神の音楽
早朝の暗闇の中、小鳥のさえずりで目を覚ます。クラブロイヤルの寮に移動した初日の朝は、すこぶる良好な身体状況とともに始まった。せっかくの日曜だからもっと眠ってもいいのだが、ゆっくりと体を起こした。
寝惚けた頭では見慣れない部屋の景色をまだ夢の中かと錯覚する。重たい瞼を擦るうち、徐々に頭が回ってきた。
かつてないほどよく眠れた。隙間風に凍えることもないし、窓からの冷気はカーテンで遮断されている。ふかふかのベッドは二段じゃないし、枕とクッションが合わせて六つもある。平民向けの寮でさえ実家より整っていて驚いたというのに、そこよりさらにいい生活ができるとは。元に戻った時のことを考えると少し怖いくらいだ。
クローゼットを開けると、皺ひとつないシャツと臙脂色のジャンパースカートが並んでいた。いつの間にシャツのアイロンをかけてくれたのか分からないが、新品のように生まれ変わっていた。イブが繕ったボタンだけが斜めについていて、それでやっと自分のシャツであると判別できる。もしかして、と足元を見ると、昨日フリッツに酷評された靴はぴかぴかに磨き上げられていた。
「……」
慣れない。イブの持っている制服を並べるだけならこんな大きなクローゼットはむしろ不格好だし、服だけきれいにしたところでそれはきれいな服を着ただけの庶民だ。エドワードのように誰の目にも光り輝く存在にはならないし、異邦人には変わりない。
朝食にはまだ早い時間だった。最低限の身だしなみを整えて、イブは付近を散歩することにした。
廊下を歩いていると厨房から物音が聞こえてくる。すでに使用人の仕事は始まっているのだ。邪魔をしないようそっと寮を出て、早朝の冷たい風にぶるりと身を震わせる。春が近いなんて嘘みたいだ。吐いた息が白く風にのびた。
顔を上げると明らんだ紫の空に桃色の筆を走らせたような雲が浮かんでいた。それが故郷でみたのと同じ綺麗な景色だったので、何だか不思議な気持ちになる。
しばらくすると、空を見上げるイブの耳に何かの音色が聞こえてきた。
「……?」
イブには何の楽器なのかはわからない。そして少なくともイブの知らない曲だ。けれど聞いていてどこか懐かしく温かな気持ちになる旋律である。
気になって寮の門番に声をかけたところ、門番は快く教えてくれた。
「これは礼拝堂の音ですよ。毎朝この時間にパイプオルガンの練習をされているんです」
「礼拝堂……ああ、ここか」
生徒手帳によれば、クラブロイヤルの寮の近くに礼拝堂がある。早朝の澄んだ空気の中、その音色はよく届くようだ。
「ありがとう、行ってみるよ」
イブは意気揚々と礼拝堂に向かった。
王立キルティング校は元々神学校として設立された学校である。神父を認定することができる数少ない学校の一つでもあるのだ。今回のワシリー教皇の訪問も神学校としての歴史が大きく影響しているらしい。
礼拝堂の外観は、地元の小さな教会に似ていた。慎ましやかな白壁に縦長の木製窓が並んだ質素な建物だ。両開きの木製扉の上に嵌め殺しの大きな丸窓が据え付けられている。屋根は青みがかったグレーで、風見鶏の位置に飾り気のない十字架が掲げられていた。
しばらく胸やけするような豪華な生活ばかり見てきたので、どこか懐かしくてほっとする。きっと、中から聞こえるパイプオルガンの音色が穏やかで心地いいからでもあったのだろう。
イブは演奏の邪魔をしないようにそっと扉を押し開けた。
その瞬間、神の音楽がイブの体を通り抜けた。パイプオルガンの荘厳で重厚な音はより鮮明に響き、心臓から魂まですべて洗われるような不思議な心地になる。
礼拝堂には朝日を受けて鈍く光る十字架と、その十字架に捧げるように指を動かす男子生徒の姿があった。
「——……」
声も、僅かな動作も、呼吸すら演奏の邪魔になる気がしてイブは押し黙った。唇が震え、鳥肌がたつ。走馬灯のようにこれまでの人生が思い起こされ、天の国にも思いを巡らせる。
しばらくそのまま立ち尽くした。
演奏が終わる頃、イブの頬は濡れていた。
「……?」
自分が美しい音楽を聴いて涙を流す人間だとは思わなかった。信じられない気持ちで、ひとまず濡れた頬を袖で擦る。
と、横から柔らかなハンカチが当てられた。
「こら」
「……エドワード。早いね」
エドワードも朝の散歩だったのか、一人でイブの後ろに陣取っている。遠慮なくハンカチを借りると、じっと見られていることに気が付いた。
「……まさか僕が話す前に会うなんてね」
小さく呟いて、エドワードは男子学生のもとに歩いていく。
演奏の合間、静かな礼拝堂に靴の音がよく響いた。ようやく気付いた男子学生は驚いた顔をして振り返った。
もう、イブにも予想できる。
「おはよう、ロニー」
思っていた通りの名前でエドワードが呼ぶと、ロニーはふわりと微笑んだ。清らかな空気を纏って、エドワードとは違った意味で人間離れして見える。あれだけ美しい音色を生み出せるのも納得だ。澄んだ朝露しか口にしないのではないかと思ってしまうような、どこか儚く透明な人だった。
ロニー=ツイルは子爵家の嫡男だ。金の徽章を持つクラブロイヤル最後の一人である。三年生ということもありイブやエドワードより背は高く体格もしっかりしているのに、この人を守ってやらなければならないような気にさえなる。
「おはようございますエドワード。あと、初めまして、イブ」
「えっ、あっ、は、はじめまして」
不意を突かれてイブの声はひっくり返った。歌うような澄んだ声を正面から浴びて、上手く体を動かせなくなる。鳥肌だってまだ収まっていないのに。
イブ、とエドワードに呼ばれて、我に返る。礼拝堂の内側に進んで二人に近寄ると、エドワードの笑顔は相変わらず完璧なのにどこか彫刻のような印象をうけた。
「例の件ですね。カイから話は聞いていますよ」
ロニーは鍵盤を閉じて楽譜を抱えた。
「うん、任せるよ。教皇の来訪には間に合わないだろうけど、いずれ必要になるし」
「そうですね」
何の話なのかさっぱりわからないのに、二人は同時にイブを見る。
「……うん?」
イブの前に、ロニーの手が差し出される。よくわからないまま握手を返すと、思いのほか温かく骨ばった指の感触が伝わってきた。
「若輩者ですが、イブに礼法を教えることになりました。これからよろしくお願いしますね」
礼法。
昨日聞いたばかりの話が思い出された。クラブロイヤルに在籍する以上、礼法の習得は必須である。普通科に残ることを決めたイブには、特別に礼法を学ぶ機会が用意されたのだ。
「でも、ロニー先輩の迷惑じゃないか? 礼法の授業だけ特進科に混ぜてもらおうかと思ってたんだけど」
「いいんですよイブ。むしろ光栄です」
「ロニー先輩……」
なんていい人なのだろう。時間を奪われるのは間違いないのに、本当に嬉しそうに春の微笑みを浮かべてくれる。瞳は力強く、心からイブのために教えようとしているのだとわかる。
「それに迷惑をかけるのは私の方かもしれません。正式に他人に教えるのは初めてですから」
「正式に……?」
「妹や従姉妹相手なら、少し」
ロニーは控えめに微笑む。
イブにはよく分からないが、親戚相手とはいえ、学生にして教える立場を経験しているのは凄いことではないのだろうか。
「ツイル家は優秀な家庭教師を多く輩出している家系なんだよ。それに敬虔で、真面目で、優秀だ」
エドワードが親しげにロニーの肩を叩くので、イブは目を見開いた。この、美しく、天上からやってきたような男がこのように絶賛する様を初めて見た。透明感のある空気といい、歌うような声といい、ロニーはいったい何者なのだろう。そんな考えも、ロニーが口を開けば吹き飛んだ。
「きっと素敵なレディになります」
「……れでぃ」
まるで初めて口にする言葉だ。くすくすとエドワードは笑っているし、くすぐったい響きである。
でも、ロニーの澄んだ瞳が真っ直ぐにイブに向けられていたもので。
——何だか本当になれるような気がしてしまったのである。
クラブロイヤルに提供される素晴らしい料理の数々は本当においしいのに、たちまちつまらないものに成り下がった。イブのすべての食事はロニーと共に、あらゆる個室やテーブルで行われる。円卓、立食、屋外など、とにかく様々な状況を経験させるというのがロニーの方針だった。
初めて真面目に取り組む礼法は、煩雑で規則性がなく意味も見いだせず、イブは苦手だ。頭で理解するのにも時間がかかるのに、身体にまで叩き込まないと意味がないというのだからお手上げである。もし令嬢に生まれていたとしても無理だったのではないかと思えた。
ロニーは優しく、そして厳しかった。イブに寄り添って、できるまで根気強く付き合ってくれるし、語気を荒げることなくずっと優しい言葉で指摘してくれる。なのに無作法を見逃すことはないし、できるまで根気強く付き合ってしまう。結果、昼休みはいつも時間が足りず、放課後は歩き方や座り方の練習で手一杯だ。憧れの部活動がまた一歩遠のく。
近頃はエドワードも忙しそうにしている。ワシリー教皇の来訪が要因なのは明らかで、フリッツやローズ、カイも時間がないようだった。ジェイデンはしばらく不在にしていて、ルーベンも女のところに居るのか不在のことが多いので、クラブロイヤル同士しばらく顔を合わせていない。
当然、それならばロニーも同じように忙しくて然るべきだが、そんな素振りをイブには見せない。初めて礼拝堂で会った時の印象のまま、透明で、清らかで、優しい。朝は礼拝堂に行けば素晴らしい演奏を聴くことができて、その度に泣きそうな気持ちになる。イブを見つけて微笑むロニーと朝食をとる時間は、大変だけれど不快ではなかった。むしろロニーのことは——。
「……ブ……ねえ、イブったら」
可愛らしい声に、イブは顔を跳ね上げた。リラが心配そうにイブを覗き込んでいる。
クラブロイヤルの寮に移動して一週間。貴重な休日の午後をリラと過ごしているのに上の空なんてもったいない。しかも、せっかくリラが貴族寮の自室に招待してくれたのだ。
「……貴女、大丈夫なの? かなり疲れてるみたいだけど」
「まあ大したことないよ。……で、ごめん何の話だっけ?」
リラの、意志が強く美しい瞳が陰るのは、どうも動揺を誘う。イブはへらへら笑顔を浮かべ、同時に笑い方にも作法があったことを思い出し、少し嫌な気持ちになる。
「なかなか大変みたいね。ローズ、ラベンダーの精油とニルギリをお願い」
やれやれ、とリラは息をつく。リラックスした表情だが仕草や姿勢は礼法を遵守した美しいものである。自分で習い始めたからこそ、リラのそれが洗練されているのがよくわかった。
「リラを尊敬するよ。こんなに手強い教科もないね」
「あら、礼法のことなら大丈夫よ。裁縫やピアノと一緒だわ。問題にならないレベルならすぐ身につくわ。小手先の技術ですもの」
「そういってもねえ」
その小手先の技術ができなくて苦しんでいるのではないか。根気良く付き合ってくれているロニーがキレたっておかしくないくらい不出来な自覚がある。
イブは口をとがらせた。
「第一、リラはローズに頼むのも慣れているだろう。私は頼みごとばかりするのは居心地が悪いんだよ」
「あら、“慣れ”だって分かってるじゃないの」
ふふ、とリラは揶揄うように笑った。ローズが用意したニルギリのティーポットを自然と受け入れている。リラの部屋には他にもジャガード家から連れてきた使用人がいたが、ローズを中心に動いていた。イブは一生慣れない——というより慣れてはならない気がするが、今は仕方がなかった。礼法はクラブロイヤルになったイブの義務らしく、断ったら特進科行きである。
同じくローズが持ってきたラベンダーの精油が入った小瓶には、淡い紫色のリボンが巻かれていた。リラは蓋を外して、一滴垂らしたハンカチをイブに手渡す。いい香りだ。ラベンダーの香りは知っているけれど、野草のラベンダーに比べると草っぽさを減らして上澄みだけを凝縮したような香りだ。強く香っても不快というよりもむしろ脳を溶かされるような感覚がある。リラの部屋の香りと同じで、リラックス効果があるらしい。
「これは私からイブへのプレゼント。最近頑張ってるものね」
ここで値段を考えるのは野暮だ。
「ありがとう」
「ポプリやサシェにするのがおすすめよ」
「それって、恋人にプレゼントするってやつ?」
普通科の女学生が騒いでいるのを聞いた覚えがある。おまじないだったか、意中の人に渡すといいことがあるらしい。結ばれるんだったかお守りになるんだったかはすっかり忘れて記憶にないが。
「まあイブ! 貴女って知れば知るほど意外なところばっかり!」
リラは目を丸くして、たちまち破顔した。面白いことを言ったつもりはないが、楽しそうでとてもかわいい。
「ええ、そういう噂もあるわね。もとは帝国の文化なのですって」
「へえ」
女生徒に好まれる噂だけが帝国から王国に輸入されたわけである。停戦状態が長く続いたことで友好的な交流も生まれているととらえられる。
「イブ。だから間違ってもエドワード殿下にはプレゼントしちゃ駄目よ」
「なんで私が」
「イブ」
ふざけているかと思いきや、予想外に真剣な表情をしている。何だか気圧されてイブは息を呑んだ。
「貴女はクラブロイヤルになってしまったの。これ以上貴女を手元に置く口実を増やさない方がいいわ。飽きて捨てられるのが一番いいんだから」
「大袈裟だな」
「あの方々に人生を滅茶苦茶にされたくないでしょう?」
酷い言い草だったが、ローズが口を挟むことはなかった。わかったわかった、とイブは頷く。リラのクラブロイヤル嫌いも筋金入りだ。
「リラはクラブロイヤルの生徒はみんな面倒な奴だと思ってるの?」
「勿論……といっても、ローズは別よ。リリーとビオラもね」
まだ会っていない銀の徽章を持つ二人の名前が出てくる。ローズを見ていれば、銀の徽章がまともで、とんでもなく優秀なのはよくわかる。そうでないとクラブロイヤルの生活は崩壊するのだからさもありなん、だ。
ふーん、と納得しかけて、思いとどまる。
「じゃあ、ロニー先輩は? 優しくて礼儀正しくて……そんな嫌な人には見えない」
「ええ……そうね、確かに彼はまともね。クラブロイヤルであることを鼻にかけないし、それに紳士的でいい人だわ」
リラは腕を組んで厳しい顔になる。
「でも、だから怖いんじゃない。そんな人がクラブロイヤルに入れるわけないもの」
「それじゃあ本末転倒じゃないか」
「だってね。いくらロニーが素晴らしい人格でも、ツイル子爵家はこの学校において高い身分ではないわ」
「フリッツも子爵家じゃないか」
「子爵と言っても彼は帝国の皇族筋だもの」
リラに言わせれば、ロニーはクラブロイヤルに入れる身分ではないらしい。その辺りの感覚は、イブには全く分からなかった。ただ、たしかに銀の徽章を持つカイが伯爵家出身で、ロニーのツイル子爵家よりも身分が上なのは違和感がある。
「……でも庶民の私がクラブロイヤルに入るよりは自然だろ」
「そうね、だから貴女と同じようにエドワードが気に入ってクラブロイヤルに入れたってことになるわ」
そこが問題なの、とリラは眉間の皺を深くする。それでもかわいいのはもはや才能だ。
「ねえ、あのエドワードよ? ただの聖人君子を気に入るわけがない」
「そうかな……?」
フリッツは裏表のある生徒だったが、ロニーは心の澄み渡った人に見えた。浮世離れしたその佇まいがエドワードの興味を引くのは十分あり得るように思う。
——どんな人間がクラブロイヤルに選ばれるのか、イブはまだ分からない。イブが選ばれたのは、創立以来初めての女性奨学生で、平民で、エドワードにとって物珍しいからだったとして、他の生徒は。
聡明なローズはきっと真相を知っているのだろうが、静かな表情のまま口を開くことはなかった。
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