第3話 お見合い相手とトラウマ
『吐くんじゃないよ。おまえは汚い。汚いおまえは、何も食べるな』
パシンパシンと定規が撓る。鞭が撓る。
『お願い、叩かないで。痛いの、痛いの。助けて』
……
…………
わたしは全て吐いてしまった。
これはトラウマだ。
食べさせてもらえなかったのは、わたしが吐いてしまうからだ。
交際するとかしないとか考える前に、わたしは心の病に罹っていたんだ。
こんなわたしじゃ、代役が務まるはずがない。
掌が痛くなると感じた後は、確かに気分が悪くなっていた。
間違った答えを返した後、すごく不安になって、掌が痛くなる。
食べてしまったから吐いてしまったんだ。
水道で口をゆすいで、冷や汗をかいた顔も洗った。
涙が止まらないのは、どうしてだろう。
両親が望んだことすらできない自分に失望したから?それとも、恋をする資格もないと自覚してしまったから?
自立しても、このトラウマから逃げられないと感じてしまったから?どこに逃げても自分からは逃げられない事を悟ってしまったから?
きっと全てだ。わたしはわたしの人生を諦めなくてはならないと気付いてしまった。だから悲しいのだ。
「静美ちゃん、大丈夫?静美ちゃん、どうかしたの?」
(行かなくちゃ……。でも、この涙のワケはどう説明したらいいの?)
わたしは鏡の前で、子供のように泣いていた。
身動きすらできない自分をどうしたらいいのか、分からない。
「静美ちゃん、入るよ」
光輝さんは、女子トイレに入ってきた。
「手に触れられるのが嫌だったのかな?ここから出よう」
光輝さんは、わたしの背中に一度触れて、先に歩き出した。
わたしは、その後を追うように歩いた。そのまま店を出ると、開けられた車に乗った。
「今日は帰ろうか?」
わたしは頷いた。
これできっと嫌われる。二度と誘われることはないだろう。
(お父さんが言ったとおり、普通にしていたら、嫌われたよ。これでいいんだよね?)
それでも、わたしは悲しかった。
汚くて、醜い自分が嫌だった。逃げても逃げても逃げられないことを知ってしまった事が、すごく悲しかった。
…………………………*…………………………
「静美ちゃん、スマホの連絡先を教えてくれる?」
「……え?」
自宅の駐車場に車が駐まったとき、光輝さんがスマホを取り出した。
わたしはトートバッグからスマホを取り出すことができなかった。
連絡先を教えてしまったら、わたしが静美ではないことを気付かれてしまう。
「ごめんなさい。スマホは持ってきてないの」
「そうか、残念だな」
光輝さんはジャケットの内ポケットにスマホをしまった。
わたしはシートベルトを外して、ドアを開けた。
「今日はありがとうございました。さようなら」
車から下りるとき、わたしは丁寧に頭を下げた。けれど、彼の顔は見られなかった。
「静美ちゃん、また会おう」
わたしは首を左右に振って駆けて家の門の中に入った。
どこまでも誠実な人だ。きっと裏の顔はないと思う。
わたしは捕らわれている家に帰って行った。
「お婆さま、ただいま帰りました」
「お部屋に入りなさい、静美ちゃん」
「はい」
わたしは家に帰ると、その足で祖母の部屋を訪ねた。帰宅を知らせなければならない。そういう決まりになっている。
襖を開けて、わたしは祖母の部屋に入った。
祖母は体調がいいのか、ソファーに座っていた。
「こちらにおいでなさい」
「はい」
わたしは祖母の前のソファーに座った。
「光輝さんはどうでしたか?」
「とても誠実なお方でした」
「そうでしょうね」
「はい」
「元気がないわね」
「少し疲れてしまいました」
「帰宅したばかりなのね。ゆっくり休んでいらっしゃい」
「お婆さま、ありがとうございます」
わたしは深く頭を下げると、祖母の部屋から出て行った。
その夜、光輝さんから電話があった。わたしは眠った事にしてもらった。
「伝言だよ。『また会いたい』だそうだよ」
父が部屋に訪ねて来た。
わたしはその伝言をベッドの中で聞いた。
「もう会わない」
わたしは父に告げた。
父は満足そうに部屋から出て行った。
…………………………*…………………………
翌日の月曜日、わたしは学校に出かけた。
「美緒、なんだか泣いた後みたいよ」
黒いロリータの服を身につけた恵が声をかけてきた。
「うん、なんだか眠れなくて、寝不足かな」
「何かあったの?」
「うん、なんだか、いろんな事に絶望しちゃって」
はぁ~と大きなため息が漏れた。
「またお婆さん絡み?」
「そうね。自由になりたいけど、自由になれないって思い知ったの」
「飛び出しちゃえば?」
「恵みたいに一人暮らししてみたいわ」
「私はとても自由よ」
恵は目を細めて、わたしの手を握った。
「掌は痛くない?」
「昨日、すごく痛くなって吐いちゃった。わたし、病気みたい。小さい時、殺されたから仕方ないかな」
「私は美緒を好きだよ」
「ありがとう」
「ところで、宿題のレポート見せてくださらない?」
「いいけど、丸写しは駄目だよ。バレちゃうから」
ノートに書いてきたレポートを、鞄から出して机に置いた。
恵は授業中よく眠り、宿題も忘れてくる。成績順のクラス分けなのに、いつもわたしと同じ上級のクラスにいられるのが不思議だ。
順位も単位もギリギリだと言っていたけれど、基礎学力はあるのだろう。
見た目も不思議な子だけれど、中身もかなり不思議な子だ。
…………………………*…………………………
授業を終えて、学校から出ると、光輝さんが立っていた。
(バレた……どうしよう)
足を止めたわたしの前に、光輝さんは近づいてきた。
「お帰り、美緒ちゃん」
「どうして、その名前を知っているの?」
「昨日、帰ってから至急で調べさせた。姉の静美ちゃんは家出中。学校には通っているみたいだね。友達の家に泊まっているようだ」
「お姉ちゃん、お友達の家にいるの?」
「そして、君は妹の美緒ちゃん。小さい時から虐待を受けていたと家政婦派遣所で有名らしいね。お婆さまに掌を叩かれ続けたんだってね。答えを間違えると叩かれたのかな?昨日の様子を思い出したんだ。とても楽しそうにしていたのに、レモンティーの味を聞いた時から、様子が変わった。間違った答えを答えてしまったのかな?俺には普通の会話に思えたけど、よく思い出してみたんだ。先に意見を言って、俺の答えに答えた。その答えに間違いはないと思うけど、美緒ちゃんには間違った答え方だったんじゃないかと思えたんだ。お婆さま以外にも虐待されているの?それともされていたの?答えたくなかったら、もっとしっかり調べるけど」
「……ここでは話せない。とても長い話になると思うし、わたしが壊れてしまう。昨日みたいに」
光輝さんは、頷いた。そして、俯いたわたしの手に触れてきた。
「手を繋いで歩いてみたいんだ。いいかな?」
「……はい」
「車まで案内する」
「……はい」
光輝さんは、わたしと手を繋いだまま歩き出した。
学校から少し離れた場所にパーキングがあった。車はそこに駐まっていた。
パーキングの自動支払機で支払いを済ませて、車が開錠され、扉が開けられた。
「まず車に乗ってくれるか?」
「……はい」
わたしが車に乗り込むと、光輝さんも車に乗り込んで来た。運転席に座った光輝さんは、スマホ取り出して電話した。
「……今、静美さんと一緒にいます。急で申し訳ございませんが、これからデートをして夕食を食べていきたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
『はい、構いません。どうぞよろしくお願いします』
「では、失礼いたします」
電話に出たのは、母だろう。
光輝さんは、簡単に外出の許可を取ってしまった。
わたしは俯いて自分の掌を見ていた。
今のところ、掌は痛くない。
ずっと痛くならないといいと思う。
「許可も出たから、多少遅くなっても大丈夫だろう」
「わたし、もう食べることはできないよ。きっと吐いてしまう」
「吐いてしまっても、食べて欲しい。その理由も知りたい」
「わたし、汚いでしょ?醜いでしょ?ずっと小さな頃から言われ続けていたの。洋服だって、わたしの為の洋服なんて1着だって買ってもらった事がないのよ。全部、姉のお下がりよ。このカーディガンだってほつれたところを、何度も縫って着ているの。みっともないでしょう?わたしは姉のオマケなの。今は影武者をしているわ」
「まずは駐車場を出るよ。あまり時間が経つと、ロックされてしまう」
「うん」
車が走り出した。
「どこに行くの?」
「そうだね、話をゆっくりしたいから、僕の会社の系列のホテルに行こうか」
「わたしに何かしたりしないわよね?」
「異性として見てもらえているようで、嬉しいよ。今日は話をするだけだ。食事も部屋でしようか?」
「わたし、昨日でお別れのつもりでいたのに……」
「押しつけの婚約者だ。相性が悪ければ別れる選択肢を持っている。けれど、昨日の美緒ちゃんの顔を見ていたら、すごく楽しかった。急変した涙を見たら、気になって仕方が無くなった。助けたいと思うのは傲慢だろうか?」
「すごく傲慢よ。助けられるはずがないわ。もう諦めているの。生きる意味さえないわ。我が家では美緒は消されているの。死人と同じなのよ」
暫く一般道を走ると、車はホテルの地下駐車場に入っていった。
「続きは部屋で聞かせてくれるね」
「人に話せることなんて、そんなにないわ」
車が静かに駐まった。
「話したくなるまで、一緒にいよう」
光輝さんは車を下りると、助手席の扉を開けた。
「さあ、おいで」
わたしはゆっくりシートベルトを外して、車から降りた。
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