第5話 笑


それから千寿は中将様付きの女房として部屋が与えられた。でも専ら中将の君のお世話をするばかりで、他の女官からは蔑みの目で見られる。


「貴人といえ、どうせ罪人でしょう?それも大罪を犯したとか。直に縛り首になって鎌倉を出て行くわよ。そしたらあの子も大きな顔なんか出来ないから」

聞こえよがしに叩かれる陰口。千寿はそれらを聞こえない振りをして通した。



「中将様、今日は此方をお持ちしました」

腕いっぱいに青紫の花を抱えて部屋に入れば、中将の君は驚いた顔で千寿を見た。

「アヤメですか。美しい色だ」

千寿は首を横に振った。

「いいえ。残念ながら、こちらは杜若です」

「カキツバタ?ああ、いづれがアヤメかカキツバタですね」

「え?」

千寿は首を傾げる。

「そう歌に詠んで、御所の女官を妻にした男がいたのですよ」

楽しげにそう語る中将の君。

「では、次はアヤメを探してきましょう」

 そう言ったら手を取られた。

「着物の裾が汚れている。手も足もこんなに冷たくなって。一体どこで花を見付けて来たのですか」

ぬくとい手に素足を触られ、ひゃっと声を上げてしまう。

「杜若は水辺が好きなのです。父母の家の近くには沢山生えていて。でもここは鎌倉なので」

「なので?」

「よくわからなくて山の近くまで行ってみました」

すると中将の君は千寿を引き寄せた。

「ああ、それで貴女からお日さまと草木の香りがするのですね」


そのまま押し倒されるが、中将の君はそれ以上何もせず、ただ千寿に染み付いた陽の気配と草木の香りを楽しんでいるようだった。だから千寿は息を潜めて身じろぎもせず、仏像のようにただそこに横になっていた。


やがて、千寿を抱き締めていた中将の君の力がするりと抜ける。身体の上から聞こえてくる安らかな寝息と緩やかに上下する重み。千寿はほんの少しだけ力を抜き、中将の君が安心して眠れるよう、床に落ちないよう、そっとその背を支えた。


——あったかくて重い。猫とは比べものにならないくらい重い筈なのに、何故こんなにしっくりとくるのだろう。彼の胸の鼓動が千寿に伝わり、千寿の鼓動を従えるように先を行き、その内同じ旋律を奏でていく。これもまた合奏なのだと思いながら、千寿は外から聴こえてくる鳥の鳴き声に耳を傾けていた。


「あっ!」

突如上がった声で、ハッと意識が戻る。中将の君が目を覚まして起き上がっていた。

「申し訳ない。寝入ってしまったようだ」

千寿は黙って首を横に振った。

「私としたことが、女性を放っておいて眠ってしまうとは」

ガリガリと首をかいてひどく困った顔をしている中将の君。そんな彼の顔は初めてで、千寿はつい笑ってしまった。すると中将の君は千寿をまじまじと見て手を伸ばしてきた。

「初めて聞いた」

中将の君の手が千寿の頰にかかる。

「初めて?」

「貴女の笑い声です」

温かい手が千寿の頰に触れたと思ったら、その手はすぐに下りて首筋に添い、その親指が咽へとかかる。

 

どきりと胸が高鳴る。



「えい、この!」


直後、掛け声と共に身体中をくすぐり回される。千寿は堪らずに悲鳴を上げて笑い転げた。

「な、何をなさるのです!」

 飛びずさって中将の君と差し向かう。中将の君はニヤリと笑って手の指を折り曲げた。

「笑わせているのです」

笑いながらそう答える中将の君。千寿は悲鳴を上げて逃げつつ、必死に腕を伸ばして中将の君の手を掴んだ。

「お返しです!」

その脇をくすぐり返す。中将の君はやり返されることを予期してなかったのだろう。笑いながら大慌てで逃げ回り、壁に烏帽子をぶつけて頭から落としてしまった。


その時、部屋の外から声がかかった。

「一体何事か?改めさせていただきますぞ!」

野太い男の声。千寿は転がった烏帽子を急いで中将の君に渡すと、その前に立ちはだかり、袿を脱いで中将の君に被せた。

——バン!

戸が開いて護衛の男が二人、顔を覗かせる。

「何事ですか!」

「何事も御座いません。中将様が退屈でいらっしゃるかと少し身体を動かしていただけですわ。ご案じなさいませんよう。それより早くお下がり下さいませんか?」

言ったら、護衛の男らはジロジロと千寿とその奥の中将の君を見て去って行った。

戸を閉めて安堵して中将の君を振り返る。中将の君は無事に烏帽子を被っていたが、千寿を見るなり、飛び付いてきた。

「な、なんということをしているのです!」

「え?」

中将の君は、はだけた千寿の単をきっちりとしめてから、戸をバンと勢いよく閉めて千寿に向き直った。

「あのような男たちに肌を晒すとは!」

「でも、中将様の烏帽子が」

「私の頭くらい誰に見られようと構わない。どうせ直に河原に首が晒される身です。でも貴女は違う。私がここを離れれば、自由になってどなたかに嫁ぐしょう。二度とあんなことはしないでいただきたい」

——嫁ぐ?

それはまるで遥か遠くに感じられる言葉だった。

「いいえ、私は」

そう言いかけて止める。

——もう、誰に嫁ぐ気もありません。


千寿は落ちていた袿を拾うとそれを羽織り、努めてにっこりと微笑んだ。

「お腹が空きましたね。食事を持って参ります」


 小部屋から出たら涙が一粒ぽろりと零れた。


———好きになってはいけない人。はなから分かっていたことだけれど、でももう遅い。そう思った。

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