イブ=ベルベット
ランプに照らされた薄暗い遊戯室に硬質な音が響いた。ルーベンはポケットインしたビリヤードの球を取り出して、よし、と軽く拳を握る。対するジェイデンは拍手でルーベンを称えるも、廊下側の扉を気にしていた。
イブがエドワードの部屋に入ってしばらく経った。同じ階とはいえ遊戯室から二人の様子は分からない。カイに至っては表情を殺し、いつでも駆け込めるように廊下で待機している。
遊戯室には二人を除くクラブロイヤルが全員揃ってエドワードを待っていた。侍女として待機しているローズに対して、リリーとビオラは仕事終わりのレモネードを楽しんでいる。彼女たちは本来エドワードの婚約者に名前が挙がってもおかしくないような名家のご令嬢であり、こういうときでもなければ本来の姿は拝めない。
フリッツは同じレモネードを片手にビリヤードを観戦しており、ロニーは相変わらず聖書に夢中だ。ルーベンとジェイデンの試合を含め、彼の人を待つ間の時間つぶしだ。
イブ=ベルベットの存在をクラブロイヤルは持て余している。
エドワードが気に入っており、クラブロイヤルという籠に捕らえるという結論だけが決定しているが、一方でエドワードの側に置くには何かと問題が多い。カイがイブの部屋を隣室にするよう提案したのもそんな事情を加味したものだった。本来寮の一階は金の徽章を持つ人間が入る場所ではない。
——イブ=ベルベットがエドワードの味方足りえる人物か。
それが近頃のクラブロイヤルの専らの関心である。
ワシリー教皇の来訪もいい機会だった。学校内を聖騎士団などの部外者が出歩く環境では密偵が動きやすい。イブの部屋は一階でも外部と連絡を取りやすい中庭側の部屋だった。カイの監視下において、現時点では外部との接触は見られていない。
「ねえジェイデン、白か黒か賭けてみる?」
キューを構えながらルーベンは呟いた。定めた狙いの先で紫色の四番ボールが佇んでいる。
「そんなの賭けにならないだろ」
ジェイデンは肩をすくめ、馬鹿馬鹿しい誘いを断った。カッ、と小気味いい音を響かせ、白球が四番ボールをかすめて転がった。そうそう連続して取られたりはしない。
ちぇ、と口をとがらせルーベンはフリッツの肩に手をかける。年が離れていることもあり、そうしていると友人というよりは兄弟のようだ。
「フリッツはどう思う?」
「……白ではないでしょうか。今のところ寮で秘密文書を漁るような動きもないですし、何かを企んでいるようには見えません」
「いやぁ、特殊な色仕掛けかもよ?」
「あんな色仕掛けがあるとは思いたくないけどな。むしろ違っていてほしい……」
ジェイデンはボールの軌道を考えながら息を吐く。あんまりな言い様にルーベンは吹き出した。なぜローズが笑わずにいられるのか信じられない。
ルーベンも同意だった。イブは少し、いや、かなり変わっている学生だが、少なくともスパイの類ではない。むしろどの派閥にも属していないからこそ、今後厄介な存在となりうるのだ。
すでにイブを通じて仲良くなろうとする生徒がいることはクラブロイヤル全員が把握している。先の週末など、二人の男子学生が事前連絡もなくエドワードに話しかけて、貴重な時間を消費させてしまった。話を聞けばイブを通じて接触を画策していたらしい。
件の男子学生二人の実家は帝国の人間と懇意にしている、典型的な親帝国派だ。エドワードが様々な生徒と交友関係を深めるのは大いに結構だが、政治的意図があるとなると話が変わってくる。エドワードはそう気軽に接触できる相手ではない。
クラブロイヤルはエドワードのために存在する。エドワードを煩わせることなどあってはならない。当然ながらイブにも相応の身の振り方を覚えさせる必要があった。スパイかどうかよりも今後のイブの扱いに頭を悩ませる。
「わ、流石です」
フリッツの弾んだ声に顔を上げると、ジェイデンの狙ったボールがポケットに吸い込まれていく所だった。しかも五番ボールだ。
九番ボールを落とした方が勝ちのナインボール、数球連続でポケットされても許容範囲だが、ジェイデンが手強い相手には違いない。面白くなってきた、とルーベンが唇を舐めたとき、廊下の扉が開いた。
カイが押さえる扉を抜けて、エドワードが現れる。髪も衣服にも乱れはなく、完璧な王子殿下である。隣にイブの姿はない。
「イブちゃんは?」
「眠ってるよ」
ルーベンが軽く尋ねると、軽く返事が返ってきた。誰もが聞き間違いかと思ったが、不機嫌そうなカイを見て事実らしいと理解する。
ロニーは生徒の失態に額を押さえて唸った。すみません、と申し訳なさそうにするもエドワードは全く気にしていない。
「誘ってみたつもりなんだけど乗ってこなかった。悪いことをしたかな。でも……ふふっ、一瞬で寝ちゃってね……飽きないな」
「嘘みたいな人ですね……」
フリッツは口元に両手を添え、困惑まで愛らしく見せる。下がった眉は頼りなく、上目の瞳はか弱い少年のそれだった。
エドワードは口を押えて笑いをこらえられないでいる。いつも余裕を浮かべ完璧な姿を崩さない浮世離れした人間だったが今は違う。クラブロイヤルは思い思いにこの珍しい光景を受けとめた。
エドワードが遊戯室の中央にある椅子に着席すると、リリーがブランケットを手渡し、ローズがサイドテーブルにレモンティーを並べた。寛いでいてもエドワードの完璧さは全く損なわれることがない。
「バレットコットはどうだった?」
膝を組み、ジェイデンに微笑む。ここ数週間、ジェイデンは学校を欠席しバレットコットに滞在していた。バレットコットは帝国との国境近くの交易都市である。
「僕ら帝国の人間もよく利用する都市ですよね。空気がきれいで活気があると聞いています」
バレットコットと聞いてフリッツが声を弾ませる。
一方、ジェイデンは苦笑した。
「中心街を外れた貧民街のあたりはそうでもなくてな。薬物がないだけで、善良な市民はスリや恐喝に怯えている……いいところだったよ」
「へーえ? ……やれやれ、わざわざ市民を救ってきたわけだ。さすが優等生様」
口調で現地での状況を察したルーベンが肩をすくめたが、ジェイデンはすかさず当然だと答えた。騎士位を修めただけのことはある。
「貧民街まで行く必要があったのですね。それで……結論は?」
難しい顔をしたカイが答えを急ぐ。バレットコットはイブの故郷であり、彼女の素性調査が今回ジェイデンに課せられた任務だった。
イブの後見人は両親ではなくバレットコットの商会である。事前調査によれば商会に後ろ暗いところはない。だが、平民階級出身であるがゆえに背景調査が難しく直接足を運ぶ必要があったのだ。
「……イブの秘密が分かったよ」
ジェイデンはビリヤードのキューを立てかけて、深く息を吐いた。秘密の暴露にあまり気が進まないようだった。
逡巡は一瞬で、唇を開きエドワードの期待に応える。
「——彼女は十二になったら売られる予定だった」
「……」
しん、と遊戯室が静まった。誰もが正しくその意味を理解した。
キルティング校は爵位のない平民にも開放された平等な学校である。だが、平民に下層の労働階級は含まれていない。学校に在席する平民も、爵位を持たないというだけで基本的には中流階級以上である。
差別化は意図したものではない。そもそも労働階級が学校に通う利点がないのだ。子供だって貴重な労働力であるし、学んだことを活かす場もない。それが下層の労働階級の現実である。
「戦争で父親の命と母親の右足を失っているんだ」
ジェイデンは調査の結果を続け、話せば話すほど遊戯室の空気はピンとはりつめた。
イブの背景を追ったジェイデンは、調査が進むにつれて中心地から離れた場所に導かれ、貧民街の入口に辿り着いた。貧民街にしては治安のいい区画で、今は義足の母親が一人で暮らしている。
そこから全てを暴くのは楽な作業だった。イブの友人も、商会の人間も、通っていた教会から売られるはずだった娼館まで——全てがジェイデンの前に暴かれた。
イブはろくでもない場所に売り飛ばされる前に、商会という働き口を手に入れた。当時十歳、商会の人間はその時のイブをよく覚えていた。まだ子供とはいえ、商会に拾ってもらえなければどうなるか、よくわかっていたのだ。そうやって自分を売り込み、自分が生きるためのお金を稼いでいる。
不幸な身の上で懸命に生きる少女、それがイブだった——。
「結論、白だな。ただ、イブがクラブロイヤルに相応しいかどうかは何とも言えない」
じっとエドワードを見つめて、ジェイデンは締めくくった。
それは誰も予想していなかった回答だった。表面的なイブの性格とあまりにも不一致で、すべて嘘だと言われた方が説得力がある。
少なくともクラブロイヤルにとって馴染みのない人種であり、付き合う利点もない人間だという事実だけは明らかだ。イブはクラブロイヤルに相応しくない。敵ではないというだけで、格を落とすとも言える。
「ジェイデン、ちょっと待ってください。昔から商会の従業員で、商会が後見人なら、イブは商会と貴族とのパイプ役を期待されているはずですよね?」
結論の前に、フリッツがぽつりと指摘した。愛らしく首を傾けても、瞳の静かな明達を隠せていない。エドワードが気に入っているのはこういうところなのだから、もっと出せばいいのに、などとルーベンは思ったが口に出すことはなかった。
「なら、じゃあ、どうしてイブは僕たちに商会の話をしないんでしょうか」
問いかけには沈黙が返された。
エドワードだけが、ふむ、と情報を咀嚼する。レモンティーのカップの底で、蜂蜜がどろりと揺れていた。
イブが商会の口利きを望むのなら、それくらい応えてやってもいい。けれどイブはおくびにも出さないし、彼女は商会の話をすっかり忘れて学生生活を満喫しているように見える。
「知れば知るほど、知らない事が増えていくね」
エドワードは新しいおもちゃを前にした子供のように、嬉しそうに目を細めた。
以前、同級生の令嬢方から受けた嫌がらせは、彼女にとってどれほど幼稚で滑稽だったことだろう。生きてきた社会も、見てきた世界も違いすぎる。
「殿下。イブ様を側に置くことには反対しませんが、意見や境遇を知る必要はないかと」
エドワードの好奇心を察知したカイが不満そうに首を振った。この中でイブのいた環境を一番理解できるのはカイであり、エドワードもそれはよく知っていた。
「君が決めるの?」
「これ以上は殿下の耳に入れるのも心苦しい話ばかりでしょう。優先順位の問題です」
「違うね。興味の問題だ」
エドワードは膝の上で指を組んだ。
きっぱりと断言する口調に強い意志が見える。表情は微笑んでいるが、声は無機質だ。
「……出すぎた事を申しました」
「うん、いいよ」
頭を下げるカイを気にするでもなく、レモンティーを口に運ぶ。視線を落とすと、長い睫毛の一本一本が芸術品のように瞳を隠した。カップに触れる唇は淡く色付いて、精悍な青年にはまだ届かない少年特有の端正な口元を作り上げている。
クラブロイヤルの全員がエドワードに尋ねたいことは一つだ。静かに話を聞いていたロニーが、聖書を閉じて膝に置く。
「それで、エドワード。どこまで連れて行くつもりなんですか?」
「うーん……飽きるまで?」
「……」
ロニーは周囲に目配せをした。ローズ、リリー、ビオラは分かっているとばかりに頷き、カイはわずかに眉を寄せている。フリッツは目を丸くして、ジェイデンは困ったように眉を下げた。
ばち、と目があったルーベンが軽く片目を閉じて見せた。
「我が家の許可と、手ごろな伯爵家以上の許可をいくつか取ってある。いつでも動けるよ」
「そう」
エドワードは満足そうに頷いた。
ルーベンがしばらく寮を空けていたのはこのためである。どこまでも連れていく可能性があるのなら、相応の身分を用意しなければならない。養女にしてくれる貴族候補を、イブが加わってからの数週間で捕まえたのだ。
やはりこうなった、とロニーはイブのことを思う。イブ自身は学校を卒業した先もエドワードの側にいることを考えてもいないようだったが、エドワードは“飽きるまで”イブを連れていくのであって、“飽きないな”と笑ったのだ。
王の遊技場に連れ込まれたからにはそう簡単に出られる訳がない。身分が不釣り合いだったとしても。——逃げたいと願ったとしても。
遊戯室の灯が、ゆらりと揺れた。
低く、鈍く、鐘が響いている。重厚な音は頭の中を白く塗りつぶしてくれた。
この冷たい教会の椅子に座っている間は何も考えなくていい。居なくなった父親のことも、今日の食事のことも。義足の母は優しくて、だから苦しそうにしているところを見ると悲しくなる。
もっと楽をさせてあげたい。嫌なことなんて何もない、楽しいことばかりの生活を送ってほしい。だから商会で働いているのに、時々、どうしてか、苦しくなる。
じっとその場で耐えれば、やがて苦しみは鈍く和らいだ。同時に、頭にかかった霧が晴れてゆく。
そうだ神父様はもういないのだった。心を支えてくれたこの場所はもうないのだった。
鐘の音はいつの間にか止んでいた。
そこでイブはこれが夢であることを自覚した。
懐かしい景色、懐かしい音色だ。まだキルティング校にやってきて数か月しか経っていないのに、遠い昔の失われた故郷かのように感じられた。
「夢なら都合のいい景色を見せてくれよ」
ぽつり、と口をついて本音が落ちた。
ひとりぼっちの教会で、イブは椅子に座って聖書を広げる。何度救われてきたことだろう。何度心を枯らしにきたことだろう。楽しかった思い出もたくさんあるはずなのに、教会には誰もいない。せめて大好きだった神父が姿を見せてくれたら、たとえ夢でも幸せになれるのに。
聖書の文字を追っても、するすると目が滑った。くだらないことを考えてしまう。
ただ楽しい学生生活を過ごしたら、商会に怒られるだろうか。友人を作れ、という言葉が言葉通りの意味ではないことくらい分かっていた。貴族が多いキルティング校で沢山の友人を作るのはイブには難しく、それでもどうにか出会えたモリーやリラやエドワードに商会の話を持ちかける気にならなかった。
だってもしかしたら本当の友人に——。
「……」
イブは首を振って馬鹿げた考えを振り払い、怒涛のように過ぎた数ヶ月を思い返す。寒さで寝れないこともないし、空腹を水で誤魔化すこともない、夢のような生活だ。商会にいた頃とは全く異なる毎日が、鮮やかで、目まぐるしい。特にクラブロイヤルに出会ってからは、驚いたり振り回されたりと忙しかった。
いつか遠くない将来、イブは商会に戻るだろう。そして友人や子供たちを捕まえて何度も何度もクラブロイヤルの思い出話を聞かせるのだ。
めちゃくちゃな人たちばかりで、でも、とても楽しい日々だった、と。
「——、」
呼ばれた気がして、イブは聖書を閉じた。きょろきょろと辺りを見渡し、神父の姿を探す。教会の窓からは光の筋が伸びて、大気のかすかな塵を照らした。
声はその光の方向から聞こえてくる。イブは立ち上がり、吸い寄せられるように光の中に進んだ。きっと天使の声に違いない。
「……イブ……——」
——天使の声が、イブの意識を掬いあげた。唸りながら薄く瞼を持ち上げる。
きらきらと輝く金色の髪と、負けず劣らず輝かしい整った顔がいつにもまして眩しい。天使と言っても見た目だけの男が、支度を整えながらイブに声をかけているのだった。
「エ、ドワード?」
「いつまで寝ているの」
「……あー、えーっと、んん?」
頭の中が混乱している。イブはゆっくりと体を起こし、眉間を揉んだ。
見覚えのない景色だ。きらきらした広い部屋で、エドワードは普段の制服ではなく黒のモーニングを着ている。しかも知らないベッドだったもので、何だ夢かと一瞬納得しそうになった。
寝惚けた頭もじわじわと覚醒し、昨夜の記憶を辿って否が応にも状況を理解する。イブはエドワードの部屋で眠り、ちゃっかり朝を迎えてしまったのだ。昨夜の時点ではベッドの中にまでは入っていなかったのに、ベッドの中で目を覚ましたのはどういうことなのだろう。あまり考えたくない。
「……おはようエドワード」
「おはよう。そこのレモン水を飲むといい」
「あ、うん。……うーん?」
指さした先で、ガラスの水差しにレモンが浮いている。手を伸ばせばすぐ届く距離なので、遠慮なくグラスに注いだ。
エドワードがあまりにも普通に話してくるので釈然としない。正装もさらりと着こなして、ステッキとシルクハットも扉の側に準備されている。
ごくりとレモン水を喉に流し込んだ。爽やかな香りの中に微かな酸味が気持ちいい。
「君、商会の犬なんだってね」
「っ! げほっげふっ……」
不意打ちされて、イブは思い切りむせた。どうにか吹き出さずに済んだものの、喉が焼けるように痛い。何度も咳き込むうち、目尻に涙が滲んだ。
すぐ隣で深くベッドが沈んだ。信じられないことに、イブの背中にそっと誰かの手が添えられ「大丈夫?」と労わった。幻聴かもしれない。
落ちついてから、じっと隣のエドワードの様子を窺う。
「……あー、追い出される時がきたってことかな」
イブはバツが悪そうにグラスを置いた。どうやらバレてしまったらしい。街の質屋はまだ金貨二十枚で徽章を引き取ってくれるだろうか、などと打算的なあれこれが頭に浮かんだ。
クラブロイヤルを剝奪されたとしても、キルティング校には居たかった。このまま学校まで追い出されたら、商会に帰った時に大目玉をくらう。それにここでの生活は豊かで恵まれているし、最近は友人たちとの日々が楽しい。
交渉しようと口を開いたイブの頭に、エドワードの手が伸びる。
「間抜けでかわいい寝ぐせだね」
「……身だしなみは見逃してくれよ」
何しろ他人の部屋で寝落ちしたばかりなのだ。話が通じないのがいつも通りで、イブは少し気が緩んだ。
エドワードはイブのはねた髪を指に絡めて楽しんでいる。まさかいきなり髪を引っ張られたりするのだろうかと身構えるが、そうはならなかった。
「——ねえ、今の主人のために鳴いてみせて」
「わんわん。……いやいや」
半分ふざけて返した鳴き声を、エドワードは満足そうに聞いていた。髪に絡めた指を解いて、頭から輪郭にそって滑らせ、イブの頬を包み込む。
恐ろしいほど整った顔が近付く。美しい瞳の色だとか、朝日を浴びて光る睫毛の一本一本だとかに目を奪われて、イブは身じろぎ一つしなかった。神々しい光をまとう天使、こちらの都合なんて意にも介さない王子殿下だ。
鼻先が触れ合うほどの距離で、エドワードは額を合わせる。額と額、頬と手の平——肌を重ねた部分で相手の体温を感じ、エドワードも人間だという事実に頭が混乱する。だって見えている景色と釣り合わない。弧を描く唇の曲線まで完全な美を体現していて、現実とは思えない光景なのに。
淡く色付いた唇が薄く開き、内緒話をするときのような掠れた声を発した。
「主人の顔を忘れないこと」
「……そりゃ、君みたいな綺麗な顔、忘れないけど」
故郷で暮らす年配の知人が見たら、感動で涙し末代まで語り継がれそうだ。この顔にはそれくらいの威力がある。
イブはじっとエドワードを見つめ返した。エドワードの言葉は気まぐれで、難解だ。クラブロイヤルに居てもいい、ということなのだろうか。よく分からない。分からないけれど指先が温かく熱を持つ。
くっくっ、と肩を揺らしながら、エドワードは頬から手を離した。金縛りが解けるように新鮮な空気がイブの肺に流れ込んでくる。
エドワードが纏う空気は穏やかで、瞳には好奇の色があった。やっぱり面白がっているだけで、イブは許容範囲を逸脱しなかったということなのかもしれない。それならそれでまあいいかと気を取り直す。今日はいよいよワシリー教皇がやってくる日で、これからクラブロイヤルたちが応対するのだから余計なことは考えないに限る。だからこそエドワードもこんな朝早くから正装に着替えているわけで——。
「……そういえば、エドワードは何処で寝たの?」
「僕?」
エドワードは立ち上がって裾を整える。オートクチュールであろうジャケットは背中のラインを美しく見せて、まさに王子様そのものの出で立ちだ。
「……僕ってペットを可愛がる性質でね、ペットのためなら何処でだって寝るよ。例えばソファとか」
「ペット?」
また話が飛んだ。婉曲な言葉の意味を考えている間に、エドワードはシルクハットを被りステッキを手にしている。
「そう、色んな所で尻尾を振る困った犬なんだ。イブっていうんだけど」
「へえ……、……。……うん?」
直後、イブは大人しく頭を下げた。
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