第8話 月

「中将様、工藤様が此方を差し入れ下さいました」

そう言って、高杯に乗せられた餅を中将の君に見せる。

「餅?もしや今日は十五夜ですか?」

「はい。今日は鶴岡八幡宮で流鏑馬などの神事、祭礼がありまして、この後は月見の宴だそうですが、その前に此方をと」

「それは有難い。此処からは月は拝めませんが、この秋の実りに感謝して頂きましょう」


この小部屋には窓がない。板の隙間から微かに聴こえる人々の笑いさざめく声。

中将の君は小さな餅を摘み、口に入れた。

「さぁ、ちじゅも」

千寿は手を振って琵琶に手を伸ばした。

「いいえ、私はお腹いっぱいなので」

でも琵琶を取り上げられる。

「一人で食するのは寂しい。どうぞ一緒に」

言われ、千寿は小さな餅を一つ摘む。ふんわりと柔らかですべすべとした丸い形に心が和む。

「美味しいですね」

「はい」

「ちじゅ、しっかり食事を摂っていますか?痩せてしまったように見えますよ」

千寿は首を横に振った。中将の君は餅を摘むと、はい、と千寿の口元に近付けた。

——え?

千寿は戸惑って目の前に突き出された餅を見詰める。

「ほら、お食べなさい」

更に鼻先に寄せられて、仕方なく千寿は小さく口を開いた。そこへ餅が押し込まれる。必死で呑み込んだら、また一つ差し出された。首を横に振って、何とか逃げ出そうとする。すると、中将の君は笑い出した。

「ちじゅ、真っ赤な顔をしていますよ。餅が咽につかえましたか?」

千寿は中将の君を睨んだ。

「中将様は悪戯な上に意地悪でいらっしゃいますのね。口を開かせるなんて恥ずかしいことをさせてお笑いになるなんて」

「私は貴女に太って貰おうと思っているだけですよ。私の世話をしていて痩せ細ってしまったとあっては申し訳がないですから」


——申し訳がない


その言葉が気にかかった。中将の君は、よくその言葉を口にする。


「申し訳ないなどと中将様が思うことは何もございません。私に対しては勿論のこと、誰に対しても、何に対してもです」


琵琶を手に取る。

「それより、ゆきましょうか」

中将の君が不思議そうに顔を上げるのを構わず、琵琶に撥を当て、一掻きした。中将の君は合点がいったように懐より笛を取り出す。やがて龍笛の調べが琵琶の後を追ってくる。二人の楽は絡みつくように部屋の中を舞った。


「何故、女性は横笛を吹かないかご存知ですか?」

楽が止んだ合間に中将の君が問うたのに対して、千寿は首を横に振った。

「嘘か真か知りませんが、大昔、美しい月の女神が笛を拾い、吹いてみた所、妙なる音がしたそうです。ただ、その奏でる様子を見ていた者たちが、皆笑い出して言った。月の女神の顔が真ん丸のフグのようになって、みっともないと。それで怒った女神は笛に呪いをかけてしまった。だから女性は笛を吹かなくなったそうです」

「呪い?どんな呪いなのですか?」

中将の君は首を傾げた。

「いや、それは分かりませんが、単に見た目だけの話だと思いますがね。女性は口など開かず、大人しく黙って魔除けの琴を弾いていて欲しいという、男の小さな願いが暗に伝えられたというだけなのではないでしょうか」

千寿は曖昧に頷いた。

「さぁ、それよりも、もっとお食べなさい。きっちり半分こですよ。貴女の分はそちら。食べ終わらねば寝かせませんからね」

悪戯な顔をして餅を摘んでは、ぱくぱくと口に放り込んでいく中将の君。彼はきっと、元々陽気で、人々の中心にいるのが似合う華やかな人だったのだろう。それが、何の巡り合わせか今はこのような侘しい日々。申し訳ないという彼の言葉には様々思いが入り混じっているようで、千寿は切なくなる。


千寿は自分に割り振られた方の餅を摘んで、ぱくぱくと口に放り込んでいった。中将の君が呆気に取られた顔で千寿を見る。千寿はニッと両の口の端を上げた。

「競いっこです。負けたら、勝った方の言うことを聞くほほ」

口の中に餅が入っていて上手く話せない。中将の君はプッと噴き出した後に餅に手を伸ばした。



勝負は呆気なくついて終わる。

「では、約束です。私の頼みをきちんと叶えてくださいよ」

そう言って中将の君は千寿に向き直った。

「私がここを出たら、後を追わないで欲しい。そして、この鎌倉で楽を奏で続けてください」

——後を追わないで、ここで楽を続ける?

千寿は咄嗟に首を横に振った。でも中将の君は微笑んで続ける。

「負けたら勝った方の言うことを聞くと言ったのは貴女でしょう。約束ですよ」

「どうして」

「私は大罪を犯した。だから直ぐには浄土に行けない。貴女は違う。だから少し待っていて下さい。此方で私の為に楽を奏でていて欲しいのです。天の仏神にも地獄の私にも届くように」

千寿は中将の君の袖を握った。

「地獄なんて、そんなものはありません。私はそう思います」

中将の君が眉を顰める。

「だって、見たことありませんもの。お話の中だけ。お寺が信者を増やす為に考えられた作り話なんです。きっと」

「ちじゅ」

抱きしめられる。

「有難う。でもそんな罰当たりなことを口にしてはいけないよ」

「でも、南無阿弥陀仏と唱えれば、どんな悪いことをした人でも救われると聞きました」

「法然殿ですね」

「ほうねん?」

「確かに誰も浄土にも地獄も見たことがない。でも、その存在を信じるからこそ、人は良心を重んじて正しく真っ直ぐに生きようと出来る。私はそう思います。だから、地獄はあっていいのですよ」

「中将様」

「貴女との楽は私の心を救ってくれた。私はあの世でも、また、そのまた次の世でも貴女の起こす波を感じていたい。だから、約束です。貴女は貴女のまま、ここで琵琶を奏で続けてください」


否やは言えなかった。千寿は中将の君の妻ではない。何の関わりもない、ただ一時の世話を任された者。だから追ってはいけないのだ。





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