第12話 風

「やっぱり、ちじゅ」

「え?」


 知らない男子にあだ名を呼ばれて樹里はポカンとする。

「あの、どなたでしょうか?」

その時、隣に座っていたみやこちゃんが樹里の腕を引っ張った。

「ちょっとお兄ちゃん、まだ紹介してないのに勝手に私の友達に話しかけないでよ」

「お兄さん?」


 改めて男子学生の顔を見上げる。彼は両の口の端をもたげて綺麗な笑顔を見せると頷いた。

「どうも。そいつの兄の中条(ちゅうじょう)衡(まもる)」

樹里は反射的にペコリと頭を下げた。

「あ、初めまして。この度はお招きいただきまして」

そう返したら、彼はブッと噴き出した。

「ここ、俺ん家じゃないんだけど」


それはそうだけど、他に何て挨拶していいかわからなかったのだ。

赤くなって俯く樹里の前で、彼はみやこちゃんに向かって声をかけた。

「みやこ、サンキュ。よく来たな。彼女を紹介してよ」

みやこちゃんは樹里を自分の方に引き寄せてから顔を上げた。

「クラスメイトの千住樹里ちゃんよ。ちずみって言いにくくて、最初にちじゅみって呼んじゃってから、ちじゅって呼んでるの」

「へぇ、確かにちずみより、ちじゅみの方が言いやすいな」

みやこちゃんのお兄さんは樹里を見て軽く笑うと頭を下げた。

「ちじゅちゃん、よろしく。小うるさい妹にいつも付き合ってくれてありがと。でも、やかましいのが過ぎる時は、遠慮なくそう言いなよ。我慢が過ぎると早死にするからさ。今生では長生きして、共白髪ってのに挑戦しような」

 スッと自然に手を差し出され、握手するのかと握り返してから、かけられた言葉を反芻する。

「え、共白髪って、あの?」

それは夫婦に使う言葉じゃないだろうか?

「ちょっとお兄!紹介するなりナンパって、信じらんない!」

みやこちゃんの怒声に彼は首を竦めると、背を屈めて樹里の耳に口を寄せて小さな声で囁いた。

「ちじゅ、初めましてではありませんよ」

「え?」

やはり私のことを綺麗さっぱり忘れてるのですね」

咎めの響きを含んだ声に樹里は慌てる。


「あの、どこかでお会いしましたっけ?」

みやこちゃんの家に遊びに行ったことはない。だから会ったとしたら駅とか道端とか学校?そう言われると見覚えがあるような気もしてくるけど、どこでだっけ?マジマジと見つめていたら、衡さんは黙ったまま眉を顰めて、握った樹里の手を強く引っ張り上げた。樹里はずり落ちかけたバッグを抱え直して慌てて立ち上がる。


衡さんは、樹里の手を掴んだまま、みやこちゃんに向かった。


「みやこ、ちぃと彼女借りるで。お前が行きたい言うてた研究室は、こいつに案内させるからさ」

言って、衡さんは一人の男子を紹介すると樹里を引っ張って歩き出した。

「ちょっとお兄!ちじゅをどこに連れてくん?」

「いや、ちょっと演し物の手伝いでもしてもらおうかと」

「手伝いなら私がすんのに」

みやこちゃんの申し出に衡さんはヒラヒラと手を振った。


「お前は今日は研究室の見学に来たんやろ?研究室では教授が手ぐすねひいて待ってるから、心ゆくまで喋り倒してこい。お前なら、いっぱしに討論出来るだろ」

「それはそうやけど、帰りはどうすんの?」

「話が終いになったらケータイ鳴らせよ」

「了解。でも、ちじゅに悪いこと教えんといてな。その子、純粋培養なんやから」

「知ってる。じゃな」


 サッと踵を返して歩き出した衡さんに引っ張られて、樹里は講堂を出た。階段を上がって狭い扉を抜け、明るい外に出た途端、冷たい風が吹き荒ぶ。コートが風を孕んで捲き上がる。あちこちで上がる悲鳴。でも樹里は、先程彼が口にした言葉で頭がいっぱいだった。


「知ってる」


——知ってるって、どうして?例えどこかですれ違ってたとしても、話すのは今日が初めての筈なのに。


もしかして、みやこちゃんはお家で樹里のことを話してくれてたんだろうか?だとしたら、大切な友達と思って貰えているようで嬉しい。

そう考えて、ほっこりとした樹里だったが、次の瞬間、目の前に指を突き付けられていた。

「何をぼんやりしてますか。スカート!」

「え?」

目を落とせば、先程の突風に煽られたスカートがめくれていた。でも、そんなミニスカートを履いているわけでもないし、下にスパッツも履いてるし。そうのんびり構えていたら、衡さんの手が樹里のスカートをババッと整えてコートもきっちり合わせてくれた。息つく間もないその動きに樹里は目を瞬かせる。

「あ、ありがとうございます。素早いですね。さすが、みやこちゃんのお兄さん」

礼を言うが、衡さんは口を引き結んで樹里を睨んだ。

「なぁにが、さすが。相も変わらず隙だらけやないですか」

「え、隙だらけ?」

問い返したら、衡さんは樹里を見下ろして首を傾げた。

「ちじゅちゃんは誰か好きな人はいるの?」

「え?」

「付き合ってる人はいるのかと聞いてます」

樹里は首を横に振った。

「いえ、私なんか誰も相手にしませんから」

すると衡さんの目がスッと細まった。

「そういう所、まるで変わっていない。遠慮が過ぎると相手が付け上がると言ったでしょう?」

——え?


樹里の眼前に、細面で目鼻の整った顔が迫る。咄嗟に後退った樹里の視界の中で、その口が声を発した。

「ちじゅ。いえ、千手の前。私は貴女を側に置きたい。宜しいですか?」

意志の強そうな瞳が樹里を射抜く。それに


——宜しいですか?


発せられた、その響きを受けた途端、樹里の胸がドクンと一つ大きく鼓動した。同時に身体の中を風がサァッと吹き抜けていく感覚がする。

そう、前にも誰かにそう問われた。でも、いつ?どこで?誰に?


直後、樹里の口から飛び出たのは、それに対する答え。

「かしこまりました」


考える間も無く、口をついて出て来た言葉に樹里自身が驚く。

——何?かしこまりましたって。そんな畏まった言葉、普段使ったことないのに。

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