第4話 声

——チュンチュン。チチチ。ピーヒョロヒョロロ。


鳥の鳴き声が聞こえる。雀と鳶。もう朝だ。

——やだ、蔀戸を開けなくては。新参者なのに寝坊してしまうなんて。

千寿は慌てて身を起こした。が、くらりと目が回って体が覚束ない。

「あ、危ない」

誰かの声がして、千寿は太い腕に抱き留められていた。

「父上?私、一体どうし」

言いかけて、抱き留められていた主の姿に気付く。高い烏帽子に藍色の直垂を羽織った涼やかな目の若い男性。

——父じゃない。


千寿は慌てて飛びずさると床に額を当てて陳謝した。

「申し訳御座いません。何卒お許しを」


床に付けた掌がブルブルと震え、肘がガクガクと動くのがみっともない。でも止まらない。

「何を許すのです?許して頂かなくてはならないのは私の方です。どうか顔を上げて下さい」

穏やかな声に千寿は床から額を離した。でも顔など上げられない。

じっとその場で硬直する千寿の目に藍の色が映り、あろうことか、烏帽子が傾いて礼を取られた。

「お許し下さい。よもや生娘とは思わなかったのです。手馴れた白拍子かと。お父君に大切に育てられてきたのでしょうに私は大変なことをしてしまいました」

——大変なこと?何が?

「どう償いをしていいのか分かりません。今の私には何もないのです。本当に申し訳がない」

頭を下げられ、千寿は混乱する。

「あの、何を仰られているのか分かりません」

そう答えてしまってから、口を押さえる。

途端に蘇る記憶。そうだ、千寿は昨日この建物に入って、琵琶を鳴らして、そして、この貴人に、三位の中将殿と肌を合わせたのだ。いや、違う。肌を晒したのは千寿だけ。中将殿は欲を満たしただけ。確かに千寿にとっては初めてのことで驚いたけれど、女官として御所に上がれば、こういうことは無い話ではないという覚悟はあった。ただ、自分などを相手にしようとは誰も思わないだろうと高を括っていた。それだけ。

「やっと貴女の声が聞けた」

静かな声に滲む喜びの色。千寿は何故か突然泣きたくなった。

——やっと逢えた。


そう言われたような気がしたのだ。そんなことあるわけないのに。


と、ホトホトと戸を叩く音がして、千寿はビクリと肩を震わせた。

「中将殿、朝餉の支度が出来ましたので、中に運ばせて頂いても宜しいですかな?」

藤原殿の声だ。千寿は急いで自分の単の胸元をきっちりと整えた。

「あ、いや。申し訳ないのですが、少々お待ち頂けませんか?昨晩余りに楽しかったので、お酒を頂き過ぎたようです。もし差支えなければ着替えをお貸し頂けたら幸いです。私の分と、それから彼女の分を」

「それは気が利かずに大変申し訳ない。早速この戸の前に置かせましょう。それでは、また午後にでも伺わせていただきます」


言って遠去かって行く人の気配。千寿は自分の分の着替えまで彼が要求したことを不思議に思って我が身を見下ろし、息を呑んだ。単のあちこちが赤く染まっていた。

「こ、これは何でこんなことに。まさか、どこかお怪我でも?」

自分は何かとんでもなく大変なことをしてしまったのではないだろうか。

——父上、母上、御免なさい。私は縛り首で仕方ないけれど、その咎が家族にまで及びませんよう。

祈りながら、藍色の直垂から袖を抜いていく中将の君をじっと見る。でも、その白い単には血が滲んでいないことに胸を撫で下ろす。

「良かった」

ホゥと息をつく。

「何が良かったのです?千手殿」

問われて千寿は顔を上げた。

「はい。中将様がお怪我をされてないようで安堵しておりました」


答えたら、大きな掌が千寿の顔の横に伸ばされた。咄嗟に身を縮こめる。すると掌はサッと引っ込んだ。

「申し訳ない。つい手が出てしまいました。気を付けます。ただ、もう少しだけここに居て、貴女の声を聞かせて貰えませんか?」

「私の声を?どうして?」

「貴女の声がどうしても聞きたくて、昨日は無理をしてしまいました。酷いことをしてしまった。許されないことでしょうが、もう触れませんので、どうか声を聞かせてください」

千寿は首を横に振った。

「私が出来るのは琵琶だけ。歌なども歌えませんし」

「では、琵琶を」

 言って立ち上がる中将の君。戸をスラリと開けるとすぐ外に置かれていた着物を取り上げて戻ってきた。

「でも先ずはお着替えですね。私は少し外しますので、どうぞお着替えを」

丁寧に言われ、勝手が違ってどう答えていいものか戸惑いつつ急いで着替える。平家の公達だからだろうか。このような丁寧な扱いを受けたことがないので面食らうばかり。

 やがて中将の君は戻って来て言った。

「千手殿には誓い合った方などいらっしゃるのですか?」

「誓い合う?」

「添う約束をした殿方です」

言って、じっと千寿を見詰める中将の君。

「いいえ、とんでもない。私のような者など誰も声をかけません」

すると、中将の君はそっと笑った。

「慎しみ深くてらっしゃるのですね。でも、余りに謙遜が過ぎると相手が付け上がりますよ?」

「付け上がる?」

問い返した千寿の前で中将の君は扇をパチンと閉じて目を細めた。

「申し訳ないが、前言は撤回させていただきます。先程、工藤殿がいらして、鎌倉殿のお言葉を伝えて下さいました。こう仰ったそうです。『田舎武士の娘もなかなか良いものですよ。宜しければ千手の前をお側に付けましょう』と。私はその申し出をお受けするつもりです。宜しいですか?」

宜しいですか、と問われても拒むことなど出来る筈がない。

千寿は

「かしこまりました」と頭を下げた。

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