高貴なる寮
頬のこけた男が浅く瞳を開いている。茨の冠を戴いて深く項垂れ、静謐な眼差しは神秘的だ。骨の浮いた素肌を大きく晒し、腰布を巻いただけの簡素な服装である。そして両手足は、背負った十字架に釘で打ちつけられていた。
なんと痛ましい姿であろうか。心を痛めてしまうほど、木製の十字架に据え付けられた石膏像は素晴らしい。初めて見た時は近所の教会にあった十字架よりもずっといい出来栄えだったので驚いた。平民向けの寮でさえこの出来なのだから、王立キルティング校の懐事情も窺い知れる。
「ふあぁ……」
大きな欠伸の音でイブは瞼を持ち上げた。胸の前で手を組んだまま隣に目をやると、髪を左右にまとめた女生徒が眠そうな目をしている。同室のモリーである。
「呆れたやつめ」
「別にいいでしょお。ちゃんと祈ってあげたわよ、イブのこと」
同室のよしみとして、と言いながらモリーは再び大きく欠伸をする。
最後の日にしてはおざなりな祈りだ。膝をつくこともなく、一呼吸置くほどの時間もかけていないだろう。いや、思い返せば普段からこうだったし、故郷にもこんな子供は山ほどいた。そのたびに年老いた神父が哀しい顔で説教したものだ。イブはその顔にとても弱かった——
「——……懺悔室にでも行った方がいいんじゃないか」
「どうしてよお。ちゃんと毎日祈りを捧げて、教会に寄進もしてるのよ」
ちっちっち、と舌を鳴らすモリーに返す言葉もない。
イブは苦笑して、大きく膨らんだ革の鞄を手に下げた。
「まあ、忘れ物があったら取りに来るよ」
「はあい。じゃあばいば~い」
「ああ、また」
分かっているのかいないんだか、モリーはひらひらと手を振った。涙の抱擁なんて交わさないし、別れも惜しまない。寮を出たら会う頻度もぐっと減るだろうに、こうも締まらないものか。そもそも、世話になった場所と表現するには短い寮生活だった。
イブは一人そっと寮を離れた。
土曜日の昼下がり、遊ぶ生徒の姿がまばらに見える。制服を着て読書していたり、あるいは運動服を着てクリケットに興じていたりと、服装も時間の使い方も様々だ。
これまでならそれだけだった。誰の関心も集めることなく、好きなように休日を満喫していた。けれど今となってはどうだ。イブに気付いた生徒は目を見開き道を開ける。あるいは、遠巻きに噂話をしたり、顔も知らないのに挨拶をしたりする。ある事情でイブの学校生活はがらりと変わってしまった。
冬の青空を受け止めて、襟の上でヒナギクの徽章が金色に光った。この徽章こそ、イブの生活を変えた事情そのものである。重くないかと聞かれることもあるが、小指の先ほどの大きさの徽章が重いわけもない。
「イブ!」
校舎の前を通り過ぎるところで、男子生徒に声をかけられた。片手を上げ笑顔を浮かべていても、知らない顔なので反応に困る。
「今日からクラブロイヤルの寮なんだっけ」
「俺達のことなんて、あっという間に忘れんじゃねえの」
二人の男子生徒はたちまちイブを取り囲み、紳士的と言うには強引に鞄を取り上げた。どうやらイブの荷物持ちをしたいらしい。
忘れるも何も、覚えてない。思い出せないのではなく話したことがないはずだった。クラブロイヤルの徽章を受け取った日から、このような生徒が増えた。
一般庶民であるイブは第一王子であるエドワードの手でクラブロイヤルの地位を与えられた。そして歴史上、公妾が権力を握った例なんていくらでもあるということだ。
「なあ、お願いだよイブ。殿下とお近づきになりたいんだ。口利きしてくれないか」
案の定、男子生徒二人してイブに縋る。
「ええ? 無理だよ」
「でも殿下が庶民の女をクラブロイヤルに入れるなんて前代未聞だ。頼みは何だって聞いてくれるんだろ」
「そんなわけないじゃないか」
「——言ってごらん」
押し問答を遮ったのは、歌っているような澄んだ少年の声だった。振り返ると、予想していた人が微笑みを浮かべていた。
天使と見紛う美貌、青みがかったグレーの瞳——エドワード殿下その人である。後ろに従者のカイを引き連れて、歩道の中央を我が物顔で——王立校なので実際我が物なわけだが——闊歩している。
「ほらイブ。上手くねだれば叶うかも」
少し顔を傾けるだけの仕草にも気品があり、同じ学生とは思えないくらい。口を開けて惚けている男子生徒二人からは、さぞかし無邪気な天使のように見えているだろう。
ふむ、と一瞬考えて、イブは人差し指を立てた。
「じゃあ靴でも舐めてもらおうかな」
返事はなかった。煌めいた微笑みは崩れることなく、見事なまでの無視だった。静かな歩道にカイの舌打ちが響いた。
「な、駄目だっただろう」
諦めたほうがいい、と男子生徒二人の肩を叩いた。彼らは口を半開きにして何ともいえない顔をしている。せっかくエドワードと話すチャンスなのにそう固まってしまっては仲良くなれないのに。
——口利きするなら今ではないのか。
イブは気を利かせてエドワードに向き直った。
「エドワード、彼ら君とお近づきになりたいんだって」
「「……!」」
男子生徒は二人して飛び上がった。真っ青だ。そんなに緊張しているのだろうか。
へえ、と呟いたエドワードは二人が持っている荷物に手を差し入れた。意図を察してか、イブのものであるはずの革の鞄はエドワードの手に収まる。大きいほうの鞄はカイが、通学用はエドワードが肩にかけた。使い込まれたぼろぼろの鞄だというのに、エドワードが身に着けると歴史的価値がある鞄にも見えてくる。
エドワードは二人に応えることなく、目を細めた。
「ねえイブ。そういうのは言わなくても断ってくれないと」
「そうか。駄目だってさ」
仕方ないのでそのまま伝えてやる。二人はいや、とか、あの、とか口ごもって要領を得ない。オチカヅキが失敗して可哀想だけれど、イブには励ますくらいしかできない。そうだ、明るい笑顔を浮かべて。リラの前向きな声を思い出して。
「まあまあ、落ち込むなよ。ほら、君たちのほうがエドワードよりずっといい男だからさ」
「……ふぅん」
「「っ‼」」
気のせいでなければ、男子生徒たちは悲鳴に近い声をあげた。エドワードの微笑みから一目散に逃げ去っていく。
エドワードはその背中を目で追うこともしなかった。
「それが君のやり口?」
「うーん、気遣いって難しいね」
「気なんて遣われてないけど」
「なんで君に気を遣うんだよ」
「だからおかしいって話をしてる」
「……あー、なるほど?」
イブは何となくエドワードの言わんとするところが分かってきた。王子殿下は最優先であることを御所望らしい。つまり、絶対王政というやつだ。この学園でエドワードは至上の存在であり、優先されるべき特権階級である。イブも特権階級クラブロイヤルに加わったはずだが、対等には程遠い。
「エドワードは校舎にでも用なの? 先生方は休日でほとんどいないはずだけど」
エドワードが持ってくれている鞄を引き受けようと手を伸ばすと、くるりと体の向きを変えてその手ごと無視された。
「?」
気のせいかと思い、再度手を伸ばすが届かない。イブの鞄を持ったまま歩き始めてしまった。
まるでイブの手助けをするために迎えに来てくれたように見える。
「……いやに紳士的じゃないか」
「勘違いしないでください」
なぜかカイが答える。イブが金の徽章を受け取ってから言葉遣いや対応が不気味なほど変化し、丁寧に扱ってくれるようになった。それでも受ける印象が変わらないのは、びしびしと憎悪や苛立ちが飛んでくるからだった。もしそれらが質量を持っていたら、イブはとっくに死んでいる。
「イブ様はクラブロイヤル専用寮に部外者を連れていらっしゃる可能性があったので、迎えに上がりました。案の定でしたね」
仄暗い色をした目は心の底からイブを軽蔑している。イブが知らない生徒に絡まれるのは、カイに言わせればイブのせいらしい。
「おや、じゃあ君は冷やかしに来たの?」
揶揄うようにエドワードを見つめると、まさか、と笑い飛ばされた。と同時に、雑に投げられた鞄がカイの腕に収まる。中の荷物が動いた音がする。モリーに貰った餞別のクッキーはつぶれたかもしれない。
「あのねえ。私の鞄なんだ、癇癪を起こさないでくれよ」
「カイに託しただけだよ。僕は学長室に用がある」
じゃあ、と軽く笑って、エドワードはそのまま校舎の方へ消えていった。ただ歩いているだけなのに後ろ姿まで優雅だ。隙のない美しさはこの王国を背負う上で頼もしい限りである。
いつか遠くない将来訪れる未来を想像する。彼の整った美しい顔や人間離れした麗しい立ち居振る舞い。その頭には宝石がごろごろした冠を戴き、王城や議事堂を自分の部屋のように歩いている。年嵩の大臣を一声でねじ伏せ、騎士や侍女を跪かせるのだ。
王城も議事堂も知らないイブが図録で補った想像は、下手なパッチワークのようにちぐはぐだ。かといって直接見る機会も一生ないだろう。今、クラブロイヤルの座を得ているのはエドワードの気まぐれであって、卒業したら縁もゆかりもない他人になる。それが学生というものである。
イブは想像を諦めて、カイの隣を歩いた。嫌そうな顔をされた。
王立キルティング校は丘一帯を敷地とする広大な学園である。庭だけでなく森や湖が目を楽しませるように作られ、南側に位置する正門から校舎までの道中は馬車が欲しくなるほどの距離がある。入学の時に歩いたきりのその道を逆向きに辿ればすぐにクラブロイヤルの寮である。
学園内に突然あらわれる大きくて豪華な門と装飾のついた柵状の塀が、他者の侵入を拒む。門番や警備員まで配置しており、厳重な警戒態勢だ。学園の敷地は正門や石塀ですでに十分警備が行き届いているのに、である。
この広い空間をたった九名の生徒が占有して生活している。クラブロイヤルの寮は、寮というよりは貴族の豪邸だ。建屋自体は貴族寮の方が大きいが、一部屋の広さが段違いらしい。
寮に入ると、扉の側にローズが控えていた。相変わらず髪の毛を赤いリボンでまとめ、見慣れない給仕服の襟にもしっかり銀の徽章を着けている。カイと同じ銀のヒナギクは、金のヒナギクを身に着けたクラブロイヤルの身の回りの世話をする役目を示す。同じクラブロイヤルと言っても立場は全く違うのだ。
クラブロイヤル専用の設備を保持できているのは、銀のヒナギクを持つ彼らが業者への委託やその管理を含めて担っているからだった。あくまで学生でありながら従者等の仕事もこなすのは、素直に尊敬できる。しかも彼らは元々特進科に通えるような貴族なのだ。
「やあローズ。給仕服もかわいいね」
「……ありがとうございます。紅茶の準備が出来ています」
あっさりと流され、談話室のソファに案内される。紫がかったロイヤルブルーのソファの側にはラナンキュラスが飾られていて、ローテーブルに用意されたティーセットからは湯気が漂う。ガトーショコラまで添えてあって、一体いつの間に用意をしたのかさっぱりわからない。
「こんなに丁寧にしてもらわなくてもいいんだけどね」
「では今後そのように」
ローズは一言で頷くと、ソファに座ることなく静かに壁際まで下がった。カイはイブの荷物を持ったままどこかに消えてしまったし、せっかくの吹き抜けの談話室も今は他に誰もいない。
とりあえず、ガトーショコラを一口いただく。
「……」
もしかして今後ずっと主人と使用人の関係なのだろうか。イブがちらりとローズに目をやると、さっと側によって来た。もはやローズは通学する必要なんてない。すでにその道のプロフェッショナルだ。
「……今は果物の気分だな」
「承知しました」
好奇心を抑えられずに呟いてみるとすぐに、イチジク、オレンジ、レーズンを載せた皿が運ばれてきた。
「音楽を聞かせてくれる?」
「承知しました」
ローズは談話室の木製家具に金属の円盤を入れてねじを巻く。すると、てっきり棚だと思っていたそれが美しい音色を奏で始めた。オルゴールだ。
「……このレーズンを鼻に詰めてみてよ」
「——品位が問われる言動はおやめになったほうがよろしいかと。ですが、承知しました」
「いい、いい、やめてくれ。充分だ」
イブは深く息を吐いた。
金銀のヒナギクが意味する立場の差はよく分かった。ただ従うのではなく諫めもするなんて、本職に遜色ないどころかむしろ、その中でも優秀な侍女や執事がすることではないのだろうか。
「じゃあ、一緒に食べない?」
「承知しました。念のためお伝えすると、叱責を受けるのは私です」
今度は普通に誘ったつもりだったのに、予想していなかった返事が返ってきた。
イブは顔を曇らせる。
「あー、もう。面倒だな」
「自室にいらっしゃるクラブロイヤルの方にお声をかけましょうか」
「あのねえ、私が話したいのは君なんだよローズ。せっかくだからかわいい君と仲良くなりたいの」
「……承知しました。役不足かもしれませんが」
ローズは両手を前で合わせ、壁側から進み出るとイブの側に立った。それが、“問題ない”と判断できる最低限の距離のようだった。食事や飲み物をイブの前で口にすることはなく、美しく伸ばした姿勢を寛げることもないのだ。
ローズはクラブロイヤルの寮について軽く説明してくれた。本当はローズ自身の趣味趣向の話も聞きたかったが、今日のところはと妥協する。
寮は五階建てくらいに見えたが、実際は三階建てに屋根裏と地下室が付いた構造だ。天井が高く、生徒がリラックスできるように作られている。特徴的なのは入口すぐの談話室で、吹き抜けからは上階の扉が見える。二階は金の徽章を持つ学生の部屋で、一階と三階に共用の部屋があるらしい。ただし三階はほとんどエドワード専用フロアだというから驚きだ。
「それじゃあ私の部屋は二階になるのかな?」
「本来ならそうですが、女性はおひとりですし一階にご用意いたしました」
「へぇ。隣の部屋はローズ?」
「いえ、カイ様です」
「なんだ、案外ちゃんとしてるな」
「……」
イブはイチジクを手に取って噛り付く。種の食感が楽しく、実は甘くて美味しい。
イブが金の徽章唯一の女性だから、という表向きの理由をつけた割に隣室がカイだなんて意図を感じずにいられない。おそらく監視だ。エドワードが素性が分からない庶民をクラブロイヤルに入れるなんて言い出したものだから、警備との兼ね合いが難しいと見える。かといって金の徽章持ちのイブも丁重に扱うべき存在であり、板挟みになった下の苦労が偲ばれた。
「じゃあ、これでも食べたら部屋に行くとしようかな。今日中に片付けてしまいたいし」
もう一口、イチジクを齧る。
「部屋の片付けでしたらすでに終えています」
「……えっ?」
イブはぱちぱちと目を瞬かせた。寮に到着してから、まだローズとのティータイムしかしていない。ボケボケしているうちに貴族にされていた。別に触られて困る荷物もないが、なんともむず痒い。
「銀の徽章を持つビオラが担当しました。不足や要望は何でも申し付けください」
ただ、とローズは言葉を濁した。
「追加の荷物がいつ頃届くか、イブ様はご存知でしょうか。事前に一般寮の管理人や外部の業者に確認は取ったのですが力及ばず……」
ローズの表情は全く変わらないが、困惑しているのが分かった。またイブの知らないところで貴族的なことが行われている。追加の荷物とやらが何のことなのかさっぱりだ。
「うん? 私の荷物はさっきの鞄に入るだけだよ」
「……私服やドレスが一切ありませんでしたが」
「そうだね。ないからね」
休日である今日も制服を着ているのは、楽だし私服の類を持っていないからだ。学生生活に支障はないし、寝間着の一着も頭数に入れて欲しい。
ローズは僅かに目を開き、軽く頭を下げた。
「ご用意します」
「いいよ、そんなお金払えないし」
イブは半分笑いながら手を振った。用意されても、むしろ困る。
しかし、ローズには伝わらなかった。
「カタログがあるのでオーダーの参考にお持ちします」
「え? あ、ちょっと!」
イブの制止も聞かず、頭を下げてどこかに行ってしまう。服を買うお金は本当にない。どちらかというとそのお金で教科書や参考書を購入して将来に投資するのが賢い選択だ。
けれどあっという間にいなくなってしまったので、仕方なくイチジクを齧る。これが最後の一口だ。果汁で汚れた手を布巾で綺麗にし、紅茶も貰うことにする。
——バタン。
扉の音がして、イブは振り返った。ローズは仕事が早い、と感心していたら、そこには見知らぬ少年が立っていた。イブを見つけてじっと固まっている。
「……えーと?」
イブは入学時に覚えたクラブロイヤルの名前を全員分思い出す。まだ会ったことがないのは四名だが、当然全員がキルティング校の生徒のはずだ。しかし目の前の生徒は到底その年齢には見えなかった。十歳、精々十三歳くらいにしか見えない。どちらにせよキルティング校に通える年齢ではない。
少年は丸みを帯びた愛らしい顔立ちをしていた。ぴょこぴょことはねた髪の毛は年相応で、くりっとした深緑の目からは利発そうな印象を受ける。オペラにでも行けそうな服装を見るに貴族ではあるのだろうけれど、ここはクラブロイヤル専用の寮のはずだ。
誰かの親戚か、と納得しかけたところで少年は不快そうに顔をゆがめた。
「おい、ローズ!」
愛らしい声が談話室に広がった。吹き抜けなので三階まで届いたかもしれない。
大変優秀な使用人であるローズはすぐさま談話室に駆けつけた。足音一つ立てず、速やかだったものでイブは驚いた。
「……鼠が紛れ込んでいる」
少年は顎でイブを示した。
「質の低い業者にでも頼んだか? 不審者を入れるな」
「——何か問題がございましたか、フリッツ様」
答えたのはローズではなく、カイの声だった。もはやいつ談話室に入ってきたのか分からないほど気配がない。
そして、おかげさまでイブは少年がクラブロイヤルの一人であることを理解した。
フリッツ=リブ。隣のブーハ帝国から留学してきた子爵家嫡男である。
「カイ、君がいながらどうしてこんな……」
「フリッツ様、彼女は本日からこちらで生活されます。襟元に金の徽章が」
「!」
フリッツはイブの徽章を確認すると、改めて頭の上からつま先までじろじろと眺めた。顔は険しく、一昔前のカイと同じ表情である。
「あんなの、どうみたって下級庶民じゃないか。礼儀作法もなっていないし靴も汚れてる。普通科の生徒だってもっとマシだろ」
「…………、……。……イブ様は一般階級出身ですので」
随分長い空白だった。カイの言葉は丁寧だったが、本心では絶対に同意している。
ますます困惑しているフリッツにローズが頭を下げた。
「失礼いたしました。配慮が至らず、お二人ともにご迷惑をおかけしました。お召し物は明日までに対応いたします」
「……」
人の外見に酷い言い草だ。服装だって普通の制服のはずなのに問題ありとはどういうことだろう。礼儀作法が求められるのであればクラブロイヤルでやっていけるわけがない。もしかして寮を移動した当日に平民の寮に送り返されるかもしれない。
面倒になってきて、イブは紅茶を飲んだ。フリッツの目元がひくついたのは見えたが、追い出される前にローズが用意してくれた果物を食べておきたい。
レーズンを口に投げ込んだところで、イブの肩に手が添えられた。口を動かしながら見上げた先で、エドワードが極上の微笑みを浮かべている。校長室の用事は終わったようだ。
「イブ、寮はどう?」
「……とりあえず、豪華だね。居心地はまだ分からないな」
少なくともフリッツやカイはイブと同じ空気を吸うのも嫌そうだ。ちら、とフリッツの顔色を窺って、イブは目を見開いた。
先ほどの不機嫌そうな少年は何処にもいない。
「エドワード! おかえりなさいっ」
代わりに現れた愛らしい笑顔の少年は、エドワードのもとに駆け寄った。誰だ。驚くべきことに、そんなフリッツをカイは睨んでいない。イブがエドワードと話そうものなら殺意が飛んでくるというのに。
イブは思わず口笛を吹いた。殺意が飛んできたのですぐに口を閉じる。
「ねえ、エドワード。僕にも彼女を紹介してください。二年生のことはあまり知らなくって……」
「ふふ、構わないよ。彼女は奨学生でね。こう見えて普通科で首位を取り続けている」
「……イブ=ベルベットだ。よろしく」
「……よろしくお願いしますっ。フリッツ=リブです」
フリッツは照れくさそうに笑う。そこに嫌悪感は全く見えず、新しい友人への親愛に満ちていた。
「エドワードは聡明な方がお好きなのですか? 僕も頑張って勉強しないといけませんね」
「聡明か……うん、聡明だね。それに面白い」
ぽんぽん、とイブの肩が叩かれる。相変わらず犬か何かだと思っているらしい。そりゃあ王子殿下にとっては野良犬なんて物珍しくて面白いだろう。
「……はいっ面白そうな方ですね!」
フリッツもその丸い瞳をくりくりにして、何度も頷いた。エドワードは会話を成立させる気があるのか疑わしいくらいだが、フリッツだって大概だった。ここは外交や社交の場に過ぎないのだとよくわかる。つまり、友好を深めるのは結果ではなく目的なわけだ。
エドワードはフリッツと共にイブの正面のソファに居座った。ひと息つくくらいの間を空けてローズがティーセットを運んでくる。イブが貰ったのと同じガトーショコラのセットだ。当然のようにカイとローズの分はない。
「ところでイブ、特進科にはいつ移る?」
ゆったりと一口だけ紅茶を口にして、エドワードは微笑んだ。神々しくもあり、見るだけで喜ぶ信者がどこかにいそうだ。
「……って、え?」
笑顔に流されそうになった。
特進科に転科するだなんて、イブは聞いていない。
「まさか、まだ普通科に通うつもりだったの?」
「いや、特進科なんて無理だよ。奨学生の条件は上位五位をキープだからね」
特進科は、普通科より全体的にレベルが高いというだけでなく、科目まで異なる。特進科では政治学、礼法のほか、近隣諸国——すなわち帝国の言語や公国の歴史まで学ぶという。要は将来的に国の中枢を担う若者を教育する場所なのである。首席のエドワードもいるなかで上位をとれる気がしない。
そうなったら単純に学費が払えず退学だ。借金だらけでクラブロイヤルを追放された学生なんて過去にいただろうか。
「イブ、この学校において学費免除は奨学生だけじゃない」
「……クラブロイヤルは学費免除だなんていわないよね?」
「勿論。食費や家賃も免除に決まってるだろう」
「無茶苦茶いうなよ」
ここにきて、私服を持っていないイブにローズがカタログを用意した理由が分かった。節約するとか、最低限の生活で済ますとか、そういう概念がないのだ。
クラブロイヤルは王立キルティング校の特権階級である。寄付金も潤沢であり好き放題させたって何の問題もないのだろうが、イブは違う。
「とにかく、私は普通科のままでいいよ。そもそも特進科の科目に興味もないし」
「そう? イブが望むならそうしようか」
「でもエドワード、礼法はいるんじゃありませんか?」
丸く収まりそうだったのに、フリッツが口を挟んだ。頬に手を添えて、心配そうに顔を傾けている。声に出さずにカイも頷いていた。
礼法とは、貴族の子息が身に着ける社交界のマナーや礼儀作法の話である。フリッツに一発で庶民だと言われてしまったイブは論外と言わざるを得ない。
正直、不要だ。興味もない。そんな気持ちを込めてエドワードを見たのに、彼は何度も頷いている。
「——そうだね、来月にはワシリー教皇が来ることだし」
さらっと口にした言葉に、談話室中の空気が固まった。
公国のワシリー教皇なら平民のイブだって知っている。アンジューリ王国、ブーハ帝国、ゼルマニア公国の三国で信仰される正教の頂点だ。
国賓と呼んでいい人物がキルティング校にやってくる。
「悪いけど、“興味ない”ではすまされないんだ」
申し訳なさそうな言葉に反して、エドワードはとてもいい笑顔だ。
クラブロイヤルの大きな責務の一つに来客対応があるのだが、誰もイブに教えてくれることはなかった。
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