いた。箱の外から、悲鳴が聞こえた。


「ぎゃあああああああぁぁあ!熱いいいいいイイイイィィ……!」


 私は、ゆっくりと目を閉じた。この世界に生まれ落ちた時から、こうなることは決まっていたのだ。ここに至るまで、むしろ遅かったくらいだ。そんなことを考えながら、深呼吸する。少しして、私の身体も、がっちりと掴まれた。カビくさい段ボールの中から抜き取られ、私の身体は放物線を描いた。着地し、背中に痛みを覚える私を、異常なほどの熱気が襲ってきて、あっという間に全身を包み込んだ。


 厚い表紙に挟まれた本文が、なす術もなく溶けていく。痛みを感じる暇もないほどの速度で、私のかたちが失われていく。ふん。私は、さっきのような図鑑風情とは格が違うのだ。所詮、奴らは五年やそこらで御役御免となる存在。私のように、何十年もの間、しぶとく日陰に住みついていた、強者……とは、年季が……違う、の、だ……。


 ……。




     ◇◇◇




 夕焼け。

 クリーム色の砂浜に、ゆるやかな波が寄せては返しを繰り返している。

 海岸線沿いを、黒いスカートを翻して歩く女がいた。


「そろそろかな……」


 彼女は懐中時計から目を離すと、海の向こうを見た。

 赤い瞳。黒のショートヘアー。白いブラウス。黒い革靴。海へ遊びに来るには、少し不便そうな装いだった。


 波の色は、空を映したように澄んだオレンジ。おだやかな高さの海。砂浜から数メートル先で、なにやらぷかぷかと漂っている物体を、彼女の眼が射止めた。


「きた!」


 女は小さくつぶやき、波打ち際に駆けよる。のんびりと波に揺られてやってくるそれを、彼女はじっと待った。

 やがて足元に漂着したものは、厚い装丁の本だった。海から波が伸びてきて、黒い革靴のまわりを濡らし、帰っていく。女はしゃがみ込み、色が濃くなった砂の上から、その本を拾い上げた。


 本はびしょびしょに水を含んでいた。ところどころに、焼け焦げたような痕もある。女は、じっとりと重くなった本の表紙の上に目を凝らした。


「『おまぬけ殺人課長』……。うん。あなたがきっと、最後の一人ね」


 彼女は本を胸にあて、ぎゅっと優しく抱きしめた。


「おかえりなさい。あなたの仲間たちが、むこうで待ってるよ」

 女が微笑んだ。陽が落ちて、空が暗くなり始める。空が群青色に変わり始めても、海は夕焼けに染まったままだった。

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