バケツ

「もうっ、白戸さんったら、私は大丈夫だよ〜」


 というわけで、次の休み時間の非常階段の踊り場、俺は白戸さんと小池さんの事を話すはずなのに小池さんご本人も何故か一緒にいた……。

 どうやら白戸さんが俺とこそこそしていたのに気がついていたみたいだ。


「で、でも、小池の机が……」

「それも白戸さんと松戸さんと柏さんが別の教室から新しい机を持ってきてくれたでしょ? 本当にありがとね、助かったよ」


 朝学校へ来たら、小池さんの机に落書きがあったみたいだ。

 油性マジックで書かれてそれはひどいものだったらしい。


「うんとね、前の私だったら落ち込んでいたけど、今は九頭龍君ともお友達だし、白戸さんたちも仲良くしてくれるから幸せだよ〜」


「小池……、もっと怒ってもいいんじゃないの? あ、あーしはこんな身なりだからよく勘違いされて嫌な思いする時あるけど、はっきりモノを言うと意外と収まるし」

「うんうん、そだね」

「てか、マジでブチ切れ」

「えへへ、怒るとカロリー使ってお腹減るから〜」


 あっけらかんとしている小池さん

 俺は疑問に思っている事を言った。


「なあ、小池さんへの嫌がらせっていつからなんだ?」


 小池さんは何かを思い出すように考え込む。


「えーと、ずっとだよ。生まれてからずっと。だから慣れっこなはずなのに、夏休み前に心が折れちゃったんだよねえ……。えへへ、限界だったのかな?」


「こ、小池……、あ、あーし……、気がついてやれなくて……ごめん……」

「超罪悪感じゃん……」

「……うち、共感できるかも」


 芸能人の娘として生まれて、ずっと嫌な目にあってきた小池さん……。

 くそ、幸せにしてやりてえな。





 俺はいきなり背中をバーンと叩かれた。どうやら白戸が俺の背中を叩いたらしい。

 ふらっと小池さんの方へと足が進む。


 くそ、なんだってみんな俺の背中を叩くんだ?

 振り向くと白戸さんはそっぽを向きながら顔を赤くしていた。


「ふ、ふん、く、九頭竜が小池のそばにいてあげればいいのよ。……こ、これは命令よ! わ、わたしたちはネイルの手入れがあるから行くわよ。……そ、その、小池、戻ってきたら透明なネイルしてあげるからね」

「うわ、ツンデレじゃん」

「リリーは超良い子だからね〜」


 小池さんは目を丸くして驚いていた。


「あ、ありがと……、えっと、また後でね!」


 ギャル三人組が立ち去る。

 俺と小池さんとの距離は手を少し伸ばせば届く距離だ。

 なんだろう、すごく手を伸ばしたい。だけど、それは……、


 そんな事を考えていると、小池さんは俺の手を引いて階段に座る。

 俺も自然と小池さんの隣へと座る。距離がすごく近い。

 小池さんの肩と俺の肩が触れ合っている。


「えへへ、じゃあお言葉に甘えて、九頭龍君、一緒にいようね? あっ、歌でも歌おうか?」


 そんな事を言いながらも小池さんの顔は少し赤かった。

 なんだか、俺の心がほわほわとしてきた。心臓の鼓動が早くなる。

 俺は、照れくさくてなんだか歌いたい気分になってきた。






「そっか、九頭竜君は前と同じような感じなんだね」

「ああ、でも前よりはマシっていうか、そこまで悪い環境じゃねえな。俺に関心が無い分は問題な」

「……でも、幼馴染ちゃん? えっと、東雲さんだっけ? ……ま、また仲良くできればいいのに」


 小休憩の短い時間だけど、会って話すと心が晴れるんだな。

 これが人との繋がりか。


「日向とはただの友達だ。……それ以上はもう何も起こらないよ」


 あの時、黒い糸が切れたのがはっきりと分かった。

 ……子供の頃の日向はどんな事があっても俺を信じてくれた。いつからだろうか? 中学の頃から薄っすらと前兆はあった。高校に入ってからより一層。信じてくれる時もある、疑っている時もあった。

 きっと俺に対しての心が離れていったんだな。それでも、こんな俺と付き合ってくれるって言ってくれた。

 俺は日向には感謝している。


 ――きっとあれは初恋だったんだ。


 初恋は実らない。だれがそう決めたわけじゃねえが、俺が身を持って体験した。

 正直、今の日向の気持ちをはっきり聞いたわけじゃねえが、あいつの心には大五郎が住み着いている。それが俺に分かってしまう程だ。


 頭にふわりとした感触を感じた。

 小池さんは俺の頭を撫でてくれていた。

 ちょ、恥ずかしい。


「大丈夫だよ。私も一緒にお話するよ〜、誤解で振られちゃったんだから、すぐに元に戻るよ……」


「い、いや、違うんだ。……感覚的な事になるけど、もう俺たちは絶対に同じ関係に戻れないと思うんだ。変な事言ってるかも知んねえけどさ……、糸が切れちまったんだよ」


「糸?」


 小池さんは俺の頭を撫でる手を止める。

 俺は日向との事をあまり小池さんと話したくない。

 なんだろう、せっかく二人でいるのに他の女の子の話なんてしたくない。

 天道は少し違うが……。


「わりい、あんまり気にしないでくれよ。ってか、昼休みはどこで飯食うか? 中庭にすっか?」


「あ、うん! 中庭がいいな〜。あそこはなんか落ち着くんだよね。オブジェも可愛いし!」


「か、可愛いのか……」


 邪神みたいなオブジェだぜ? ……ま、まあいいか。

 そろそろ予鈴が鳴る。もう教室に戻るか。

 俺は小池さんにそう言おうと思った時――






 背筋に電流が走った――

 頭上から音が聞こえてきた。

 時間の感覚がおかしくなる。全てがスローに感じられる。

 そして頭の中で選択肢が――


 ――小池さんを守る。

 ――小池さんを庇う。

 ――小池さんを助ける。

 よくわからないけど、先から感じるのは良い匂いしかなかった。


 とっさに振り返り階段上を見た。

 水を撒き散らしながらバケツが宙に舞っている。

 俺はダンスをするように瞬時に立ち上がり、両手を大きく広げて小池さんの前で仁王立ちをする。


 水が俺の身体を濡らす。バケツが俺の顔に当たる前に、俺は足を高く蹴り上げた。


 ――カーンッというけたたましい音が階段に響く。


 そこで世界が普通の速度に戻った。

 ひしゃげたバケツは階上の天井にぶち当たり、上の踊り場に転がる。

 俺はびしょ濡れだ……。

 俺の事はどうでもいい。

 小池さんは――


「く、九頭竜君!? あ、あわわ、び、びしょ濡れだよ!? は、早く拭かなきゃ風邪引いちゃうよ!?」


「あ、大丈夫だ。まだ暑いし……。小池さんは濡れてねえか?」


「う、うん、ほんのちょっとだけシャツが濡れちゃったけど……、九頭竜君が守ってくれたから全然濡れてないよ……、ありがとう……」


 小池さんは立ち上がって俺の両手を取って何度も感謝を伝えてくれた。

 いや、ちょ、まてよ!? こ、小池さん……


 本当に少しだけ濡れたシャツが透けて、下に着ている肌着が丸見えであった。

 その下のブラジャーも……。

 俺は鋼の意志で視線を向けないようにする。


 それに近すぎるって!? なんでこんなに良い匂いがするんだよ……。

 ……タオル、タオルはどこだ。小池さんのシャツを拭かなきゃ……。あっ、俺、教室にベスト置いている。


「く、九頭龍君!? だ、大丈夫! 顔赤いよ!! とりあえずハンカチで拭くね!」


「ちょ、まって!? じ、自分で拭けるから!!」


「遠慮しなくていいよ! 私は全然濡れてないから。ほら、拭いてあげる……、あっ……わ、私……スケスケだ……!? うぅ……、そ、そんな事よりも九頭竜君の方が先だよ!」


「だーーっ、ジャ、ジャージあるから大丈夫だって!! お、俺も教室からタオルとベスト持ってくるから!!」



 俺はハンカチで濡れた身体を拭きながらダッシュで教室へと戻る。

 濡れている俺を不審な目で見るクラスメイト。気にすんなよ!?

 俺が非常階段に戻ると、小池さんから異様な威圧感を感じた。

 だが、俺に気がつくと威圧感が消える……。


「小池さん、ちょ、これ貸すから着てよ。お、俺のベストだけどさ……」


「あ、う、うん……、あ、ありがとう……、は、早く拭かないと……」


「い、いいからベスト着てって!!」


 俺は小池さんにベストを手渡した。

 小池さんは何故かそれを胸に抱えて、嬉しそうな顔をしていた。

 マジで可愛いんだから今はやめてくれよ! 俺のHPが……。


 小池さんはハンカチで濡れた所を拭いて、俺のベストを着てくれた。

 少し大きめのベストは小池さんでもブカブカだ。

 ……なんだ、これ。俺の服を着てる小池さん……、語弊力が無くなるくらい可愛いぞ。


 深呼吸をする。

 さっきの状態の小池さんは心臓に悪すぎだ。だが、今の小池さんも中々心臓に悪い。


 小池さんは俺の頭からタオルでくしゃくしゃと拭き始めた。

 い、いや自分で拭――


「あがががががっ!?」

「じ、時間ないからちょっと我慢してね!」


 大丈夫、自分で拭けるから……、と言う余裕さえない。

 小池さんの匂いと、タオルによって揺さぶられる脳が正常な判断ができなくなる。

 ……く、苦しいけど、ま、まあいいか。


 ものの一分もかからず俺の濡れた箇所を拭いてくれた……。


「う、うん、これで大丈夫かな? あとはジャージに着替えてね」

「お、おう、ベストは一日貸すからさ……」


 その時、予鈴が鳴ってしまった。


「あっ、もう少しだけ拭くから先に行ってていいよ」

「そ、そうか、じゃあまた昼休みな」


 俺は気恥ずかしさもあって、小池さんの顔が見れない。

 小池さんの弾んだ声が聞こえてきた。


「……あ、ありがとう、ベスト。……へへ、九頭竜君の匂いがするよ」


 思わず顔をあげて、小池さんと目が合ってしまった。小池さんは嬉しそうに俺のベストを触っていた。


 心底可愛くて、頭がおかしくなりそうであった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る