第9話 別
やがて年が明け、弥生の末に平家一門は壇ノ浦にて滅びた。捕らえられた一門の大将、平宗盛らが鎌倉へと連れられて来るが、彼らは鎌倉へは入らずに腰越で待機し、やがて水無月に罪人として京へと戻される。同時に中将の君もまた、鎌倉を離れることとなった。
「千手の前、ご苦労でした。明朝、中将殿は南都に向かわれる。最後の沐浴とお世話を頼みます」
工藤祐経の言葉に千寿は黙って頷いた。
夜明け、鳴く鳥の声を千寿と中将の君はひっそりと聴いていた。
「ちじゅ、長く有難う。約束、頼みましたよ」
柔らかく微笑む中将の君に千寿は微笑み返した。
中将の君は軽く頭を下げ、背を向けると小部屋を出て行った。
それが千寿が中将の君を見た最後。
去って行く足音に千寿は琵琶の音を重ねた。
——愛しく思っています。さようなら。
口に出来なかった言葉を乗せて。
それから千寿は御所で変わらず御台所付きの女官として勤めた。
やがて、噂が入ってくる。中将の君、平重衡は罪人ゆえに京には入れず、その手前で妻と今生の別れをして自らの供養を頼み、法然上人から受戒を受けた後に奈良へ送られ斬首されたという。
「法然上人」
その名を聞いて千寿の顔が輝く。
——では、中将の君は救われたのだ。
千寿は懐から横笛を取り出した。
最後の夜に手渡された物。
「私が貴女に遺して差し上げられる物はこれしかない。でも吹いてはいけませんよ。いつか困った時に用立ててください。それまでは、貴女を護る物としてお側に」
やがて千寿は里に帰り、女子を産んだ。椿のように艶やかに美しい子。その子の世話を父母に頼み、自らはまた鎌倉に戻って琵琶を掻き鳴らす。その音色は人々を魅了し、宴においては欠かせない存在となった。でも千寿の心はまるで踊らなかった。
「千寿の前、御所様が貴女の琵琶をご所望よ」
女官仲間に呼ばれ、琵琶を抱えて広間へと向かう。でも、入った途端、妙な胸苦しさを覚える。漂う風に、どこか刺々しい波を感じた。御所様の隣に座していた御台所が口を開く。
「範頼殿の瘧の病(マラリア)が平癒したので、その感謝の宴よ。姫も貴女の琵琶を聞きたいと言っているの。お願い出来るかしら」
御台所の隣には、一人の幼い姫君が冷えた目で座していた。父に夫を殺された姫君。その目は部屋の中の何も見ていなかった。
御千寿は黙って頭を下げると、撥を握って一掻きする。
——ボロン。
音が溢れ、風が揺らぐ。と共に、姫君が顔を上げて何かを目で追った。千寿の持つ琵琶の弦に弾かれて消えた何かを。
「魔除けの琴を弾いて欲しい」
中将の君の言葉が、ふと思い起こされた。千寿は撥を握り直し、強く、激しく搔き鳴らし始めた。肌にビリビリと震えが走る。
この広間に充満している何か善くないモノ。想いなのか怨霊なのかわからないけれど、千寿の琵琶が発した波は、それらを弾き飛ばし砕け散らし、砂塵のような細かな粒へと変える。やがて千寿は撥を床に置くと、右手の指でそっと弦を撫で揺らした。音の波はそれら微かな粒を慰めるかのようにふわりと包んで風に乗る。そして、開け放たれた蔀戸から遠く天へと昇っていった。
姫君の目から涙が一筋、溢れ下るのが見えた。
——行かないで。
そんな声が聞こえた気がした。それは自分の声なのか、姫君の声なのか。
——ゴトッ。
琵琶が落ちた。拾おうと身を屈めた千寿は、そのまま琵琶の上に倒れ込んだ。
転がる琵琶。転がされた自分。あれは遠い過去の景色。
「千手の前!」
呼ばれ、揺さぶられて目を開ける。御台所が自分を見下ろしていることに気付いて慌てて飛び退る。
「も、申し訳ございません」
「どこか具合が悪いの?」
「いいえ。急に目が眩んだだけです。すぐに治ります。大変失礼致しました」
そう言って胸を押さえる。その手に笛が当たった。
——ああ。
行かないで。私を置いて行かないで。
笛がそう言っている。苦しんでいる。
そうだ。誰にどう思われようと、何と言われようと付いて行けば良かったのだ。置いて行かないでと口にすれば良かったのだ。叶えられないと分かっていても、その想いすら封じ込めて我慢をしてしまったのはどうしてか。
翌朝、千寿は郷里に戻された。
笛に口をあてがう。思いっきり息を吸い込んで笛へと吹き込む。でも、ヒョロリとしか笛は応えてくれなかった。
千寿は立ち上がり、外へ出た。目に映る高貴な青紫の色。川辺に咲き乱れる杜若の花。
中将様」
千寿は杜若の花に手を伸ばした。
が、 ぬかるみに足を滑らせ川へと落ちる。幼い頃から遊び、慣れた川。でも今日は足に力が入らない。溺れそうになる。顔を上げようともがいたら、懐から笛が擦り抜け、川の流れに乗った。
——待って、それは中将様の!
でも、身体が思うように動かない。
ふと迷った。魔寄った。
——このまま溺れてしまえばいいのかもしれない。どうせ自分など、もう生きていてもしようがないのだから。
手の力を抜こうとした時、
——ヒュルリ〜
笛の音が聴こえた気がした。
——中将様!どこ?
身を起こして駆け出そうとした千寿だが、杜若の茎に阻まれて、その場に突っ伏す。
——いいですよ、いらっしゃい。共にゆきましょう。
優しげな声と共に差し出された白い手を握ろうと顔を上げたら、それは中将の君ではなく、人骨だった。
悲鳴を上げて振り払う。
——嫌だ、魔に取り憑かれたら中将様に逢えなくなる。
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
心の中で必死に唱える。魔が差したことを陳謝する。でも、川底より伸びてくる白い手に足を掴まれそうになる。
中将様、助けて!」
心の中で必死に藍色の直垂を思い浮かべた。
——ピー!
甲高い音が鳴り響き、のしかかっていた重苦しさから解放される。音の鳴った方に目を向ければ、川の中洲に子どもが立っていて、拾い上げた笛に口を付けていた。
「中将様!」
ゲホゲホと噎せながら千寿は中空に向かって必死で訴える。
「貴方様でなければ。私は貴方様でなければ駄目なのです。どうか付いてゆくことをお許しください。置いていかないで!」
「千寿、しっかりしなさい!」
腕を引っ張られて気付けば、両親が千寿を川から引き上げてくれていた。
「可哀想に。鎌倉で余程酷い目に遭ったんだね。もう二度と行かなくて良いからね」
いいえ、と千寿は首を横に振った。
「行かなきゃ。琵琶を弾かないと」
天か地か、その狭間か。どこかにいるあの人に届くように。
でも千寿の目の前は暗くなっていき、音と光も吸い込まれていった。
——ジージー ジージー。
暗闇の中、虫が鳴いている。あれは中将様と共に聴いた虫の音。
「ちじゅ」
呼ばれて目を開ければ、見知った太い柱に梁。馴れ親しんだ屋敷の自分の部屋の風景。その暗闇の中、蛍のように儚く煌めく涼やかな瞳が自分を見下ろしていた。
「中将様?」
手を伸ばすが、その指は空を掻くだけ。触れることは出来ない。起き上がろうとした千寿の額に白い人差し指がかかる。その人差し指は、ゆっくりと中将の君の口先で立てられ、彼はニッと悪戯な顔をして、しーっと千寿の言葉を止めた。
「御所様が仰っていた。田舎武士の娘もなかなか良いものですよ、と。情に厚く、一度決めたら、てこでも動かぬ。真にそうなのですね。お陰で私も御所様と同じく、東女に骨抜きにされてしまった」
「え?」
中将の君は目元を緩めた。やれやれ、と言わんばかりに肩を竦める。
「いいでしょう。貴女には借りばかりを遺してしまった。その償いを今度はさせていただきます」
「連れて行ってくださるのですか?」
千寿が問うたら、中将の君はそっと微笑んだ。
「ええ。確かに貴女の言う通り、地獄はなかった。ただ、自ら為したことの報いは受けねばなりません。長い時がかかりますよ。覚悟は宜しいですか?」
千寿は笑顔で頷いた。
「はい。喜んで」
その翌朝、千寿は二十四歳の短い生涯を終えた。その報せはすぐに鎌倉の御台所の元へと伝えられた。
千手の前は、重衡卿を慕うあまりに亡くなったと人々が噂したと吾妻鏡にはある。
千寿の琵琶は娘へと引き継がれ、娘はその美貌と琵琶の腕ゆえに良縁に恵まれて生きる。でもその血の由縁は語り継がれることはなかった。
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