教皇聖下、来訪

 ワシリー教皇は予定通り来訪した。すでに前の週には王都に到着し、国王陛下への謁見や王都最大の教会への訪問を済ませている。王都の主要箇所を巡る最後の旅程がキルティング校への来訪だった。

 聖騎士団員に護衛されながら件の馬車が正門に到着したのは、通常であれば授業が始まる時間である。門番は恐縮しながらワシリー教皇を招き入れ、北校舎への一本道を進む馬車を見送った。

 北校舎の前では先入りしていた聖騎士団員と一部の生徒や教職員が整列し、馬車を待っていた。シルクハットにステッキを身に着け、輝かんばかりの正装の生徒だ。その輝かしい集団がクラブロイヤルだった。学長の隣で堂々と佇む姿は国の将来を頼もしく思わせる。

 馬車から姿を現したのは凛々しい顔つきの逞しい男と、白髪に長いあごひげを蓄えた老紳士だった。老紳士は白い祭服に金糸を用いた肩布を重ね、学生たちの歓迎に微笑みを浮かべた。もう片方の男は黒いキャソックに身を包んでいる。馬車を下りるなり老紳士の側に控えた彼をみて、エドワードはわずかに目を開いた。

 まずは和やかに挨拶から始める。エドワードは学長を立て、老紳士——すなわちワシリー教皇との会話は学長の後に行われた。

「お久しぶりです。ワシリー教皇」

「やあ、もう立派な若者じゃないか。大きくなったね、エドワード」

 親しげに笑うワシリー教皇に見事なお辞儀で答える。

「宜しければご同伴の司祭をご紹介いただけませんか。もしかしてネフェロー枢機卿猊下では?」

「ああ。推察の通り、彼がネフェローだ」

 ワシリー教皇は鷹揚に右腕を広げ、黒いキャソックの男を示す。ネフェロー枢機卿は淡々と名乗り、エドワードに頭を下げた。

 教皇の王都来訪にネフェロー枢機卿が同行することは知っていたが、キルティング校には来訪せず王都の孤児院に向かうと聞いていた。視界の端でローズがそっと場を離れる。席次と行程を相応しく変更するのだろう。

 事前連絡なく行われたこの変更は、どうも意味ありげだ。

 エドワードは胸がざわざわとするのを表情に一切出さず、素晴らしい案内人に努めた。

「お会いできて光栄です。短い時間ですが、どうぞ我がキルティング校を楽しんでいってください」

 兎角、長くて短い一日が始まったのだった。



「きゃあっ見えたわ! 本当にいらしているみたい」

「こら、そんなに身を乗り出したらはしたなくってよ」

「隣の神父様は誰なんだ? 教皇と一緒の馬車から下りてくるなんて、すごく偉い方っぽいけど……」

 教室は朝から賑やかで、例の馬車が到着するとより一層激しく湧いた。今日に限っては午前中は全クラス自習で、教室待機を命じられているのに守っている者は一人もいない。

 いや、正確には一人だけ。

「ねーえ、イブは興味ないのお?」

 読みふけっていた本にモリーの影が落ちた。集中がぶつりと切られた感覚があって、イブは顔を上げる。窓から教皇を覗いてきたところなのか、モリーは隣の席に軽やかに腰かけた。長い髪がひらりと揺れた。

「今は自習の時間だよ」

「昇降口にいらっしゃる間くらい、いいじゃない。どうせすぐ校舎に入って見えなくなるんだから」

「うん、良かったじゃないか」

「……なぁんか、余裕って感じ」

 机に肘をついた先の手の平で、モリーの柔らかな頬が形を変える。とぼけたような表情をして一体何を期待しているのか分からない。

 遠くからクラスメイトもちらちらこちらを窺っている。一人だけ、仲間外れのクラブロイヤルが気になるらしい。「ほら、やっぱり身分が」なんて失礼な言葉もあったが、戯言を拾う耳ではなかった。

「不思議と、そこまでワシリー教皇聖下に会いたいわけじゃないかな」

「ふーん。どこが不思議なの? そういう人もいるでしょお」

「神学にはハマってるからさ」

 イブは机の上で本を閉じる。分厚い表紙のタイトルをみて納得したようにモリーが頷いた。

 それは神学の歴史を編纂した貴重な書籍である。キルティング校でもなければ読むことができない複製品で、原本も本校の禁書棚で保管されているらしい。ロニーがクラブロイヤル権限で閲覧した書籍の一つだ。

 神学はイブが生きていくために不要な教科であり、授業も取っていない。けれど実際には知れば知るほど面白い教科だった。正教や聖書への理解が深まり、これまで神父から受け取るだけだった教えを自身で考えられるようになると、これがまた楽しい。もう少し考えがまとまったらロニーと議論してみたい。そしてロニーが、あの清らかで優しい人が、どのように考えているのかを聞いてみたい。

「つまり……神学への興味が深まるほど教皇聖下への興味が薄れてるのね」

 ずばりとモリーが指摘する。

 あまりに的確だったので、手を叩いてしまった。

「そう、そうなんだよ。変だよね」

「……ううん、分かるわ。だって私たち本物に出会ってしまったのだもの」

 モリーは静かに微笑んだ。そんな風に淡く笑うモリーをイブは初めて見た。

「……本物、に」

 ぽつりと繰り返す。確認しなくても、それが誰をさすのか分かった。

 ワシリー教皇は本物だ。だから多くの生徒が期待して、一挙手一投足に群がる。一目見ただけでいい土産話になると、イブだって思っていた。しかし今。教皇に会わなくたって、本物を一目見るどころか話すことだってできる。イブは深く納得してしまった。

「まあ、ただ歩いている姿にはそこまで興味ないけど、講義は楽しみなんだ」

「午後の講義よね。私もロニー様に教わった内容を復習しようかな」

「まさかモリーからそんな言葉聞くなんてね」

「イブこそ」

 二人は目を合わせてにやりと笑い、机の上に教科書を広げた。

 教皇の来訪で気もそぞろなクラスメイトはお喋りに夢中だ。教室の中で静かに自習をする二人は、徐々にクラスメイトの関心から開放されて時間に溶け込んでいくのだった。



 貴賓室にて学長から学校全体の説明を行うと、平民も等しく受け入れるキルティング校の姿勢をワシリー教皇は「素晴らしい」と讃えた。エドワードから見れば社交辞令の域を出ない言葉を学長は嬉しそうに聞いている。良くも悪くも王国において正教の影響は絶大だ。神に最も近しい人物の言葉なのだから当然といえば当然である。

 エドワードは「光栄です」と完璧な笑顔で返した。社交辞令には社交辞令を返させてもらう。ネフェロー枢機卿が注意深くエドワードを伺っていることには気付いていたが、それくらい慣れている。天使に例えられる表情や仕草が綻ぶことはない。

 貴賓室を出るといよいよクラブロイヤルの出番だ。教皇への案内はエドワードが主体となり、補助をフリッツとロニーが担当した。学長は後ろに続くだけで、他のクラブロイヤルや聖騎士団も同様である。

 教皇と母語が同じであるフリッツは頼りになる存在で、ロニーは言わずもがな優秀な神学者である。ネフェロー枢機卿の予定にない来訪にも、二人なら安心して任せられた。

 どこを歩いても目立つ一団だ。校舎内を案内すれば通過する廊下に面した教室からは興奮した生徒の熱気が伝わってくる。ワシリー教皇、ネフェロー枢機卿ともに平然と会話を続け、歩く速度も全く落ちない。彼らも当然ながら注目を浴びることに慣れていた。

「……」

 エドワードは、とある教室の中で馬鹿真面目に勉強している女生徒を見つけた。ヒナギクの徽章を外して、あくまで一般生徒として座っている。その集中力は目を見張るものがあり、これだけ多くの関心が一行に集まっていても目線は本のままだ。

 横の女生徒に小突かれてようやくこちらに気付くと、口を半開きにしてじっとエドワードや教皇を見た。目があった感覚はない。興味なさそうに「ふーん」と言っているのが聞こえてくるようだ。

「……エドワード?」

 ワシリー教皇の声で自分の仕事を思い出す。一瞬、崩れた。あまりない体験だ。

「いえ……どうやら多くの生徒は、ワシリー教皇に同行する謎の人物が気になっているようです」

 エドワードは楽しそうに微笑んで話題をずらした。ネフェロー枢機卿の来訪はキルティング校の権威に対して象徴的であり、どちらかといえば歓迎だ。嫌味のない言い方になるよう注意を払う。

「今回予定を変更されたのには何か理由が? 目当てのものがあればご紹介しますよ」

 半身振り返ってネフェロー枢機卿に声をかける。真正面から見つめた際に、一瞬目が泳いだのを見逃さない。

「目当ては……強いて言えば諸君らだ。王国の未来を担う学生とふれあって自身の見識を深められたら、と」

 ネフェロー枢機卿は無愛想な男だった。眉間の皺は深く口髭は渋く、癖のある黒髪を後ろに撫でつけた髪型がよく似合っている。黒いキャソックも相まってよく言えば厳かな、言い換えれば近寄りづらい印象を受けた。

「これ、ネフェロー。緊張するのは分かるけど、そう怖い顔をしていると皆が逃げてしまうよ」

「……申し訳ない、教え導く立場だというのに」

 低い声はどこか陰気で、深く息を吐いた後に和らいだ顔も依然として厳しい。親しみやすいというよりも厳格な聖職者である。

 教皇は苦笑しながらネフェロー枢機卿をフォローする。

「ご覧の通りの愚直な男なんだ。彼にもっと他所との交流を増やさせたくてね。私もいつまでも教皇ではいられないし……次世代に人脈を継いでいかなければ」

「エドワード殿下、貴殿らにも迷惑をかけた。承諾してくれてありがとう」

「いえ、次期教皇と名高いネフェロー枢機卿の来訪なら大歓迎です」

 エドワードは快く頷きながら、内心警戒を強めた。正教会が次期教皇選出を検討しているという噂は事実のようだ。

 次期教皇についてはワシリー教皇の一存で決まることではない。大司祭以上の聖職者がセントバルタ大聖堂に会し、現枢機卿の中から一人決定される。少なくともワシリー教皇は噂通りネフェロー枢機卿を望んでいることがよく分かった。そしてそれをエドワードに伝えようとしているということも。

 何かを望む気なのか、あるいは静観していろということなのか。意図はまだ読めないがネフェロー枢機卿が急遽来訪に加わった理由もその辺りにありそうだ。

 ネフェロー枢機卿は白々しくも、首を左右に振った。

「次期教皇など私にはもったいないが……せめて期待される姿でありたいものだな」

 自嘲的な表情が傲慢にさえ見える。エドワードは訳知り顔で頷いた。

「あるべき姿でというのは王族にも通じるところがあります。些細な言動で民衆の心は離れてしまいますから。ですがそのように謙虚なネフェロー枢機卿でしたら問題はないでしょう」

 言外に肯定的であることを匂わせる。こうしたいかにも貴族らしいやり取りにはお互い慣れている。ワシリー教皇とネフェロー枢機卿の満足げな表情が、有意義な時間を確信させた。大方、王宮や議会でも同じようにネフェロー枢機卿の顔を売って来たのだろう。

 エドワードにとって今回の来訪は単なる外交の一手である。重大な決定の類はなく、正教会を慮る姿勢を示すことが出来ればそれで成功だ。何百年も昔、正教会から破門された国王が何度も許しを請うたほどに正教会は独立した地位を築いている。上手く付き合っていくべき相手、それがエドワードにとっての正教会である。ワシリー教皇に対面できる栄誉だとか、大講堂にて行われる予定の講義だとかを期待する発想なんて始めからなかった。

 ——ただ、イブにとっては違うようなので。

 最近は許容できる考えが、目に収められる景色が、広がったらしいことをエドワードは自覚している。特に修正するつもりはない。

 一向は図書館、博物館、大聖堂とキルティング校自慢の施設を巡った。王宮や王立施設にも引けを取らない貴重な資料は、正教会を重視している証拠になる。したがって、教皇らを大いに満足させた。

 資料の詳細な解説はロニーが行った。ワシリー教皇やネフェロー枢機卿にも臆さず、普段通りの穏やかな微笑みを浮かべて。正装してなお滲み出る清廉な空気感も相まって、神学において優秀な成績を修めているという紹介の説得力を増大させる。

 驚異的ともいえる知識を垣間見るにつれてワシリー教皇の興味を引くのは当然の結果だった。

「卒業後には大学で神学者の道を?」

「そのつもりです。主の言葉を読み解くだけではなく、人々と教え導くこともしていきたいので——いつかは特定の教会に聖職者として仕えようかと」

「ほう」

 午前中最後の案内場所である大聖堂にて、ワシリー教皇は興味深く頷いている。一人の生徒に興味を持つなんて予定されていない。ロニーが本物だからこそ出来る芸当だ。

 エドワードは機会を逃がさない。

「ロニーは我が校が誇る神学者ですから。教会に所属する際には我々も十分な支援を考えているんですよ」

「それはそれは」

 ステンドグラスを見学していたネフェロー枢機卿も振り返って会話に加わった。その隣でフリッツが微笑みながら注意深く反応を窺っている。

 教会がいつだって潤沢な寄付金を求めていることはよく理解している。歴代何人もの教皇が私腹を肥やし、破滅することなく君臨し続けた。

 ワシリー教皇は勿論、ネフェロー枢機卿の反応も悪くない。次代の正教会も拝金主義は変わらないようだ。ネフェロー枢機卿の目が時折暗くぎらつくのをエドワードは冷めた心に収める。

「国外の教会も検討しているのだろうか。例えば——セントバルタ大聖堂とか」

「勿論です。ですがそのためにはもっともっと努力して、優れた聖職者にならなければなりませんね」

 ロニーの心から紡がれる真摯な答えが、ネフェロー枢機卿に歪んだ笑みを作らせる。なんとも分かりやすく乗り気だ。枢機卿と言えどどうやら外交に関してはまだ青く未熟である。このままあっさりワシリー教皇からネフェロー枢機卿に代替わりすれば楽なのだが。

「ふふ、素晴らしい聖職者が増えるのは喜ばしいことだね」

 ワシリー教皇は簡単に乗ってこない。

「そうそう、正門から校舎に着くまでの間に礼拝堂を見たんだよ。クラブロイヤルの生徒によって講堂から改装したと聞いたけど、それもロニーの話なのかな」

「……。ええ、ロニーは固辞したのですが私が。聖堂の占有もできるのがクラブロイヤルですから、大聖堂とは別に礼拝堂を作りました。そうでもしないと一日中大聖堂にいるのがロニーという男です」

 質問にはエドワードが答える。ロニーを矢面に立たせるつもりはない。

「素晴らしい心がけじゃないか。だが、些か質素に過ぎる」

「……」

 ばち、と何かが弾ける音が聞こえた。

 それはエドワードとワシリー教皇の間でのみ聞こえる音で、穏やかな二人の表情からは想像もできない不穏な響きを持っている。

「ロニー、主の御心を感覚的にとらえるには芸術の力を借りるのが一番だよ。そもそも装飾の類は信仰の証なんだ。それをクラブロイヤルでありながら軽んじるのはいただけないな」

 穏やかな微笑みを崩すことなく、ワシリー教皇は続ける。

「王国にもいい技師がいるから今度紹介しよう。大丈夫、今は未熟でも君はきっといい聖職者になるだろう」

 直接見ることはできないかもしれないが、とわざわざ付け加えた。こう明確に牽制されては、ロニーの表情も一瞬陰る。あからさまに固まったネフェロー枢機卿よりはましな反応だ。ネフェロー枢機卿の言動はあくまで何気ない冗談の範囲に留めるつもりらしい。

 さすがにクラブロイヤルの人間が送り込まれるリスクをよく理解している。正教会の内部に王国の人間がいれば、いくらでも利用できるのだが。

 凍えるような冷たい時間が過ぎる。ワシリー教皇の微笑みは無機質で、ネフェロー枢機卿に至っては笑顔が引きつっていた。外交慣れしたクラブロイヤルですらその一瞬言葉を探して口を閉じることを選ぶ。大聖堂の澄んだ空気がより一層温度を下げるようにも思われた。

 しかしその冬の聖堂の中で、エドワードだけは春の微笑みを浮かべていた。この程度では崩れない。

「ええ。期待していてください。僕の戴冠式には間に合うでしょうから」

 戴冠式では聖職者が王冠を載せる役を担う。

 挑発的ともとれる言葉を、ワシリー教皇は老獪な笑みで受け止めた。

「……ああ、楽しみだ」

「ふふっ、ではそろそろ昼食にしましょう。午後も素晴らしい時間になります」

 エドワードが踵を返すと自然と聖堂中の視線が集まった。さりげない仕草まで計算されたように完璧で、ネフェロー枢機卿さえ目を奪われる。天に遣わされた何者かに見えることをエドワードはよく知っていた。

 丁度、示し合わせたかのように昼休みの鐘が鳴った。

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