ふたりきり
キルティング校は教皇が来訪する週を迎えた。当日は全ての授業を中止し、教員が応対に駆り出される。
来訪は金曜だというのに、月曜からすでに敷地内には見慣れない制服の男達が歩き回っている。聖騎士団の面々だ。彼らはワシリー教皇に先んじて構内に入り、警備体制を確認・調整している。
イブは中庭のベンチに座って、忙しそうな聖騎士団をぼんやりと目で追いかけていた。
聖騎士団は忙しそうだ。教皇がどこかに向かうたびにいちいち警備体制を整えているのだろうか。頭が下がる。
クラブロイヤルのメンバーも忙しそうだ。エドワードを筆頭に、来訪の準備を進めている。聖騎士団との打ち合わせも一回や二回ではないらしい。
さて、イブと来たら驚くほどに暇を持て余していた。礼法の習得が間に合わないため教皇来訪では応対しない予定だし、ロニーが忙しいため礼法の授業は中断している。そしてエドワードが忙しいため勉強会もない。今こそ憧れの部活動の見学をするとき、かと思いきや今週は全ての部活動が中止だった。教師陣も忙しいため仕方ない。
中途半端な空白時間に、ロニーの顔が浮かぶ。鳥肌が立つほど美しいパイプオルガンと、今も抽斗の中で持て余しているサシェ。別のことを考えようとしても、ぽかりぽかりと泡のように浮かんで、頭の中で弾ける。
きっと。考えても仕方がない。どうせイブにはロニーの考えなんて分からない。いい人だと感じる。誠実で、丁寧に礼法を教えてくれる。神学を修める優秀な生徒の一人で、故郷の神父のように他人のために動くことができる。きっと将来はエドワードに上手く利用されてしまうのだろうけれど、少なくとも彼自身は裏も表もない人物だ。
なのに、底知れない何かを感じる。蜂が蜜に吸い寄せられるように、いつの間にか惹き込まれている。どうにか力になりたくなる。
あるいは、いや、おそらくそれこそが、ロニーがクラブロイヤルに招かれた要因だ。
——そんなの、どうしようもないではないか。
今も耳に流れる音楽はイブの心を浮き立たせ、何度目ともわからない鼻歌が自分の体から放たれる。
「……イブ」
呼ばれて顔をあげると、ロニーが目の前に立っていた。声をかけたのはロニーなのに、驚いたように目を丸くしている。
隣に置いていた鞄を地面に移動させて、座れる場所を空けた。しかし、ロニーは口元に手を当てて視線をそらした。
「? ロニー先輩って忙しいんじゃないの?」
「……その曲」
「ん? ああ、最近のお気に入りで——そうそう、曲名を教えてくれないか? 故郷の友人に教えてあげたいんだ」
「……」
手の平に隠されたロニーの口元は、力強く引き結ばれている。目は大人びた静けさを保ち、清らかな空気感は何一つ変わらない。けれど仄かに耳が赤みがかっている。まだ名残る冬の寒さのせいなのか。
「曲名は……まだ決めてないんです」
「へえ、古典じゃなかったんだ。じゃあ田舎には出回ってないよな……」
当てが外れてしまって、イブは唸った。これでは友人への紹介は難しい。友人、というより子供たち、だ。前の神父に代わってイブが教えていた子供たちは皆、音楽が好きだった。同じ曲ばかり歌っていたので、新しい曲はきっと喜ばれるのに。
黙り込んでしまったロニーの顔の前で、ひらひらと手を振る。
ロニーは、はっと気が付いて、静かな瞳に再びイブを映した。その一瞬で、穏やかな微笑みを取り戻している。
「エドワードがイブを気に入る理由が、分かった気がします」
「そう?」
「イブの言葉も、態度も、いつもまっすぐですね。それが僕たちには心地いい」
「……リラの方がよっぽどまっすぐだと思うけど」
「心根の話ではなくて……いえ、やめましょう。礼法を学ぶ過程で失ってしまわないよう、僕が気を付けます」
「ふーん?」
それは単純に、失礼な態度が好まれるという意味に聞こえる。イブにはよく分からなかった。リラの助言を思い出すならば、エドワードには飽きて捨てられた方がいい。ロニーの言葉から考えると、礼法にそのヒントがある。
一瞬で面倒になって考えるのをやめたイブの前に、テトラバッグが差し出された。先日と同じ光景だ。
「……ええと」
差し出されたサシェに、どう反応すればよいのか困った。何しろロニーは絵画に見た聖者のように穏やかに微笑んで、色恋沙汰の欠片も感じさせない。
「追加です。そろそろ数もそろってきましたか?」
「追加……」
「ほら、ご家族に送ると言っていたでしょう……僕、お手伝いしますって言いませんでしたっけ?」
ロニーは無垢な瞳で首を傾げた。恋のおまじないだか何だかが、まるで低俗な噂に感じられる。だってロニーは純粋にイブを手伝ってくれていたのだ。
本当に心の綺麗な人だ。澄み渡った瞳を守りたくなる。
「あっはっは、もう、紛らわしいな」
イブは観念して笑った。
捨てられない感情なのだと諦める。リラに忠告されたってどうにもならない。ロニーは特別だ。
無条件に抱いた好意がイブを不自由にする。なのにそれを心地よくも感じるのだから始末に負えないのだ。
それから数日。聖騎士団は構内の警備を万全にし、ワシリー教皇の来訪はいよいよ明日へと迫った。合唱部や演劇部など一部の部活はワシリー教皇の前で発表を予定しており、日が暮れてからも練習に打ち込んでいる。教師陣からも緊張が伝わって、何もしていないイブですらこのイベントが大変なものなのだと理解する。
しばらく不在にしていたジェイデンや外泊が多いルーベンもクラブロイヤルの寮に戻り、しっかりと準備を整えた。久しぶりに揃ったクラブロイヤルの面々は、夜まで教皇来訪に向けての大詰めを行っていた。
一方、イブにはやはりすることがない。クラブロイヤルとしての役割を免除されて気楽なものだ。真剣な打ち合わせを邪魔しないように夕食は自室で済ませた。明日の準備も早々に終えて、ベッドに足を突っ込む。
聖騎士団は見慣れてきたが、明日には教皇も見られるなんてまだ実感がわかない。何か失礼をしてしまう距離で接触することはないけれど、なぜか少し緊張した。大講堂で行われるというワシリー教皇の講義も楽しみだ。ロニーのおかげでイブにも最低限の知識は身についた。
横になるにはまだ早い時間だった。イブはベッドの上で身体を起こし、ソーイングセットを広げて最後のサシェを作った。これが完成したら、手紙と合わせて故郷に送る予定である。喜ぶ顔よりも驚く顔の方が浮かんで、ふ、と笑みがこぼれた。
しばらくゆっくりしていると、エドワードの部屋に呼び出された。それを伝えに来たローズは、イブが寝間着だったのを見て困っていたが、気にするイブではない。厚手のカーディガンを羽織ってローズについていく。
寮にやってきてしばらく経つが、三階に上がるのは初めてだった。吹き抜けの談話室から見えていた廊下は、実際に立つとより落ち着いた雰囲気に感じる。エドワードの部屋の扉から出てくるカイと丁度すれ違った。嫌そうな顔をされたが気にせず中に入っていく。
イブの後ろで扉が閉まった。ローズが気を利かせたのだろう。
エドワードはソファで寛いでいた。制服のブレザーを脱ぎ、ネクタイも崩し、リラックスしている。いつだって完璧な姿しか見てこなかったもので、イブは面食らってしまった。
エドワードの手には美しいステッキがあった。初めて見るステッキだ。ローテーブルに同じサイズの新しい木箱があるところを見ると、新しく作らせたものかもしれない。エドワードはその美しいステッキを布で丁寧に磨いているのだった。
「……磨くような汚れもないな」
ぽつりとイブが呟くと、エドワードは顔をあげた。素早い動作だったが優雅さはゆるぎなく、感心してしまう。
「てっきりカイかと思ったよ。よく来たね」
「自分で呼んでおいてよく言うよ。で、何か用?」
「話し相手が欲しくてね」
エドワードは完璧な微笑みを浮かべて、イブに着席を促した。
どこか胡散臭い。だって、エドワードがイブに話し相手になることを求めたことは一度もないのだ。何かを企んでいるのだろうと思いつつ、イブに拒否権はなかった。
談話室にあるのと同じくらい大きなソファの前には、すでにティーポットが用意されている。カップは二つあり、ローズもカイもいない。二人きりの空間でカップに注ぐのは、当然イブの役割だった。
エドワードはステッキを椅子に立てかけ、布や箱を机の端へ寄せた。
「——美しくなったね」
「ん?」
聞こえなかった訳ではなく、理解が出来なくて聞き返した。エドワードはリラックスして、それなのに洗練された動きで、カップを口に運んでいる。
「背中と、指先。ロニーの教育の賜物だな」
「え、あっ、そうか。ふーん」
遅れて褒められたことを理解して、イブは大いに動揺した。くすくすと天使の声で笑われてしまう。つい先週はボロカスに嫌味をぶつけてきたくせに、ころりと評価を変えるなんて。気まぐれはいつものことだが、何だか不公平だ。
エドワードとの時間はゆったりと過ぎた。普通科の授業の話とか、クラブロイヤルになってからの学校生活の変化だとか、とりとめのない話ばかりをぽつぽつと交わす。普段よりも空気が緩んでいて、くすぐったいような居心地の悪さを感じる。
学校でのエドワードは天使が地上で姿を結んだかのようだが、今はちゃんと学生に見えた。天使のような立ち居振る舞いは意図したものだということだ。礼法を学んだからこそ、頭が下がる。
「ロニーはどう? 相性は悪くなさそうだね」
「うん、まあ……まあまあかな。君の知る通り凄い人だよ。同じ学生だとは思えない——だからクラブロイヤルに選んだの?」
「へえ、気になるんだ」
エドワードの声に意地の悪さが滲む。揶揄うような表情は、それだけで相手を魅了してしまいそうな絶妙な雰囲気を醸し出していた。
イブは怯まない。この際、聞きたいことはすっきりさせておく。
「リラに聞いたよ。クラブロイヤルは王の遊技場と呼ばれているそうだね」
王位継承権を持つ学生が入学したときにのみ設けられる特権階級、それがクラブロイヤルだ。正真正銘、未来の国王を育むための組織であって、将来的な味方を作る場所でもある。
「君、いずれロニー先輩を利用するつもりなんだろう。あんないい人を弄ぶようなことしたら駄目だよ」
「ははっ、酷い言い草だね」
エドワードは鼻にしわを寄せて笑った。天界から舞い降りたに違いないエドワードが、年相応に楽しそうにしているように見えた。
それは一瞬のことで、瞬きしている間にもう天使の美しい顔に戻っている。
「何がどう見えているのかは知らないけど、ロニーはいい友人だよ。僕たちは同じ夢を見て、未来の地図に理想の国を描く」
「同じ夢ねえ」
ロニーはエドワードと意気投合したと言っていた。ロニーの目標は正教を聖書によって導くこと、そしてそのために識字率を上げることだと理解しているが——そんなもの、エドワードが望むとは思えない。それにエドワードの曖昧な表現は、絶対に分からせる気がない時のそれに見える。
エドワードはにっこりと微笑んだ。
「つまり単に気に入ってるってことさ。君のこともね」
「……へー。光栄だな」
青みがかったグレーの目線をまっすぐ受けて、イブは大きな欠伸を隠さない。ふわあ、と声まであげたので、エドワードの肩が楽しそうに揺れた。
壁にかかった時計は十時を過ぎたところである。話し相手という役割からはそろそろ解放されたい。
「ねえ、もう眠いんだけど。エドワードだって明日は早いんだろう。もう寝たら?」
「まだ寝る時間じゃないかな。君が一眠りしたいっていうなら、そこのベッドを使ってもいいよ」
エドワードの視線を追いかけると、続き部屋になっている寝室からベッドらしき家具が見えた。
夜。男の部屋で二人。広いベッドと、寝間着の女子学生。必要な要素はそろっている。
学園内なら絶対に口にしないであろう言葉に、イブは片眉を上げた。
「王子殿下がなかなか不用意な発言じゃないか?」
「ここには君しかいないのに?」
エドワードの微笑みはどこか挑発的だ。
これでイブが愛人の座を狙う女学生だったらどうするのだろう、と思いつつ足をベッドに向ける。
「……ふーん。じゃあ遠慮なく転がってみようかな」
「どうぞ」
イブは王子殿下のベッドがどんなものなのか興味があった。カイに見つからないうちに試してみたい。
天蓋はついていないが、横向きに転がっても充分寝られる幅の大きなベッドだ。純白のシーツによって皺ひとつなくベッドメイキングされている。まだ交流はあまりないが、おそらく銀の徽章を持つビオラが手配したものだろう。皺どころか、埃ひとつない。
柔らかな雪原に足跡がつくように、そっと触れた手のひらの形に皺が寄る。少しずつ体重を乗せると確かな弾力で包み込まれ、シーツは肌に吸い付くような滑らかさだ。
「おお……」
感動してしまった。イブの部屋のベッドにも感動したものだが、これは段違いだ。
腕を組んで生温かく見守っているエドワードの目の前で、思い切り身体も倒してみる。
気持ちがいい。どれだけ体を伸ばしても、マットからはみ出ることがない。
きらきらと顔を輝かせるイブの頬に、エドワードの影が落ちた。
「不用意なのはイブの方じゃないかな」
「ここには君しかいないのに?」
にや、とそのまま言葉を返してやる。
エドワードの目が丸く開かれ、直後に暗く細められた。シーツの上に投げ出した手に、一回り大きな指が絡む。動かす間もなく、指の一本一本にしっかりと。
「だからだよ」
囁く声は、普段よりもずっと近い距離で聞こえた。
イブの手はシーツに深く沈む。強引に、というよりはただエドワードの体重を支える力が加わっただけであって、イブの手がむしろ邪魔になっているかのように錯覚させられた。
残念ながらイブが着ているのは色気も何もない毛玉のついたぼろい服だ。故郷で家が近かった男友達のおさがりで、ほつれを何とか繕って部屋着にしただけのものである。一方、エドワードときたら部屋着まで真っ白で糸くずの一つもなく、素晴らしい調度品がかすむほど美しい。
ちぐはぐだ。
鼻が触れそうなほど間近で浴びる天使のような微笑みも、それでいて足を絡ませるのも。美しい空間で異物のように浮いているイブも。何だかおかしくて笑ってしまうのに、固まる手足も。
「——そういうつもりで呼び出したの?」
「……まさか」
ふざけすぎたね、とエドワードは身体を起こした。イブを押さえつけていた手が離れ、身体が軽くなる。少し乱れた裾が、エドワードを人間らしく見せた。
エドワードは口元の笑みを絶やさなかったが、じと、とイブを見下ろす。下から見ても美しい造形の顔だった。なぜか軽く頬を引っ張られる。
「……そうあからさまにほっとされると、聖人のような心をもってしても魔が差すね」
「あっはっは、エドワードが聖人だって!」
イブは口を大きく開けて腹を抱えた。エドワードは聖人というより天使だし、天使の心を持っていないらしいことはもう知っている。
そんな意地の悪そうな目をして、何を言っているんだか。
イブは上機嫌でベッドを転がり、くすくすと笑った。
「楽しそうだね」
「……ふふ、ベッドも気持ちがいいしね」
柔らかすぎず程よい弾力がまたいい。寒さを一切感じさせない毛布と、一瞬で眠ってしまいそうな触り心地のシーツも最高だ。
ベッドを堪能してバタバタと足を動かしていると、呆れ交じりの目を向けられる。
「イブはそんなことが楽しいの?」
「うん」
悪趣味な冗談もされた割に、いい夜だと本気で思った。身体は温まっていて、ベッドは最高で、緩んだ空間が心地いい。あれだけ礼法がどうとか言っていたくせに、エドワードはイブに小言を言わないし、むしろ楽しんでいるようにも見えるのだ。
奔放だね、と呟いた声に非難の色は一切なかった。
「だって……そろそろ頃合いだろ」
イブはごろりと転がってエドワードに背中を向けた。夢は覚めるものだと知っていた。
その時、イブの頭に手の平が乗った。前兆はなく、突然のことだった。その指先はいたずらに髪を弄び、さらりと流す。存外丁寧なその手つきが、得も言えぬ眠気を誘った。何もしていない癖に——何もしなかったからこそ疲れている自分に気付く。
まずい、と思う心と裏腹に、瞼と体が重たくなっていく。
「ふふ……本当に聖人かもしれないな」
エドワードの声はもう遠い。
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