第6話 毒

「中将様、こちらがアヤメです」

また腕いっぱいに草花を抱えて小部屋へ入る。

「カキツバタは沼や水辺に咲きますが、アヤメは乾いた所が好きなので、植わっている所を見れば、アヤメかカキツバタかはすぐにわかりますよ。あと、花弁の中をご覧下さい。剣のように白い模様があるのがアヤメ。縞々になっているのがカキツバタなんです」

へぇ、と興味深そうに頷いた中将の君が千寿の手首を掴む。

「切れてるではないですか」

確かに千寿の手の内側は、アヤメの尖った葉で少し切れていた。

中将の君は溜め息を吐いた。

「貴女という人は」

中将の君はそう言うと烏帽子を外して千寿の腕へと口付けた。千寿は必死で腕を取り戻そうとするが、強い力で引っ張られていてびくともしない。

「あ、あの、汚れますから」

「菖蒲の葉で切れたのでしょう?ならば毒消しに丁度良い」

「毒?」

驚いた 千寿が問い返したら、中将の君は昏い目をして顔を横に背けた。

「私の心と身体は毒に蝕まれている。地獄の業火で灼かれるまで、この苦しみは絶えないでしょう」

恐ろしげな言葉に千寿の手がぴくりと震えてしまう。中将の君はそれを可笑しそうに見遣ってから千寿の顔を覗き込んだ。

「お聞き及びなのでしょう?私が何をしたかを」

千寿は首を横に振った。

「申し訳ありません。噂話に疎くて、ここ以外のことは何も存じ上げません。私が言われたのは、中将様のお世話をするということだけ」

中将の君はじっと窺うように千寿を見た後に、床の一点を鋭い目で見つめた。

「私は東大寺の大仏殿、興福寺を焼いたのです。初めは兵が立て籠もっていた僧坊だけを焼く筈だった。でも読みが甘かった。火はあっという間に燃え広がり、南都の大半を焼け野原に変えた」

淡々とした声に、彼の苦しみの大きさが知れる。千寿はそっと立ち上がると部屋を後にした。


翌日、湯の用意をする。

「丁度、毒月なので、菖蒲湯にして邪気を祓いましょう」

「毒月?」

「はい。雨の続く今時分は、物が傷みやすく気も落ち込むので、私の家では毒月と言っておりました。端午の節句も近いので、菖蒲湯に浸かり、よもぎ餅を食べて気を元に戻すのだと」


「ああ、端午の節句。もうそんな時期なのですね。薬玉を贈り合ったのが懐かしい」


「薬玉?」

問えば、中将の君は、ええと答えた。嬉しそうな、切なそうな優しげな顔。

千寿は湯を汲んで中将の君の単の上から流しかけた。立ち込める湯気の中、菖蒲の草の鮮やかな緑の輪が爽やかな香りを放っている。その香りが千寿の胸の奥をチクチクと刺して、千寿はそっと嘆息した。薬玉の交換。絵巻で見たことがある。男女で贈り合う様子が描かれていた。中将の君は今、きっとその相手のことを想っているのだろう。妻子ある人。元より手の届かぬ人。肩に湯をかけ続けながら、千寿は中将の君の白い滑らかな首筋が薄桃色に染まってきたのを美しいと思いながら静かに見つめ続けた。



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