第14話 名

「あ、あの?」

衡さんは数字の書かれた付箋をピッと剥がしてグシャリと握り潰すと自分のポケットに入れた。

「あいつ、シメる」


殺伐とした衡さんの気配に、樹里は思わず衡さんの袖を引っ張って、彼の手の中のお団子を指差した。

「お腹空きましたね。早速このお団子を食べませんか?今夜は満月だそうですよ。これはお月見団子ということで」

 衡さんは天を見上げた。山の端は昏くなりかけてるけれど、月はまだ上ってこない。ドキドキする樹里の前で衡さんは暫し黙ってからフゥと息を吐き出し、ゆっくりと口を開いた。

「お月見ですか。それはいいですね」

それから片方のパックの輪ゴムを外してパカッと開くと、樹里の前に団子を差し出す。

「はい、この五串は貴女の分です」

「え、五串も?」

「だって、こちらにも五串ありますから」


 輪ゴムのかかったもう一つのパックを見せられ、仕方なく開かれたパックを受け取り、とりあえず一串を手に取る。先端のピンク色の丸い一玉を口に入れた時、衡さんが樹里を見て言った。

「その五串、ちゃんと食べ終わらなければ帰しませんよ」

「え、帰さない?」

どこか何かを含むような声色にドキッとする。むせそうになって目を白黒させてたら、衡さんがクスッと笑った。

「だって、そんなベトベトの団子のパックを持って電車になんか乗れませんからね」

あ、そういう意味。

「で、でも輪ゴムをかけて袋に入れれば」

そう言ったら衡さんは首を横に振った。

「ああ、申し訳ない。輪ゴムどっかに飛ばしてしもたみたいで」

「えっ?」

「ちなみに袋なんて持ってません。食べ終えてゴミとしてあそこに捨てていくしかないですね」

「あそこ?」

指し示されたのは、大きな段ボールで作られた即席ゴミ箱。

「さて、どちらが早く食べ終われるか勝負です。負けたら勝った方の言うことを聞くこと」

「え、言うことを聞く?」

ええ、勝負ですから。約束ですよ」


そう言って悪戯っぽく笑った衡さんの笑顔に何故か懐かしさを覚える。


その時、どこかでケータイが震える気配がした。

——あ、みやこちゃん。


「あの、ちゅうじょうさん」

そう呼びかけてから、みやこちゃんと同じ苗字だったことを思い出す。

「あの、衡さん。みやこちゃんやお友達の方と分けっこして食べませんか?皆でお月さまを見ながらいただいたら、きっととても美味しいと思うのです」


すると衡さんは樹里を見て頰を緩ませた。大きな目が優しく細まる。

「衡さん、か。うん、悪くないね。じゃあ俺も、樹里ちゃんって呼んでいいかな?」

樹里は頷いた。


——樹里ちゃん。

家族以外の男の人に初めて呼ばれたその名の響きは、柔らかで甘やかで、子どもの頃に連れて行って貰った浜辺の波のように、寄せては返して樹里の心を大きく揺さぶった。


 衡さんが笑顔で手を差し出す。その手を取ろうとした時、衡さんが急に仰け反った。

「お兄ったら、何で通話に出ないんよ。さんざ探したわ。あー、しんど!」

みやこちゃんだった。衡さんが目を三角にして振り返る。

「みやこ。お前、ちぃとは空気読めよ」

対し、みやこちゃんは目を光らせて不敵に笑った。

「空気読んだからに決まてるやないの。ちじゅに手ぇ出すなて言うたやろ?」

「手ぇ出すて人聞き悪いなぁ。そう小うるさいと、狙いのイケメンに敬遠されるで?」

「何やて?もっぺん言うてみ?」

険悪な雰囲気になりかけた二人の間に樹里は団子のパックを割り込ませた。

「あの!お腹が空きましたよね。お月見団子をどうぞ」

 途端、みやこちゃんの顔が輝く。

「確かにお腹減ったわぁ。ちじゅはほんま、いつもいいタイミングでおやつ出してくれんなぁ。うち、ちじゅのそゆとこ大好き!明日もガッコでいっぱい話そな?」

「いいタイミング?」

衡さんが首を傾げる。樹里は頷いた。

「私、下に弟が三人いて、お腹が空いてくるとよく喧嘩をするので、おやつを持ち歩く癖がついてるんです」

「へぇ。一人娘ではないんですね」

「一人娘?いえ、四人兄弟の一番上です」

一人っ子に見えたんだろうか?あまり言われたことはないけれど。樹里が不思議に思いながら衡さんを見たら、衡さんはそうですね、と答えてから樹里を見て微笑んだ。


「ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず」

「あ、方丈記」

丁度、学校の日本史で習い直した所だ。元気に答えた樹里に衡さんは頷いた。

「人の世は無常だけれど、絶えることもない。それで良いのかも知れませんね」

何かを含んだような言葉に樹里は首を傾げる。

「変化もまた愉しむ。そんな心の余裕を持って生きよという神の諭しのようやと、そう思ったんですわ」

しみじみと語った衡さんの様子が可笑しくて樹里はつい笑ってしまった。

「あ、ごめんなさい。でもその口ぶりが、まるでお年寄りのようで」

「え、お年寄り?」

「ほーら、言われた。お兄ったら、ほんまジジむさいんやから」

みやこちゃんの囃し声に衡さんは渋い顔をする。

「あのね。お兄ね、小さい頃に自分は平安貴族や言うて、よう変人扱いされててん」

「え、平安?」

「おい、月が出たぞ。団子食わんのなら全部俺がたいらげるで」

「あ、待って。お兄の食いしん坊!」

「いやいや、お前には敵わんわ」


 衡さんは、みやこちゃんに団子を差し出すと自分も一串摘み上げ、山の上に少しだけ顔を覗かせた丸い月に向かって軽く頭を下げた。

「いただきます」

 その時、ガサッと音がして茂みから誰かが顔を出した。

「見つけた。こんな所で何してん? あ、いいの食ってんなぁ。俺にもくれる?あちこち手伝わされてる内に食いっぱぐれちゃって」

それは舞台で皷を手にしていた人。

「お前は人三倍食うんだから少しは遠慮しろよ」

「そんないけず言うなら、これやらんぞ」

そう言って缶ビールを2本、大きなポケットから取り出す。

「あ、狡い!」

「ああ、みやこちゃんにはこっち」

そう言って、彼はもう片方のポケットからパックのジュースをいくつか取り出すと、みやこちゃんと樹里に選ばせてくれた。


 彼のおかげで、十串の団子はあっという間に無くなる。ゴミをきちんと分別して捨て、顔を上げて気付く。辺りはすっかり黄昏れていて、祭りの後らしい充実感に満ちた騒めきと、片づけに奔走する学生達の掛け声だけが残されていた。


じゃあ、俺はも少し片してから帰るわ。またな」

 鼓の彼がそう言って駆け去り、残された三人で駅に向かう。ゆきはとても遠かった道のりが、帰りはやけに近い。あっという間に駅に着く。樹里は、二人とは乗る電車が一本違う。別れ際、みやこちゃんが樹里に腕を絡ませて綺麗な笑顔を見せてくれた。

「ちじゅ、今日はありがと。明日またガッコでね」

樹里は微笑んで大きく頷いた。

「私こそありがとう。また明日ね」


 それから衡さんに頭を下げる。

「ありがとうございました」

でも、それ以上の言葉が出てこない。何か言いたいのに何も思いつかない。樹里は黙って頭を下げ続けた。

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