告解室の秘密
昼休みも早々に大講堂の席は生徒で埋まり始め、たちまち学生らしい賑わいを見せた。昼食もろくに食べず席取りをする生徒が一定数いるのだった。午後の催しは自由参加だったが、結局ほとんど全校生徒が参加することになるようだ。おそらくロニーが講義を行った効果もあるのだろう。初期の案では大聖堂だったが、全校生徒を収容できる大講堂に変更して正解だった。
壁際には一定間隔で聖騎士団が直立し、大講堂の外側にはキルティング校が手配した警備兵が並んだ。大講堂の壇上には生徒の発表に向けて組んだ足場がある。それらもまた生徒たちの非日常感を煽った。
大講堂に予鈴が響く。
その頃にはほとんどすべての席が埋まり、大講堂の空気が熱をもった。好奇と期待が膨らんで生徒の頭を蝕み麻痺させていく。
そして本鈴が鳴った。
やがて壇上にエドワードが姿を現すと、大講堂は水を売ったように静まった。後ろにワシリー教皇、ネフェロー枢機卿、ロニー、フリッツと続き、全ての視線が壇上に集まる。
「キルティング校の皆さん、本日はこのような場を設けていただいたことを光栄に思います——……」
ワシリー教皇が軽く挨拶をするのを、エドワードは笑顔で聞いている。左右の大きな窓から差し込む光が壇上の教皇らを照らし出し、素晴らしい時間になることを生徒たちに予感させた。
「——今日はよろしくお願いします」
挨拶を終えると大きな拍手で迎え入れられた。すでに涙を流す生徒もいた。教皇は笑顔で応え、エドワードに導かれて大講堂中央の貴賓席に移る。壇上を最も見やすい位置に用意しており、ネフェロー枢機卿の席もしっかり用意されていた。予定にない来訪でもローズの手配に抜かりはない。
まずは生徒によるもてなしとして、各活動団体の発表が行われた。司会はルーベンが担当する。
演劇部とオーケストラ部による歌劇の抜粋、吹奏楽部による近代曲の演奏、成績優秀者による二言語での詩の朗読、合唱部とオーケストラ部によるクラシック音楽の演奏、そしてロニーのパイプオルガンを伴奏にした聖歌斉唱——完成度の高さはもちろん学生らしい新鮮さもあり、ワシリー教皇やネフェロー枢機卿を驚かせる。
ワシリー教皇は称賛の言葉を惜しまない。一つ一つの発表に感嘆し、しっかり言葉にして伝えると、生徒たちは心から喜んだ。誇らしそうに頬を染めたり、顔を真っ赤にして目を潤ませたりと様々だ。
正教会の影響力を見せつけられる。ネフェロー枢機卿の拍手一つ、ワシリー教皇の笑顔一つ。たったそれだけで人間の心は大きく動く。
エドワードは完璧な案内役に徹し、求められれば補足を行いワシリー教皇を飽きさせなかった。ワシリー教皇の目や口に浮かべた笑顔には徐々に本物の色が混ざって、この催しを楽しんでいることが労せずとも分かる。
ここまで来れば此度の応対は成功したも同然だった。
すべての発表を終えて惜しみない拍手を送ると、ワシリー教皇は立ち上がった。
「素晴らしい発表をありがとう」
朗々たる声だ。各自発表を楽しんでいた生徒たちの背中が伸びる。
「次は私の番だね」
ワシリー教皇は聖書を片手に壇上に進んでいく。見られることにも大勢を前に話すことにも慣れていて、穏やかな様子だ。そしてそれは聞く者に安心感を与える。
大講堂は息をするのも躊躇われるような緊張感が漂っていた。ワシリー教皇の講義を聞き逃すまい、見逃すまいと生徒たちが注目しているのだった。
高揚と期待の中、壇上に立つワシリー教皇に淡く光が降りた。
「今日はユーヴェの書より第十五章を——」
特別講演は静かな言葉で始まった。
ワシリー教皇が選んだのは聖書の中でも学問の徒が登場する場面である。キルティング校で保管している美術品の中にも同じ場面を扱ったものがいくつか存在し、それらを例に挙げることで非常に分かりやすい構成となっていた。学生に合わせて難しすぎず簡単すぎない解説を行うところは流石である。
聞きやすい声からは穏やかな人柄が伝わってくるかのようだった。授業というよりは楽しんで理解を深める場となるように、通常教会で行うような教えよりも砕けた雰囲気で講演を進めていく。
「——……?」
しかし、一部の生徒は首を傾げた。
素晴らしいはずの講演に、期待していたほど心が動かない。
困惑に似た感情を浮かべるも、周囲の生徒の反応を見てすぐに取り消す。何もおかしなことはない。ワシリー教皇の講演はちゃんと面白く、分かりやすく、感動して打ち震える生徒だっている。生徒たちは愚かで失礼な考えを頭から振り払った。
きっとワシリー教皇は何も悪くなかった。ロニーの授業を初めて受けた時の衝撃があまりに大きく感動が薄れてしまったのだ。そう解釈した生徒たちは各々納得して講演に意識を集中させた。
知っているはずの聖書の言葉が、講演によってどんどん深く解説されて新しい意味を見出していく過程は、一部の生徒にとって刺激的な体験だった。神学の授業を受ける学生が増える日は遠くない。
「……——以上、ご清聴を感謝します。キルティング校の皆さん、本当にありがとう」
ワシリー教皇は壇上で深く頭を下げた。割れんばかりの拍手が大講堂に響き渡る。
その豪雨のような音の中、エドワードは静かに壇上へ向かった。瞳は感動に煌めかせ、拍手で感謝と礼賛を示し、足取りは優雅の体現だ。弾けた熱気は消えず、ルーベンが「静粛に」と声をかけてもなお微かな熱が名残る。
長く続く熱狂の中でエドワードが感謝の言葉で場を終えようとした、その時だった。
ワシリー教皇が合図すると共にネフェロー枢機卿と二名の聖騎士が壇上に上がった。
必然、エドワードを取り囲む形になり、壇下のカイが上着に手を入れるのが見えた。隠し武器の類だろう。
「……どうかなさいましたか?」
予定にない行動だ。多くの生徒や警備兵に囲まれた状況でカイが不安視するような事象が起きるとは思えず、エドワードは紅茶に砂糖を入れるか聞く時のように悠然と尋ねた。
目を合わせたワシリー教皇は穏やかな微笑みで答え、生徒に向き直った。
「今日はせっかくの機会ですからちょっとしたサプライズを用意しました」
「……お心遣い感謝します。一体……」
「私とネフェローとで、告解を聞こうかと」
「!」
エドワードは微笑みこそ崩さなかったが、それなりに驚いた。簡単な贈り物にしても予告なく行われるなんてありえない。しかも教皇と枢機卿相手に告解するなんて、セントバルタ大聖堂を訪ねても難しいだろう。ローズとジェイデンが手配のために素早く姿を消すのが見えた。
「急な申し出で迷惑をかけるけど、いいかなエドワード」
ワシリー教皇の目には確信めいた煌めきが宿っている。断れないことを分かっているのだ。
「——勿論です」
エドワードが頷くと、大講堂は歓声に包まれた。生徒たちの胸は期待で膨らみ、拍手喝采でこの素晴らしい企画を受け入れる。
ネフェロー枢機卿に導かれた聖騎士は、ワシリー教皇の前に箱を置いた。演台に乗せるには些か大きく上部に穴が開いている。抽選用のくじ箱のように見える。
「これは先程学長に頼んで用意していただきました。私とネフェローとで五名ずつが限界ですから、くじで決めようかと」
頼んだわけでもない説明をつらつらと続ける。
「相手を知らないよう、私とネフェローは先に大聖堂に移動させて貰います。今日は本当にありがとう」
ワシリー教皇が頭を下げると、再び拍手が巻き起こった。
エドワードはロニーとフリッツに合図をして大聖堂への案内を任せる。こうも堂々と宣言されては仕方がない。国賓たっての希望は嫌でも叶える義務がある。
「後はその聖騎士に頼んでいるから」と笑って、ワシリー教皇とネフェロー枢機卿は大講堂を後にした。
勝手なことを言ってくれる。大講堂はすでに誰が選ばれるのかと盛り上がり、講演を聞いていた時のような静寂はとっくに失われてしまっていた。生徒の顔をずらりと見比べるとその大半が興奮していて祭りか何かのようだ。
「それでは抽選を始めさせていただきます」
「告解を希望されない方はご歓談をお楽しみください」
「学年や所属に偏りが出た場合にはご容赦を」
二人の聖騎士は無機質な表情をしていた。厳格な、というよりはよく鍛えられた軍人のそれだ。壁に控える聖騎士団は誰もかれも似たようなものである。
聖騎士はくじを取り出し、一つ一つ読み上げた。
「アイリーン=ガーランド」
「フィリップ=フォリスター」
「名前を呼ばれたら一度壇上へお願いします」
淡々と抽選をすすめ、そのたびに大講堂のあちこちで歓声が巻き起こった。選ばれた学生は歓喜に震えたり、弾けるような笑顔を見せたりと様々な反応を見せながら壇上に集まっていく。選ばれなかった学生も羨ましそうにしているかと思えば、自分のことのように喜んでいたりもして、この抽選だけですでに催しとして大きな盛り上がりを見せている。
早々に出る幕がなくなってしまったエドワードは、選ばれた学生に「おめでとう」と声をかけながら嫌な予感を拭えないでいた。
丁度、最後の一枚を聖騎士が読み上げる。
「——イブ=ベルベット」
その名前が響いた瞬間、大講堂が静まり返った。
まるで時間が止まったかのようだ。
「? イブ=ベルベット、いませんか?」
聖騎士は不可解そうに大講堂を見渡した。
探す必要はない。彼女の居場所なら、生徒の発表が始まる前から把握していた。
すべての生徒たちの視線の先にイブは座っている。いつものとぼけた顔をしてすっくと立ち上がると、そこでようやく大講堂の時間が進み始めた。生徒たちが一様に顔を見合わせ、ざわめきが広がる。
「おや、人気者ですね」
聖騎士は嫌味とも褒め言葉ともいえない感想を呟いた。微笑むエドワードの額には汗が浮かんでいた。
告解は神と司祭の前で自らの罪を明かす行為である。人々の深い反省によってなされ、神はゆるしを与える。司祭は神の代理人であり、たとえどんな罪を聞いたとしても告解室での秘密を持ち出してはならない。極端な話、殺人罪を聞いても通報してはならないのである。
選ばれた生徒も選ばれなかった生徒も、己の罪に向き合うことを考える。一瞬であったとしてもそれは意味のあることだった。それだけでこのサプライズは成功したといえる。
大聖堂には選ばれた学生の他にもまばらに人影があった。聖騎士団や、教師である。少し離れて冷やかしの生徒もいるが、告解室周辺は立入禁止区画とされていた。全員が二つの告解室に順に案内される生徒を見送り、小声で会話しながら時間が過ぎるのを待っている。
予定していた催しはすべて終え、告解室はあくまで厚意で行っているものであるため、教師や学長はあからさまにほっとした表情で雑談に花を咲かせていた。
大聖堂の中央にクラブロイヤルが揃って座っている。告解室の入退出を静かに見守る彼らは会話を楽しんでいる雰囲気ではなく、冷やかしの生徒や教師も遠巻きにしていた。暇そうなので話し相手になってほしかったが、イブは順番待ちの椅子で待機せねばならず退屈だった。
告解室は大聖堂の左右の壁際にひっそりと設置されている。普段から土日には神父を呼んで使われているらしい。イブは初めて知った。
「イブ=ベルベット」
「はいはい」
聖騎士に呼ばれて立ち上がる。どちらの告解室に誰がいるのかはよく分からない。
とんだ豪運を発揮したものだ。イブは講演の内容に興味はあっても告解室には用がない。モリーに譲ろうとしたのだが聖騎士は石のように冷たく却下した。曰く、忖度や権利の売買が発生しないように抽選したのであって、遠慮するのはむしろご厚意を無下にすることになる、らしい。
案内してくれる聖騎士は無表情ながら、けろっとしているイブを信じられないといった目で見てくる。喜びだとか感動だとかが一切なくて申し訳ないが、興味がないものは仕方がないので開き直っている。
背中に視線を感じて、振り返るとエドワードがこちらを見ていた。目が笑っていない。
「……」
あれ、もしかしてここは礼法の成果を発揮するところなのだろうか。意味ありげな視線が何を言いたいのかよく分からない。イブは首を傾げながら告解室の扉の前に立つ。
扉を開けるには一呼吸必要だった。故郷バレットコットの教会にも告解室はあったがイブは利用したことがなかった。神父と懇意にしていたこともあり、素性を隠さず堂々と告解していたからだ。
考えていても仕方ない。イブは思い切って扉を開け、その小さな薄暗い空間の椅子に腰かけた。
「どうもよろしく」
「こんにちは」
仕切り板の向こうから、穏やかな声が返ってきた。講演で聞いたばかりのワシリー教皇の声だ。網目状の仕切り板では相手の顔までは見えにくいが、呼吸をすればその音さえも聞こえそうな距離に彼の人がいる。
二人きりの告解室は案外静かだ。大聖堂の会話がもう少し聞こえてくるかと思ったが、漠として内容までは掴めない。告解室の役割を考えれば、防音性があるのは必然である。
「えーっと、悪いんだけど特に告白したい罪はないんだ」
思い切って正直に白状すると、いいんだよ、と優しく答えてくれた。ほっと胸を撫でおろす。
「では何でもない雑談をしよう。王国の学生と交流するのも重要なことだからね。私に学生生活について教えてくれないかい」
「学生生活……? うーん、多分普通じゃないかな。勉強したり、休みの日にはたまに街に出掛けてみたり——」
「ふふ、まさに青春らしくて微笑ましいな。街では面白いものが見つけられるだろうね」
「そうだね可愛い便箋なんかがあったよ」
「素敵だね。他にも?」
「刺繍の糸とか沢山種類があってね、美味しい肉料理の店も楽しかったな」
「ふふ、聞いているだけで私も楽しいよ。街には他にどんなものが?」
「大きな教会もあるらしくて、併設した診療所と孤児院にロニー先輩がよく手伝いに行っているんだけど——いつか私も行ってみたいと思ってるんだ」
「ああ、クラブロイヤルの。優秀な学生のようだね」
「うん、本当にいい先輩なんだ……、……?」
答えながら、ささくれのような違和感を覚える。
ワシリー教皇は穏やかな口調で内容も平和的なのに、追い詰められているような形容しがたい空気がある。網目状の仕切り板の向こう、ワシリー教皇は微笑んでいた。
「学生の目線は新鮮でいいものだね。知っている街なのに違って聞こえるよ。もっと聞かせてくれないかい」
「……」
イブは言葉をとめた。
学生生活という割に、どうしてこうも街の話ばかり。
「どうしたんだい、イブ。続けて」
「……私、名乗ったかな?」
思いのほか、鋭い声が出た。
ここは匿名性が重視される告解室で、イブはくじで選ばれた学生のはずだ。どの生徒が選ばれたのかワシリー教皇とネフェロー枢機卿には伝わっていないはずだ。それか、国賓ともなると違うのだろうか。そもそもセントバルタ大聖堂では事前に素性を明かすのが主流なのかも。
「……交流のために名前だけは事前に教えてもらっていてね」
「ふーん」
イブは仕切り板の向こうの人間をよくよく観察する。ワシリー教皇は返事を数秒躊躇った。その数秒が答えを物語っている。
ワシリー教皇が話したいのは、“街で見つけられる面白いもの”だ。
「——もしかして、枢機卿猊下の娼館通いについて話したいの?」
「……やはり、覚えていたな」
ワシリー教皇の声色ががらりと変わった。
教室前の廊下をワシリー教皇やクラブロイヤルの一行が通り過ぎた時、見知った顔があってイブは驚いた。休日に迷い込んだ娼館の前でぶつかった、赤ら顔の男がネフェロー枢機卿を名乗っていたのだ。
「くじに細工をしたんだね」
ため息交じりに呟いても、否定はされない。
イブは豪運を発揮したわけではなかった。聖職者の醜聞について話すためにわざわざ選ばれたのだ。がっかりというか拍子抜けというか、脱力してしまう。
「告解室ほど秘密を語るに相応しい場所はない」
対してワシリー教皇はぴりついた雰囲気を発している。ような気がする。
「覚えているなら交渉させてほしくてね。イブ、君の口を塞ぐ方法を提案させてくれないかい」
「私の? 聖職者なんてよく娼館を利用するものじゃないか」
「……残念ながら我々の世界と君の常識とは違うんだ」
「ふーん」
分かったような分からないような相槌をする。
イブの常識では、聖職者も貴族も平民も、男は誰だって娼館に来るものだ。娼館が身近だったので噂話はよく耳にした。しかし、だが、もしかして、一般的には聖職者が娼館に足を運べば信用はがた落ちなのかもしれない。
「では一つ目の提案だ。セントバルタ大聖堂に来る気はないかい。君が黙っていてくれるなら、いい役職を用意しよう。その価値はよくわかるね?」
セントバルタ大聖堂は各国の王家と対等以上に話を進められるほど特殊な地位にある。バレットコット出身者が選ばれたとあっては街に像が出来てもおかしくないような、大変な栄誉である。また、ロニーのように素晴らしい聖職者でさえ望んで行ける場所ではない。
しかし。
「別にいいかな。私、卒業したら故郷に帰るつもりだし」
キルティング校で学んだことは商会で活かすことになっている。人並みにやりたいこともあるので、セントバルタ大聖堂で清貧な暮らしなんて困るのだ。
「ふむ、では免罪符などはいかがかな。君でもご実家でも、必要とする人はいるんじゃないかい」
「……免罪符」
「おや、成程。ふふ、もちろん興味があるだろうね。将来、君が望むタイミングで発行してあげよう」
破格の提案だ。現世での罪を免除するその書状を多くの貴族や有力者が求めていると聞く。イブがどんなことをしたって免除されるのであれば、とても心強くはある。
しかし、ロニーは免罪符に否定的だった。聖書には書かれていないと言っていた。ワシリー教皇を疑うつもりはないが、ロニーのことは信頼している。
「うーん、でも少なくともこうやって貰うものではないと思うからいらないかな」
「……では、俗物的だが美術品数点はどうだろうか。入手困難な逸品を選出しよう」
「いや、その」
「必要なければ売ってもらっても問題はない」
「だから、そうじゃなくてさ」
次々と提案してくるワシリー教皇をなんとか制止する。このままでは一時間でも二時間でもイブがうんというまで続きそうだ。
「あのねえ、そんなものなくたって秘密は守るよ」
イブははっきりと告げた。
告解室の中は、数秒間静寂に包まれる。網目状の仕切り板にも慣れて、向こうにいるワシリー教皇の様子も分かってきた。困惑している。
「言ってほしくないことなんだろう、言わないよ」
イブの大好きな神父はそういう人だった。きっとロニーもそうだ。イブは別にネフェロー枢機卿が娼館に行ったとしても、枢機卿としての素晴らしさは損なわれることはないと思っているが、それとこれとは別の話である。
ワシリー教皇の空気が緩んだ。
「……優しいお嬢さん。ありがとう」
「うん、いいんだ」
「でも我々も安心したいんだよ。分かってくれるね?」
ワシリー教皇は子供に言い聞かせるような優しい声で言った。その意味は分かるが、悲しいようながっかりしたような気持ちになる。
だってロニーならきっと信じてくれた。
「……じゃあバレットコットの孤児院を支援してくれたら嬉しいかな。契約書を書こうか?」
「……いいだろう。交渉成立して嬉しいよ」
「どういたしまして」
イブは椅子の背に体重を預け、深く息を吐いた。聖職者は人なのだ。教皇や枢機卿でさえ欲や権威を切り離せないでいる。だからこそ故郷の孤児院に力添えできることがうれしく、どこか虚しい。
契約書の書面は後日、と話がまとまったのでイブは腰を浮かせた。告解室はもう終わりだ。
「そうだイブ、これを返そう」
上機嫌なワシリー教皇の声がイブを呼び止めた。
告解室の向こう、網目状の仕切り板の下をくぐらせて生徒手帳が差し出される。
「……やっぱりね」
感謝を伝える気にはなれなかった。この生徒手帳がまさかこんな奇妙な縁を運んでくるなんて。
イブの生徒手帳はまだ新しいが、地面に落ちてか土汚れがついていた。別に拾ったからといって綺麗にする必要はないのに溜息をつきたい気分になる。
イブはポケットからハンカチを取り出した——。
——カラン。
金属質な音が静かな告解室に響く。それはイブのポケットを飛び出して机の上に転がったのだった。
「急がなくても大丈夫だよ」
小銭でも落としたのだと思ったワシリー教皇は優しい声をかけ、直後それを見つけて息を呑んだ。机の上でキラリと輝く金色は、仕切り板越しでもはっきりととらえることができる。
それは、金のヒナギクの徽章である。
「——逃げ切るつもりだったか」
暗く低い声だった。優しかったはずのワシリー教皇が深く眉間にしわを寄せていた。
「何の話だよ」
怒られるようなことではないはずだ。今日のイブはクラブロイヤルではなくて一生徒なのだから。外してポケットに入れておいただけの話である。
しかしワシリー教皇の反応は芳しくない。低く唸り、額を押さえる。
「クラブロイヤルは全員紹介されたと思っていたんだが」
「いや、私は新入りなんだ。ろくに礼法も覚えてないのに教皇聖下の前には立てないよ」
「どうだか。舐めたことをしてくれる」
「? 何が問題なのかわからないな」
イブは首を傾げた。契約書は書くし、口外するつもりもないのに。
ワシリー教皇のため息が告解室に響く。
「——クラブロイヤルの口が孤児院への支援で塞げるかね」
鋭い声に口を噤む。クラブロイヤルに来る前の経験が警鐘を鳴らした。イブが嫌な思いをした時、周りにいた人間は決まってどろりとした厳しい目を向けた。憎しみに似た何かが声に滲んでいた。
「あー、騙そうとしたわけじゃないよ。でも、なら、それもふまえて真面目に考える」
直感的に理解する。ここは手綱を握った方がいい。
最終的な口の封じ方は容易に想像できる。教皇ともあろうものがそんなことをするはずはないのだが、頭に浮かんでしまったものは仕方ない。イブはしばらく黙り込んだ。
出来るならイブが口外したいと思えないほど素晴らしく、かつクラブロイヤルには用意できない好条件。かつ脅迫の要素も含むように、イブが口外したら損をして、その補填がクラブロイヤルにはできないような条件。
「……いつかロニー先輩の望むままに力添えしてほしい。信仰に殉じる人だろうから」
「……」
「これよくないか」
我ながら良い出来だ、と胸を張る。
「……、……考えたな」
ワシリー教皇は小さく呟くと、目を鋭く細めて考え込んだ。指先で長い口髭の先を弄んでいる。本気で思索する際の癖のようだ。もし指摘したら口外してはならないことに追加されそうなので黙っておく。
沈黙は長くは続かなかった。ワシリー教皇は判断が早いらしい。
「いいだろう。今後君が黙っているのなら、ロニーが聖職者として成功し不自由なく生きていけることを保障しよう。ただし破った場合は今後彼が正教に関わることが出来なくなると思ってくれ」
「……いいよ、私は秘密を守る」
黙っていてほしいと言われた秘密はちゃんと黙るタイプである。そう頼まれなかったアレコレを話して口が軽いと怒られるだけで。
仕切り板ごしに二人は固い握手を交わした。そしてワシリー教皇は穏やかで優しい教皇の顔に戻り、イブも金のヒナギクをポケットにしまう。
告解室の秘密は外に持ち出してはならないと決まっている。
すべては閉鎖した告解室の中に丸く収まったのである。
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