バイバイ
私、雨宮優子はアイスクリーム屋の前にいるあの三人の輪の中に入っていいのか迷っていた。
嫉妬心も起こらないほどの仲睦まじい風景であった。
友達として九頭竜と仲直りしたんだから自然にいけばいいと思う。
だけど足が動かない。今まで自分がしでかした事を考えると、あの中に割って入るのに躊躇してしまう。
……思えば九頭龍武蔵はいつもどこか壁を感じる事があった。
あの子たちといる九頭龍からは壁を感じない。とても自然で楽しそうで……見てて清々しかった。
なんだか電柱の陰で隠れている自分が馬鹿らしくなった。
あの事件の前までは、言葉では九頭竜を信じていると言っていたが、きっとお互い信用しきれて無かったのかも知れないな。
……九頭龍は私にとって親友だった。
良いやつすぎる九頭竜に甘えすぎていたんだ。
「ふぅ……、頭が痛かったから文化祭の準備を切り上げたけど……、今日はもう帰ろう」
……私は私なりに九頭竜と少しずつ友達として歩めばいい。心からそう思えてきた。
また今度一緒にアイスを食べればいい。時間なんて一杯ある。
そう思って足を動かそうとした時――
九頭竜が立ち上がった。
立ち上がった九頭竜が妙な仮面を取り出し、た?
あ、あれは、やっぱり、九頭竜……、ハム助だったのか……。
リスナーからは邪神の仮面と言われているハムスターの仮面。
その仮面を九頭竜が被り、息を大きく吸い込んだ――
私は友人が衆人の前で妙な事をしている気恥ずかしさに襲われる。
あいつは一体何をしているんだ? ここは街中だぞ?
不安で鼓動が速くなる……。
九頭竜、いや、ハム助がサブ次郎さんの曲を歌い出した――
私の足が止まってしまった。
ハム助の歌い出しは声が震えていた。だけど本物のハム助の声であった。期待よりも少し落ちる歌声……。なんだ? なぜあの時歌ってくれた歌声と違うんだ?
まるで手探りで調子を合わせるかのように、喉を試しながら歌っている。
ハム助は有名歌い手だけど、ライブ活動を一切行っていない。
生歌を聞いたことがあるリスナーはいない。
――そういえば九頭竜……、中学の時の文化祭でライブが出来なかったって言っていたな。わたしに話してくれた時の九頭竜の顔は、とても悲しそうだった。
文化祭か……柄になく実行委員をしているが……、一組ライブのキャンセルがあったな。特に埋める予定もなくそのままのタイムスケジュールで行こうと思ったけど――
やはりハム助の歌声に心が入ってこない。私が無駄な事を考えてしまうのがその証拠だ。
通行人はいきなり歌い出した高校生を見て怪訝な顔をしていたけど、歌っているのがハム助だとわかると足を止めて歌を聞き入っていた。
「え? ハム助ってうちの学校なの?」
「うっせ、静かにしろ。歌が聞こえなくなるだろ」
「うん、まあうまいんじゃない? 素人レベルだな」
「あらあら懐かしい曲ね〜、私の青春時代の歌じゃない」
「こんなもんなんだね〜、いやさ、うまいけど……」
「配信の方が良くない? やっぱ加工してるからかな?」
「偽物じゃね?」
あっという間にサブ次郎さんの代表曲を歌い終わった。
確かにうまいが、心をざわつかせるものはない。
サブ次郎さんのミリオンヒットの曲に興味を持ったのか、いつの間にか九頭竜がいるベンチの回りには大きな人の輪が出来ていた。
ハム助を絶賛する者もいれば、期待外れと肩を落とす者もいる。
私は歯がゆい思いを感じた。なぜなら、私が聞いたハム助の歌声、九頭竜の歌声は……こんなものでは無かった。
テラス前の廊下で、このベンチで口ずさんだ歌――
わけもわからず感情が溢れてくる九頭竜の歌声。
画面越しで聞いたものよりも数百倍すごいものだと感じた。
「ん、次はオリジナルの曲だな」
「ああ、あれってハム助の初めて配信した曲じゃん?」
「やっぱ超うまいって、ねえねえあれって本物だよね」
「ん、そうじゃね。早くカラオケ行こうぜ」
ハム助の初めての配信曲。読むだけで痛々しい情景が浮かび上がってくる歌詞。あれは……今思うとあいつの経験だったんだな。
ハム助である九頭龍は仮面を被っているから口元しか表情がわからない。ほんのりと汗を流して歌っている。
さっきよりも歌の安定感がましたが……、いや、まて――
曲の後半に差し掛かるにつれて歌の調子が変わってきた。
九頭竜は泣いているのか? 時折涙声が交じる。それなのに歌声が激しくなりまるで誰かに語りかけているようであった。
九頭龍は異様な雰囲気を醸し出していた。
何か、別れを惜しむような感じがする……。なんだこの人を不安にさせる歌声は……。
観衆を見ると、熱心に歌を聞いている者、飽きてスマホを弄っている者、許可も取らずに写真を取って騒いでいる者、涙を流している者。様々である。
歌の最後に差し掛かる直前、ハム助は歌うのを止めた。
こんな環境で歌うのが嫌気がさしたのか? 音源もなくアカペラで外で歌を歌う。
コンディションとしては最低だ。
というよりもなんでここで歌っているんだ?
ハム助は虚空を見上げて立ち尽くしていた。そして、何か小さく呟いて、仮面を自ら剥ぎ取った。
そこには穏やかな表情の九頭竜がいた。わたしは何故かその素顔を見て息を飲んでしまった。一瞬だけだが、黒いモヤモヤが光輝いたように見えた。
きっと夕日に照らされているだけだと思う。ただそこに九頭龍が立っているだけで幻想的に見えた。
九頭竜から妙な威圧感を感じる。観衆がハム助の素顔を見てざわつく。
私の中にあった妙な不安感が一切合切消えて無くなった。
九頭龍は大きく息を吸い込み、そして――
「―――――――――――――――ッッ」
観衆のざわめきが一瞬で止まった。商店街全域に響く九頭竜の凄まじい音圧による歌声によって私の全身に鳥肌が立った。
これは――、わたしが、ここで聞いた時よりも、すごい……、え、なんで、九頭竜――
九頭龍が素顔のままで曲の最後のフレーズを歌い始めた。
ほんの数十秒で終わる最後のフレーズ。
永遠に続いて欲しいと思える歌声。
心がぐちゃぐちゃにかき乱される。歌詞の情景が勝手に頭に浮かんでくる。体が震えて動けない。わけもなく涙がこみ上げてきそうになる。あいつの過ごした日々が走馬灯のように頭の中を蹂躙する――
だけど、全てのものに終わりはある。
九頭龍が歌い終わると、商店街一帯が静寂に包まれた。
誰も動けないでいた。たった数十秒の歌声で観衆の心を串刺しにして遅効性の毒を仕込まれたんだ。
九頭龍は笑顔で周りを見渡し、たった一言だけ呟いた。
「ハム助とはお別れだ。――俺は九頭龍武蔵だ」
そして、友達と一緒にスタコラとこの場を去っていった。
最後の九頭竜の笑顔で、何十人の女性のハートを射抜いたのだろうか? くそ、あいつは自分の容姿を理解しろ……。
その場に取り残された観衆は今の感情をどうやって処理していいかわからないでいた――が、しばらくすると感情が大きな波となり、大きな拍手と歓声が商店街に鳴り響いた――
私は胸の鼓動の速さが抑えられなかった。帰ろうとした足は学校へと向けていた。
何か動かなきゃいけない。何かしなきゃいけない。私が私として九頭竜の友達としてできる事――
頭の中で、最後の曲を反芻しながら走り出した――
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