第13話 憶
衡さんの目が見開かれた。
「ちじゅ。記憶が戻ったのですか?」
「記憶?戻った?何の話ですか?」
「貴女の記憶です。千手の前としての」
「千手の前?」
樹里は衡さんの顔を見上げた。衡さんは僅か迷ったような顔をしたけれど、重そうに口を開いた。
「千手の前は、貴女の過去生の呼び名です。貴女は、捕虜として囚われた私の前に琵琶の名手として現れ、私の心を慰め、救ってくれた」
「救った?」
「ええ。でも、私に会ったことで貴女の人生を狂わせてしまった。だから今世では、その償いをしようと思って」
「償い?過去?人生?」
この人は何を言ってるんだろう。もしや怪しい宗教の勧誘じゃないだろうか?
樹里は、その場に足を踏ん張ると掴まれていた手を振り解いた。
「あの、ごめんなさい!私、やっぱりみやこちゃんと一緒に!」
案外あっさりと手が放されたことにホッとして駆け去ろうとした時、彼は胸ポケットから一枚の写真をひらりと取りだして樹里に見せた。
「欲しかったのは、これでしょう?」
それは先程、大きなパネルになっていた宇宙の星々を写したような美しい写真。それで改めて彼の顔を見返して気付く。
「欲しくないなら素直にそう言えばいいのに」
そう言った人だった。
「あ!さっき整理券くれた人!」
樹里はホッとした。
変なことを色々言われたから怪しい人かと警戒してしまったけれど、衡さんは、樹里が妹のみやこちゃんの連れだと分かって、からかっていたのだろう。
「ええ、そうです。貴女は何でも顔に出ますね。素直というか単純というか。そういう所もまるで変わってないのに」
「え?」
聞き返すが、衡さんは首を横に振った。そして写真を差し出す。
どうぞ。これは差し上げます」
「いいんですか?」
「ええ。それは貴女との合奏を再現させようとしていた時に偶然表れた波紋です。私はずっと貴女の波動を作れないものかと試していました」
「波動?」
「気配、とでも言いましょうか。私は過去生では捕虜として囚われて、小部屋に閉じ込められていた。その間、私の側について世話をしてくれたのが貴女でした。狭く薄暗い小部屋の中、貴女がやって来る足音と気配が私の心の支えとなっていた。貴女が戸を開けて笑顔を見せてくれる、その時だけは自分の犯した罪を忘れられた。炎の記憶も」
「炎の記憶?」
「私は炎で大勢の人を焼いたのです。僧や仏閣を。そして処刑された」
「処刑?」
驚いて問い返したら衡さんは歯を喰いしばるようにして黙って頷いた。
「幸い、自分が死ぬ辺りの記憶は殆どありませんが、貴女が訣れの時に搔き鳴らした琵琶の音の波が私を捕らえて離さず、私はずっとその波動を探して彷徨った。そして長い時をかけて、やっと見つけた。でも貴女は忘れてる。逆に私は、自分の犯した罪から何から過去の記憶を持ったまま」
そう言って衡さんは深い溜息をついた。
「生まれ変わる時に記憶は消えると聞いてました。でも私の記憶は殆ど消えていなかった。ならば貴女の記憶も残っているのではないかと、そう期待しました。でも違った。正直な話、貴女にすっかり忘れられていることが、これ程こたえるとは思っていなかった。貴女なら、と甘えた気持ちがどこかにあったのでしょう。これも私に下された罰の一つなのかもしれませんね」
絞り出すように言葉を紡いだ彼を樹里はじっと見つめた。嘘を言ってるようには見えないけれど、話が突飛過ぎて何と返していいのか分からない。でもその時、ふと思い当たった。
——記憶が消えない?
もしかしてPTSDとかトラウマとか、そういう類の心的な病気ではないだろうか?処刑されたと言ってた。それは比喩だろうけど、余程辛い目に遇ったのだろう。衡さんが気の毒に思えてくる。
「あの。よく分かりませんが、どうかあまり思い詰めないで下さい。その忘れられないという記憶は、もしかしたら頑張って忘れようとしない方がいいかもしれません」
「忘れようとしない方がいい?」
「はい。学校の生物の先生が言ってました。人間の脳は天邪鬼なので、忘れたい出来事ほど忘れられないのだと。また逆に、どうでもいいことや覚えなくていいこと、考えるなと言われたものの方が記憶に残りやすいのですって。例えば、空飛ぶピンクのゾウのことは考えないでくださいと言われると頭の中をピンクのゾウが飛び回って、他のことを考えられなくるんだとか。だから無理に忘れようとしなくていいんですよ。お兄さんは笛がお上手なのですから、笛をたくさん吹いて、ストレス発散していく内に気持ちが楽になるかもしれません」
そうだ。確か音楽や絵画などの芸術を活用した心理療法があった筈。
でも樹里が言い終えた途端、衡さんは爆笑を始めた。
「空飛ぶピンクのゾウ!」
「あ、はい。それに紫色のバナナを頭につけた鼻メガネのおじさんとか」
あとは何て言ってたっけ?生物の先生のまん丸い顔を思い浮かべながら懸命に記憶を辿る。生物の先生は授業中に脱線話ばかりして教科書を殆ど使わない。だからテストの時は大変だけど、話が面白くて樹里は好きだった。
「紫のバナナ!」
衡さんはお腹を抱えて笑い続けている。
「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか。私、真面目に話してるんですけど」
でも衡さんの笑顔を見てる内に樹里もピンクのゾウがフヨフヨ飛んでる所を想像して噴き出してしまう。二人して笑っていたら、発泡スチロールのケースを抱えた一人の男子に声を掛けられた。
「あのー、団子はいかがです?学祭名物の三色団子。一串百円です。でも、もう終わり近いので、五串まとめて三百円にしときます!だから買って下さい!お願い!売れ残ったら罰ゲームで女装しないとなんですよ!」
「え、女装?」
それは大変。拝み倒された樹里は小銭入れを出した。
じゃあ五串ください」
「毎度おおきにぃ」
五串入ったパックを渡され、三百円を払う。と、彼はチラッと樹里を見てニッと笑った。
「君、高校生?ここ受けるの?」
「え?」
「すごく綺麗でいい声だね。笑い声が遠くからでもよく聴こえたよ。ね、家庭教師とか必要ない?良かったら数学とか教えるけど」
「え」
樹里は絶句する。家庭教師だなんて、そんなこと、今ここで言われても。
困った樹里は咄嗟にもう三百円を差し出した。
「あ、あの、家庭教師は大丈夫です。もう五串買いますので、それで許してください」
そう言って頭を下げる。彼はニカッと笑って樹里に団子の入ったパックを渡した。
「毎度おおきに」
踵を返して行きかけて振り返る。
でも、家庭教師の件、その気になったらいつでもそこの番号に電話してね」
「え?」
指を差されて目を落とせば、団子の入ったパックの上にケータイの番号らしき数字が書き込まれた付箋が貼られていた。唖然とする樹里の手の中の団子のパックが奪われる。衡さんだった。
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