第7話 波

「そう言えば、千手殿は『うつほ物語』はご存知ですか?」

問われて千寿は首を傾げる。

「源氏物語よりも昔に書かれた物語ですよ。楽器や仏神、昔から伝わる風習などについても書かれている」

千寿は首を横に振った。

「機会があればお読みなさい。貴女ならきっと夢中になって読むことでしょう」

千寿は大人しく頷いた。それを見て中将の君は満足そうに微笑む。


「あそび(管弦の楽)は、琵琶や琴、笛や皷などの、うつほ(空洞)のある器に自らの気を行き渡らせて震えさせて音を奏で、神と一体となる神事。恵みを感謝し、天へと還すもの。なのに、いつの間にか都の楽は宴の余興となり、出世の道具となってしまった。でも、本来は純粋に自らの歓びを器に込めて幸せの波を辺りに響かせるものだと私は思うのです。

「幸せの波?」

中将の君は頷いた。

楽しい。嬉しい。有難い。愛おしい。そんな純粋で明るい気の波です。音は素直です。嘘がつけない。音を出した者の心をそのままに顕す。だから怖い。うつほ物語では、父が娘に秘曲を伝える時に、幸せが極まる時、または不幸の極まる時に弾けと言う。幸せなら良い。でももし極まった不幸が天に届いてしまえばどうなるか。この世すら滅ぼしてしまうのではないか。私は幼い頃それを想像して怯えたものでした。心を込めて幸せを願いながら吹いたものでした。でも、いつしか形だけ音を追うようになっていた。それらしく奏で、お褒めの言葉をいただくことだけに気が向いてしまっていた。他人を気にしながら生きるようになっていました。そして命じられるままに生きて、戦い、敗れて捕らえられた。我が身を憐れみ、人を、運命を恨んだ。それでも武人として誇り高くあるべきと、堂々と振舞っていた。そんな時に貴女の音に触れました。貴女の音はまっすぐ純粋に私の中に飛び込んできた。楽を奏でる幸せを伝えてきた。その時、私は思い至ったのです。まだ楽を奏でることが出来る。それだけで何と幸せなことかと。忘れていた大切なことを思い出せた」


そう言って、中将の君は千寿の手を引いた。


「私は貴女に逢う為に囚われてここに来たのかも知れません」


千寿の頰を涙が伝った。

——私の方こそ、貴方に逢う為に琵琶だけを抱いてきたのかも知れません。


でも、その言葉は発することが出来なかった。代わりに微笑んで目を合わせる。


「ちじゅ、です」

「え?」

「私の名は、ちじゅです。千手は鎌倉で付けられた女官名。どうぞ、ちじゅとお呼びください」

名を明かす。

私の身も心も貴方のもの。

中将の君の手が千寿を捕らえた。強く抱き締められる。

「ちじゅ」

呼ばれて、はいと答える。

その夜、千寿は彼と肌を合わせた。

最初の夜は何が何だか分からないまま進んで終いになった。でも此度は違う。彼は千寿をちじゅとして抱いてくれた。そう感じた。千寿が琵琶を抱き締めるように大切に抱き締め、弦に触れるように触れる。やがて、千寿の内から愛が溢れ出す。彼を愛しいと思う心が膨らんで雲となり、雨を降らせて川として山から染み出し、大地を潤し海へ注ぎ込み、大きな波を巻き起こす。寄せては返す波の音。いや、振動。震え。揺らぎ。


その揺らぎは千寿をひどく懐かしく切なくさせ、何故か母を思い起こさせた。そして思う。

この揺らぎこそが楽なのではないかと。この世の中は沢山の楽で成り立っている。隣り合う楽器の片方が震えると、もう片方も震えるように、千寿の揺らぎは中将の君を揺らし、そしてその向こうの誰かをまた揺らす。


——あ。


千寿はその時、彼の妻子のことを思った。

——自分は今だけの、かりそめの相手。遠く京から彼を案じているだろう人を思い、手を合わせる。


——どうか、今だけお許しください。いつか、そちらにお戻りになるお方だから。


「ちじゅ?」

名を呼ばれ、顔を上げる。額に汗を浮かべた中将の君が気遣わし気に千寿を見つめていた。

「辛かったのですね。申し訳ない」


いいえ、と首を横に振り、千寿は微笑んで口を開いた。

「痛みを幸せと感じるなんて、自分は何て愚かで風変わりな女なのだろうと呆れておりました」

——そう、身体の痛みも。心の痛みも。その痛みを感じられる幸せ。貴方が今ここに居るという幸せ。

 中将の君は千寿を抱き寄せて言った。

「貴女は愚かでも風変わりでもありませんよ。素直でたおやかな一人の美しい女性です」


——美しい?そんなこと言われたことない。



でも、それから千寿は変わった。化粧はやはりしなかったが、他の美しい女官らと出会っても並んでも物怖じしなくなった。その内、女官らの千寿を見る目が変わる。嫌味を言われることもなくなった。千寿は自分を覆っていた薄い膜が剥がれ、明るい日の下に立ち、目を開いたような心地がした。


 耳を澄ませば聴こえる楽。感じる波。風が木々を揺らす楽しげな音。揺らされた枝が枯れた葉を落とし、身軽になっていく喜びと哀しみ。落ちた葉がカサカサと舞い、地に茶色の衣を着せて冬を呼び、虫たちは身体を縮こませてその下に寄せ集まる。吹き飛ばされて鋭く鳴いた小鳥が、負けじと強く羽ばたいて起こす波。そうだ、この世の全ては波で出来ていて、楽を奏でているんだ。


「千手の前殿、楽しそうですね」

声をかけられて、ハッと顔を上げる。工藤祐経が立っていた。

「此方を中将殿に。今宵は十五夜ですから」


高杯の上に乗せられた餅。千寿は受け取って頭を下げた。

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